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凪いだ心で待つ春の

そういえば春が苦手だった。
新たな人間関係を構築するためにお互いを探り合いながらも皆どこかそわそわと浮き足立っていて、それを助長するかのように空気も生ぬるくぼんやりとしており、おまけに容赦なく花粉が飛び交う。頑丈な体が取り柄のわたしだが、そんなふわふわした非日常感がどうにも苦手で、3月と4月は毎年きまって熱を出した。

小学生のころ、クラス替えの最重要事項はもちろん「好きな人と同じクラスになること」だったのだが、その次に重要だったのは「給食を残させてくれる先生が担任になること」だった。
給食が嫌いだった。当時はうんと好き嫌いが多くて、味付けの濃い肉や魚をおかずにしないとご飯を食べられなかった。だから、筑前煮と白菜の煮びたしなんて献立の日はもう最悪で、いったいどうやってこれで米を食えというのだと憤りにも近い思いを抱きながら、ほとんど手を付けることなく残していた。我ながらよく空腹に耐えられたものだと思う。
だから、お残しに厳しい担任にあたった年は毎日が戦いだった。配膳係に小声で「少なめにして」と懇願するのは毎度のことで、先生の目を盗んでは食いしんぼうの男子(必ずクラスに一人はいた)へこっそりお皿を回していた。そのくせ、「世界には食べれへん人もおるねんで」と毎日あきれたような顔をして言ってくる人のことが好きだった。

そんなわたしが、ひとつふたつと嫌いなものを克服していったのにはいくつかのきっかけがあった。中学時代、部活の合宿中にあこがれの先輩がサラダをもりもり食べているのを見て以来、それまで断固拒否していた生野菜をすすんで食べるようになったし、大学生になってカフェでアルバイトを始めたとき、まかないに添えられるプチトマトを残すのが忍びなくて無理やり飲みこむうち、難なくたいらげるようになっていった。
そのほかにも、椎茸やピーマンといった定番どころから、長年避けて通ってきた煮物類全般まで、 苦手だったのにむしろありがたがって食べるようになったものは、大学生以降に多数ある。これが世にいう味覚の変化というやつか。菜の花の天ぷらや椎茸ステーキなんかの旨さに目を細めるたび、わたしはしみじみそう感じた。

今年は、これまでに比べるともっとも変化の少ない春になりそうだ。入学も卒業もクラス替えも、履修登録も引っ越しもないし、職場環境も自分の立場も変わらない。ストレスの要因となりうる変化たちとまるっと無縁でいられるなんて、まあなんとありがたいことか。
とはいえ、来年以降もそうであるとは限らないし、むしろそうあってはならないとも思う。だからせめて今年は、予定外にあまったエネルギーをせいぜい内側へ向けてみたい。苦手意識を変えるきっかけなんて、案外自分の中に眠っているのかもしれないのだから。

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