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映画のなかの音

映画のなかの音というのは、なんだか特別な響きを持って耳に届く。

特に際立つのは、“生っぽい”、すなわちフィクションみの少ない映画のなかにある、なんてことのない生活音だと思う。
ほとばしるシャワーの水音、かすかな衣擦れ、ポーチのファスナーを閉める音、ひかえめな鳥のさえずり、コンビニの安っぽい来店音、店員のけだるそうな挨拶の声、ビニール袋を開くかしゃ、という音。

画面にうつる彼ら彼女らの為す所作は、そのいちいちが丁寧でうつくしいので思わず見とれる。
お芝居だから当たり前なのだけれど、乱雑さのなかにも秩序が、何気なさのなかにも計算が確かに息づいていて、そのしぐさの一つひとつと、それによって生じるさりげない音に、何度だって魅せられてしまう。
自分だって同じような動作をくり返して毎日生きているはずなのに、何かが決定的に違うのだ。

そんな映画の鑑賞直後は、“現実”の現実感がすっかり薄れてしまっていることが多い。
今日は、大好きな小説が原作の映画「ふがいない僕は空を見た」を観たあとにコンビニへ出向いた。
会計を済ませてカフェラテのカップを片手にコーヒーマシンの前に立った瞬間、突如淡い混乱をおぼえる。

金髪の女性が店内へ入ってくると同時に飛びこんできた道路を車が走る音、店内の軽薄なBGM、バーコードを読みとるレジの音、店員のくぐもった話し声。
たしかに現実であるはずの音たちが、さっきまで映画のなかにあったそれらのように、うすい膜を張ってどこか非現実的な響きで耳に届く。

息をひそめてあたりをうかがう自分と、慣れたようすでマシンを操作する自分、そしてそれらを冷静に観察する自分が共存していて、とても奇妙な心地がした。

もちろんここは映画のなかではない、わたしの生きる現実だ。
音が特別なふうに聞こえたのは、あくまでもさっき観た映画の余韻がなせる技であって、今いるのはまぎれもなく現実の世界。しかし思えば思うほど、いったいだれがどうやって、それを証明することができるっていうんだろう?

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