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わたしらしさに彩りを

思いかえせば、小学生の頃からわたしは人肌恋しかった。
とんだませガキだったと思う。いやらしい意味など何もなく、というか知らず、ただ好きな人と一緒に眠れたらいいのにと毎夜のように考えていた。

好きな人と隣の席になったとき、身を寄せ合っておしゃべりしている最中にふれた左腕が、たまらなく熱かった。
百人一首のかるたを好きな人と同じ班でやることになったとき、その人がわたしのそばにある札を取るたび、体をかすめていくのが待ち遠しかった。

ただ好きな人にふれていたい。ずっとそう思っていた。
子供心に、なんて言葉を使ったら、勝気でませていた当時のわたしはたちまち怒り出すに違いない。

三つ子(でもないけれど)の魂百まで、とはよく言ったもので、その頃すでにわたしのアイデンティティはほぼ完成していたといって良い。
お互いの意思を持ってはじめて好きな人とふれたのはそれから何年もあとのことだったけれど、ただ一緒に眠りたいと切望したあの頃からずっと、わたしは人肌に焦がれている。

依存というにはあまりにも切実で、われながら情けない話だが、そこを否定したならば、わたしは消えてなくなってしまうだろう。

先日、水族館に行った。
アナゴの水槽の前に来たとき、思わずわたしは足を止めた。水槽の大部分に余白を残し、まんなかの鉄管の中に所狭しと身を寄せ合ったアナゴたち。明らかに窮屈そうだった。

説明書きを見ると

「接触走性の魚
"触れる" ことで安心するアナゴ」

とある。
なんと。触れることで安心する、というジャンルがこの世にあったとは! わたしは目から鱗の思いだった(魚だけに)。

後日調べてみると、走性とは「方向性のある外部刺激に対して生物が反応する生得的な行動」とある。
「触れることで安心する」とは水族館側の優しい意訳だったらしい。

仲間とふれあうことで生きながらえているアナゴのほかには、周囲と溶け込むことで身を守る魚や、毒やトゲを持って敵に立ち向かう魚もいた。
みんなそれぞれ自分に合った方法をうまく活用しながら、がんばって生きているのである。その事実を目の当たりにし、自然界における営みの自然さを、改めて実感したのだった。

毒を持たない魚は、無理に敵と戦わずとも、じっと身をひそめることで自身を守れば良いのだし、派手なルックスをした魚は、敵の目に止まる前提で生き延びる術を探せばいい。

自分に備わっていない能力を武器にしろなんてむちゃくちゃだ。
自分の好きだと感じること、得意だと思うこと、あるいはまだ自分でも気づいていない水面下の才能。まず第一には自分自身を守るため、そしていつかは誰かを救うために、われわれはそれらの力を使っていけばいいのかもしれない。

誰かにふれることで安心する人。対人関係などまっぴらだと思う人。目立つことが好きな人。縁の下の力持ちでいることが得意な人。
いろんな人がいる。自分にはないものを持った人が沢山いて、羨ましくて時にちょっと妬ましくて、でもそれがきっと自然なことなのだろう。

ないものばかりを追い求めるのではなく、これまでの自分が培ってきたごくささやかな力や才能を、これからも大事にしていきたいと思う。
まだまだ足りないことばかりで、上を望めばきりがない。けれど、わたしの生きてきた22年間は決して無駄なことばかりなんかじゃなかった。

出会った人や墜ちた恋の数だけ、はちきれそうな喜びや、悔しさやもどかしさや自己嫌悪のぶんだけ、わたしは豊かになることができた。
自分はどんなものが好きで、どんなことが得意なのか、何を大切に生きていきたいのか。
そうやって自分自身をすこしずつ紐解いて丁寧に読み解いて、ようやく見えてきた気がしている。

誠実であること。まっすぐであること。
それらの核を大切に、また今後知らない自分に出会えることを楽しみにしながら、わたしらしさを確立していきたいと思っている。

P.S このたび、大学を卒業しました。
四月から東京で働きます!


#エッセイ #卒業 #恋愛 #アイデンティティ

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