魔法がなくても構わない
どこまでが「にわかファン」なんだろう。
かれこれ6年もの間、あまりにもaiko一筋で生きてきたため、浮気の加減がわからない。
たまに他のアーティストに惹かれることはあるものの、大抵ちょっと聴いたら自然とフェードアウトしてゆき「やっぱりaiko!」となってしまうんである。
逆に、どっからがにわかじゃないファンなんだろう。
CDを買ったら?ライブに行ったら?でも、友達に誘われてあんまり興味ない人のライブに行くとかもあるしなあ。
ううん、やっぱりよくわからない。
なんて考えてしまうのも、著書のエッセイを読んでからというもの、すっかり星野源が好きになってしまったからである。
とはいえわたしは、CDを買ったり情報を欠かさずチェックしているわけではないため、ファンを名乗るのは生粋のガチファンに対してどこか後ろめたく感じてしまう。
謙遜を込めて「ややにわか」とでもしておこうか。
*
さて、前置きがたいへん長くなってしまったが、ややにわかファンである星野源のお話をしたいと思う。
「くだらないの中に」という曲をご存知だろうか。
2011年に発売された、彼の1stシングルだ。
https://youtu.be/DCwynUEaHuw
以前から好きな曲ではあったのだけど、さっき野菜スープをつくりながら何気なく聴いていたとき、すごく刺さった歌詞があった。
魔法がないと不便だよな マンガみたいに
一見、ん? と引っかかりを感じる文字列である。
というのも、不便って、一般的に普及しているものとか、普段手元にあるものがないときに使う言葉じゃないですか。
「車がなくて不便」とか「塩が切れてて不便」とか。
なのに、「魔法がないと不便」。
でも、一旦その言葉を噛みしめて考えてみると「確かにそうだよなあ」と、言わざるを得ないと思うのだ。
魔法のない世界に生きるわたしたちは、困ったことが起こってもぜんぶ現実で解決しなきゃいけない。魔法の対義語が現実かどうかは、置いといて。
でも、そんな不便な日々でさえ、
君が笑えば解決することばかり
なのである。
限りなく魔法に近い現実。
そんな「君」の存在で、くだらないの中に愛が生まれてゆく。
髪の毛の匂いを嗅ぎあって
くさいなあってふざけあったり
ちっとも綺麗じゃない、かっこよくもないけれど、あたたかな日常が目に浮かぶようなこの歌い出し。
お互いをアクセサリーにするような付き合いじゃ、こうはいかない。
以前このエッセイでも書いたように、ナチュラルな親密さを築くためには、お互いをさらけ出しあって許しあえるような関係になることが、必要不可欠なのじゃないかと思うのだ。
首筋の匂いがパンのよう
すごいなあって讃えあったり
いや、その例えが浮かぶあなたがすごいわ!と、何度も突っ込んでしまうほどに好きな歌詞。
髪の毛の匂いや首筋の匂いばっかり嗅ぎまくって、いったい星野源は何をしてんねん。でもめっちゃわかる。
*
恋人と二人で過ごす時間は、大抵いつもくだらない。
でも不思議なことに、それはちっとも退屈さや無為さ(なんて言う?)と比例しないのだ。
恋人のへんな口癖を真似したり
わたしの理屈っぽい考え方が移ったり、
夜中のコンビニでアイスを買ったり
だらしない格好でテレビを見たり。
おなかが痛くなるくらい笑ったあとに隣で眠り、目がさめるとそばにいる。
日常に根付くのは、寝起きのぶさいくな顔とかそういう、ちっともかっこよくないことたちばかり。
しかし、そんなくだらないの中でこそ感情は動き、互いの存在は次第に大きくなってゆくのだと。
わたしはとても、そう思う。
僕は時代のものじゃなくて
あなたのものになりたいんだ
恋人が隣で笑ってくれる限り、
わたしは魔法がなくても不便じゃない。
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