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だから走る

超が付くほどの恋愛体質なのに、なぜだかずっと遠距離恋愛をしている。

叶うことなら、24時間365日好きな人と一緒にいたい。そう願ってやまないのになぜだか、本当に何故だかひと月に一度しか恋人に会えない恋愛をしている。

離れてから一週間~二週目前半は、まずまず健やかな心で過ごしていられる。
だんだんと雲行きが怪しくなってくるのは二週目後半~三週目あたりで、四週目以降はもう最悪である。

「さびしい」なんていう言葉だけでは、到底言い表せるものではない。 
もっともしっくりくるのは「切望」ないし「渇望」あたりだろうか。

体がちぎれそうなくらい好きな人がいて、あろうことかその人もわたしを好きだという。
そんな信じられないくらいうれしいことが起こっているというのに、今日も明日も明後日も、その体温にふれることができないのだ。

23歳の刹那的な若さが今この瞬間にも消費されていくというのに、その姿を好きな人に見てもらうこともできない。
それらはちょっと生きる意味がわからなくなるほどに、わたしにとって絶望的なことである。

人肌恋しさが募るにつれて、精神が限界を迎えるとともに、体のまんなかに空洞が生じていくような感覚をいつも覚える。
それと同時に、比喩でもなんでもなく物理的に、じりじりとした痛みが頻繁に体じゅうを走るようになる。

はたして同じような人がいるのかどうかわからないが、物心ついた頃からわたしはずっとそんな体質だった。

J-POPよろしく胸の奥がじいんとしびれて息が止まるのはしょっちゅうで、二の腕から指先、太ももからつま先までをたどるように、脈打つような痛みを感じるのだ。
くどいようだが、ものの例えではなく物理的な痛みである。

ずっとそんなふうなものだから、当然、日常生活にも支障をきたしまくってきた。
次に会えるまでの絶望的な長さを思うとベッドから起き上がることすらままならず、酷いときには友人との約束を反故にしたり、仕事を休んでしまったりしたこともある。

現実と向き合うのがあまりに嫌で、一日の大半を眠って過ごし、目が覚めるたびに絶望してまた無理やり目を閉じる。そんな日々が、月に数度のペースで律義にやってきた。

「こんなの良くないに決まっている」

目先の寂しさから逃避しているだけで、なんら根本的な解決にならないことばかりを何度もくり返す自分に、いいかげん嫌気が差した。
変わりたいと強く思った。そんなとき、以前ある人から「体を動かしてみてはどうか」というアドバイスを受けたことを思い出した。

運動。それは、Googleで「遠距離 寂しい 無理」などと検索するとまっさきに表示されるほどにポピュラーな解決策ではあるが、いかんせん運動音痴で体を動かすことが大嫌いなわたしは、なんとなく見て見ぬふりをし続けていた。

しかし、そんな贅沢を言っていられないほど事態は深刻さを増してきている。
そこで先月、ようやくスポーツジムへの入会を果たしたのだった。

生まれてはじめてのスポーツジム。
自主的に運動をするのなんて、好きな先輩と少しでも一緒にいたい一心で、肺活量を鍛えるという口実のもと山道をランニングした高校生のとき以来のことである。

はりきって買ったピンクのニューバランスと真新しいウエアに身を包むまでは良かったが、放置型&時間帯無人のジムに入ったがゆえ、初日はマシンの使い方もさっぱりわからない有り様だった。

動画を見ながらおっかなびっくり筋トレらしきものをこなし、転んだらどうしようとびくびくしながら時速6キロの設定で懸命に走って、記念すべきデビュー日をなんとか終えた(余談だが、後日先輩に「早歩きの速度じゃん」と爆笑された)。

しかし、ひとたびやり方を覚えると、二回目以降はもうこっちのものだった。
動画を見なくてもマシンを使えるし、重りだって2.5キロから10キロに増えた(増えた)。
時速6キロだったランニングは時速9.5キロにまで成長し、途中で休まなくても30分は走り続けられるようになっていった。

とはいえ、日ごろの運動不足がたたり、1時間弱の滞在でもへとへとになってしまう。
へとへとになるがしかし、運動のあとには必ず、ものすごく健やかな自分が現れるのだった。

運動をしていると、しんどい。
体がとってもしんどいから、まず精神にかまける余裕がない。

呪いのように常時憑りついている深刻な人肌恋しさから解放される、その素晴らしさたるや。世界はこんなにも清々しいものだったかと、目の覚める思いがするほどであった。

そう、肉体的な疲労というものは、精神を病むことよりもはるかに楽だったのだ。

こんなにも息があがってたくさん汗をかいているにも関わらず、運動なんて極力避けて生きていきたいと願ってやまない人間であるにも関わらず、圧倒的に、楽。

人肌恋しさゆえに体の節々がじんじん痛み、退勤ラッシュの山手線でしくしく泣いていたあのときよりも、さびしさに殺されかけて鬱々と眠ってばかりいたあの日々よりもあまりに良くて、わたしはびっくりしてしまった。

なるほど、身体的にはもちろん、精神的な健康にも効果的らしい。
どうりで猫も杓子も運動を推奨するわけである。

月額7,000円ちょっとの利用料は、今のわたしにとって決して安い金額ではないけれど、人肌恋しさからの解放に課金していると考えれば惜しくはないと思っている。

桁外れの人肌恋しさ。

ときに笑い飛ばされ、ときに呆れられ、何度も手放したいと切実に願ったこの体質は、しかしどうしようもなくわたしの核をなしている。

わたしは多分、一生わたしから逃れられない。
見つめるほど底なしで恐くて逃げ出したくなるけれど、手っ取り早いごまかしはどうしてもその場しのぎにしかならないから、どんなにださくても、向き合うことをやめずにいたいと思えるようになった。

根本的に変わることはできないかもしれないが、一番じょうずな付き合いかたを模索することは、なんとかあきらめずにいたい。
まずはひとつ、踏み出して実践できた自分のことを、以前よりちょっと好きになれたような気がしている。

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