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小さな春の話

観たい映画が吉祥寺でやっていたので、三鷹行きの各駅停車に乗り込んだ。
日曜日の午後3時半。昼間と夕方のあいだに位置する中途半端なこの時間が、一日の中でいちばん好きだなと思う。車内はがらがらに空いていて、向かいの窓から外の景色がよく見えた。
3月初日の東京は、最高気温が17度にものぼったのだという。春のはじまりにふさわしく、やわらかな光に満ちたあたたかい日だった。

車内に流れる空気が心地良くて降りるのが惜しくなったので、終点の三鷹まで乗り、歩いて吉祥寺方面に向かった。小さな川沿いには早咲きの桜や梅がたくさん、反対側にある住宅からは、外壁をはみだしてミモザがこぼれ咲いている。
あちこちに目をやりながら、ゆっくり歩いて15分程で井の頭公園に差しかかる。室内の遊戯を制限された家族連れやカップルがわんさと溢れ、普段の週末と変わらぬ大変なにぎわいだった。

この公園には、一人きりの人が少ない。
楽しそうなカップル、疲れたようなカップル、仲睦まじい家族連れ、泣き喚く子供をあやしながらも険悪な雰囲気の漂う家族連れ、の四種類が圧倒的多数を占める中、ぼんやりと歩くおばあちゃんや、どんなカテゴリに属すのか想像のつかないおじさん、きりっとした体つきのランナーなどがちらほらと見受けられる。
ひさしぶりにマスクを脱いで気に入りの口紅を塗り、いつもより胸を張ってひとり歩くわたしは、この人たちの目にどんなふうに映っているのだろう。

通り抜けるだけのつもりだったが、なんとなく流れる水を眺めたくなってベンチを探す。
ずいぶん歩いたところでようやく空いている一台を発見し、わたしはほっと腰を下ろした。

くすんだ太陽の光が水面に落ちて、一筋の淡い道をつくっている。白にほんの少しだけオレンジと金をまぜたような色をしたその道が、流れる水の動きに合わせてきらきらと反射するさまを本当に綺麗だと思った。長い時間そらさずにずっと眺めていたら目の奥に星が散ったので、ぎゅっと強くまぶたを閉じた。

水辺のベンチには、いろいろな人が座っていた。
おしゃれなマウンテンバイクを立てかけて本を読むおしゃれな若者や、単語帳を開いて勉学に勤しむ学生風の男の子、売店で買ったであろう惣菜とロング缶のビールを手にした楽しげなカップル。その後ろには、生足をむきだしにして地べたに座りこみ、ほろ酔いチューハイを飲む女の子三人組、わたしと同じようにただぼんやりと水をながめるおじいちゃん。

本格的なウェアに身を包んだ男性が、わたしのすぐ後ろでストレッチをしている。どこからか、ハーモニカとギターに合わせて歌う声が途切れ途切れに届いてくる。
気づけば、太陽はさっきよりもずいぶん低い位置に浮かんでいた。おだやかに時間が流れる日曜日の午後だった。

そんな折、大学時代の先輩から連絡をもらったので、映画を観るのはやめにして渋谷へ向かうことにした。
電車の中で、さっき買ったばかりの本を開く。以前友人に借りて読み、このたびどうしても手元に置きたくなってようやく購入した一冊。ひとつの話が1~2ページにおさまるくらい短いエッセイをあつめた作品集だ。

前書きを読んだだけで、はじめて出会ったあの日と寸分違わぬ感情にもう支配されている。

誰にでも伝わる平易な言葉しか用いていないのに、悔しいくらいおもしろいのだ。
食べることや作ることが好きな彼女は、なんでもない日常のできごとに、自分の感情や想いをやさしく絡めて言葉を紡ぐ。そのあまりの完成度の高さとさりげなさに、思わず体が熱くなるくらい「ずるい」と思った。

わたしとほとんど年の変わらない彼女の持つ(であろう)数々の宝物に思いを馳せる。
魅力的な人々との強固なつながりや、コツコツ積み上げてきたまばゆい実績、何年も書き続けられる強さと妬ましいほど豊かな感性、そしてそれを言葉で表現できる素晴らしい力。
なんにもずるいことなんてない。すべて彼女が自分で手に入れて磨いてきたものばかりだった。ちなみに本の名前は『わたしを空腹にしないほうがいい』、書いたのはくどうれいんさんという方です。

「物事を始めるのに遅すぎることはない」とはよく聞く話だし、たしかにその通りだと思うけれど、若さの持つ価値というのもまた少なからず、ぜったいにあるだろうとも思う。
わたしは今年で24歳になる。人生スパンで考えるとまだ十分に若いがしかし、創作をおこなう人間としては、若さを売りにできる段階はもう通り越してしまったのではないだろうか。磨く努力を怠った自分の末路を想像するとぞっとした。

何者にもなれなくて結構だと思っていたが、やっぱりわたしは何者かになりたいみたいだった。見知らぬ人々で混みあった電車の中で、うっかり泣きださないようぎゅっと目に力を込めながら、わたしも本をつくるのだと、強くかたく心に決めた。

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