「レッジョ・エミリアと対話しながら」より 親とレッジョ

まだ最後まで読めていないのですが、「レッジョ・エミリアと対話なしながら」ボリュームがある上に価格も4000円くらいして、なかなかママには手を出しにくい一冊なので、私のほうでちょっとずつ内容を投稿していこうかなと思います。 
レッジョ・エミリア=ただの幼児教育と思うなかれ!
これはママたちの社会運動であり、街づくりであり、子どもと教師と親みんなで行う探究学習でもある!!
 
1980年代から始まった活動なのにも関わらず、当時のイタリアの親の抱える問題が、今の日本の親たちが抱える問題とものすごくリンクしています。まるで、しいたけ占いを読んでいるような気分になる!!
 
そしてレッジョ・エミリアの関係性を重視するシステムづくりからの親たちの救済・・・みんなが生きがいを持って幸せに生きることが出来る場づくりが実際に成功しているなら、これは私たち悩める親たちにとって一筋の希望なのかもしれません。
 
ママたちといっぱい話して、私たちらしいアプローチを考えていきたい―!!
 
『私たちは思考しなければならない。その責任を引き受けなければならない。「こうしなさい」と専門家が教えてくださるのを、指をくわえてお待ちしているわけにはいかないのである。』 by カルラ・リナルディ(著者)

 
■当時のイタリアの親たち(書籍より抜粋)■
 
・私たちが、少なくとも生後1年未満の子を抱える親たちと接していていつも耳にするのは、独りぼっちでやりきれない、誰か友達と出会いたいという訴えなのではないでしょうか
 
・労働者であり、かつ母親であることは、昔に比べて両立しやすものになっているが、それは概していえばということであって、なすべきことはまだまだ山積しています
 
・今の親が平均して高い文化水準をもつ親たちである。それは一方で子どもの教育に何が必要かを知識としても感性としても鋭く感じとっている親たちである。反面、自分は子どもとうまく関われていない、よい教育もしていないと気付いている親たちであることを意味している
 
・社会の断片化と崩壊の中で、新たな要求が、新たな歓びの探究が――集うこと、共にあることの探求が、うねりとなっているのです。それは必ずしも子どものことだけではなく、むしろ人間としての生きがいの探求であるといってよいでしょう
  
・小さな子どもをもった家族の多くが孤立し、孤独を感じている。孤独感は、幼児を抱えることによって、それまでの習慣、それまでの友人と否応なしに切り離されてしまうことからくる。親になったばかりの夫婦は五里霧中で、相談できる誰かがいるわけでもありません(祖父母は普通はいませんし、いても時代遅れで頼りにならない。お医者さんか、近所の人たちが相談に乗ってくれる唯一の相手)。そこで親たちは、誰か他の人と知り合いたい、新しいやり方で人間関係を築きたいと切実に思うようになるのです
 
■親とレッジョ・エミリア(書籍から抜粋)■
  
・現実と共に多様化している家族や子どもたち、ばらばらなそれらを結びつけ、その多様な相を拾い上げ、新たな(そして古い)要求を把捉して、新しい応答をつくり出していかなければなりません
 
・現代において親であるとはどういうことなのか、その理解の糸口になりそうなデータや現象に光を当てて解明する手立てが必要である
 
・親であるということは、ある、という状態ではなくて、生成であり、親は親になるのです
 
・親たちの未だ表現されざる、あるいはすでに表現されている要求をしっかりと読みとり、それに新たな、そして有効な応答を投げかけることからはじめようではありませんか
 
・問題なんてございませんわよ、ではなく問題を、結果だけではなく過程を話し合うのだ。子どもという存在から大人たちから一緒になって何かを「学ぶ」のことを、学ぶのである
 
・乳幼児保育園は家族と全市民をつなぎ、ある時は非利用者にも門を開き、またある時は他のグループや団体と組んで地域の行事を共催するといったように、文化の媒介者として一役買うこともできるはずなのです
 
・私たちが闘わなければならない大いなる敵、それは分断と孤立です。追求すべき価値、それは「インフォメーション」と「コミュニケーション」です

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