
【完全保存版】「話せる」英語の勉強・練習方法
今回、「国内で英語を話せるようになる勉強方法」を、私なりに初めてまとめます。
そしてもちろん、今まで沢山の方が「話せる」へのハウツーを著していますが、こちらは「方向性」が全く違います。
また、こちらは私がカウンセリングで話している内容です。初見では伝わりづらいところ、繋がらないところ、ついてこられないところも多々ありますので、ぜひ、私と話した後でお読みになられて下さい。
数年、国内で悩み続けてきて、大手英会話スクールにも在籍し、英会話業界の裏側を歩いてきた私が辿り着いた、「今まで誰にも書かれなかった真実」です。命を削りながら書きました。
日本人で英語を話せずに困った方は、恐らく全てにおいて、納得されるはずです。そして、日本人を取り巻く、「英語が話せない現象」が全て繋がります。
特にお子様をお持ちの方は、必ずお読み下さい。今の大人たちのように、「英語難民」にならないためにも。
■「日本人の英語」に一体、何が起きてしまっているのか
さて、どうして日本人はいつまで経っても、英語を話せるようにならないのでしょうか。
これはカウンセリング時でもお伝えしているように、私たち日本人は「受験英語のため」に子供の頃から、英語を「お勉強」してきました。
そして、そのあとに「話せる」をしようと、「後付け」で考えているので、「話せる」への軌道修正ができなくなっているのが真実です。大人になってからの苦しみは、全てこの「歪み」のせいです。
結局、二つの方向性が「別」だっただけです。「教科」としての英語と、「言葉」としての英語は、「違うレール上」にあった。
日本人は、初っ端から「違うレール」を逆走してしまっています。そしてそれは、遥か昔に敷かれたレールです。
だから、どれだけレールを付け足しても、「辿り着く先」がネイティブといつも違う場所になってしまう。
それが証拠に、大学受験まで、「英語の勉強方法」に悩んだことなど、なかったでしょう。ベストセラーの参考書や過去問などを何周もすれば、それでよかった。
しかし、英会話に挑戦された方は、その後、「英語の道」がすうっと消えたはずです。そう、ここから「地獄の運行」が始まる。
不思議なもので、日本人は「どうしたら話せるようになるのだろう」と色んなものに飛びつくものの、「どうして話せるようにならなかったのだろう」と後ろを振り返らないものです。
恐らくそれは、「結果だけ」を追い求めようとしているからでしょう。そして、そこに「英語ビジネス」や「古い常識」などが根を張り、真実が見えなくなった。真実も善意の声も、この濃霧に飲み込まれている。
この現象は、ダイエット業界と似ています。
10kg痩せたいから、10kg痩せられる方法を血眼で探す。そして、そういう広告に出会い、散財を繰り返す。騙される。自分に合わない。
こうして、10kg超太ってしまった原因を、一向に突き止めない。というのも、そこは「儲け」に繋がらないので、見て見ぬフリをしている。そして、私たちもそういうものだ、と割り切ってしまっている。
皆さん、「学校でどれだけ英語を勉強しても、話せるようにならない」と割り切っていませんか?そのことです。
「未開の地」はここです。この原因を突き止めないと、結果も出ません。前を見るのではなく、「一度後ろを振り返る」必要があります。少なくとも中高6年やったのに、「次のステップ」が全く見えないのは、明らかにおかしい。
試しに、書店に行かれてみて下さい。
棚には、「○○すれば話せるようになる」というタイトルのものばかりです。「○○が良くなかった」よりも、そちらの切り口の方が売れるからです。それはネットも同じで、そういう広告で溢れています。
こうして、「話せる」ようになる「結果」だけにスポットが当たり過ぎ、飛びつき、失敗し、「今までの学び方」が薄暗がりのままなのが、日本の英語事情です。
しかし、そもそもなのですが、10kg超、太ってしまったこと自体がおかしいのです。普通に生活していれば、極端には太らないはずなのに。
英語だって、普通に練習していれば、話せるようになるはずでしょう。
英語圏の子供は日々、普通に話せるようになっています。失敗した人など、聞いたことがないでしょう。何度もやり直しているのは、日本人だけ。
今まで「学校で習ってきたもの、やり方」は、すべて「話せる」に向けてだったのだ。だから、あとはここに「何かを付け足すだけで、レールを延長すれば、ネイティブと話す機会さえ増やせば、英語はペラペラになるはずだ」と考える。ただ、この「間違った常識」に、そろそろ鋭い「メス」を入れないといけない。
まず、何が起きてしまっているのかを、総括するべきでしょう。
そうしないと、まるで波のように、次の代も同じ現象が起きます。これが止められていないので、日本人は話せないまま、世界に出遅れることになりました。
メスを入れるのは、「これまでの学び方」です。「英語の第一ボタン」です。
■「教科」としての英語と、「言葉」としての英語
さて、これを読まれている方のほとんどは、「ネイティブと話す機会さえあれば、英語は話せるようになる」と思っているかもしれません。
特にこの発想は、英会話スクールに通ったことがない「英会話初心者」や、ネイティブに慣れていない「田舎者」が、陥りがちな発想です。
正しく、昔の私がそうでした。。広告と営業に引っかかりました。
そう、この答えは断固、「NO」です。
それが証拠に、日本人はほとんどスクールに入っても失敗を繰り返しているからです。そして私も、英会話業界の現場で、その「惨状」を嫌になるほど見てきました。スクールを辞め、「もしなる」を書こうと思ったのは、この悲劇を食い止めたかったからです。
週に1回数十分、ネイティブと話す機会さえ取れば、そのうちペラペラになると考え、挫折していった日本人をどれだけ見てきたことか。何百人もいました。
ほとんどが「遊び」で終わったり、講師が一方的に喋っている。
「(受験英語)+(ネイティブの授業)」=「英語ペラペラ」は、幻想です。二本のレールは繋がっていない。
これを読まれている方で、英会話スクールなどで失敗した人も多いでしょう。
初めはヤル気に満ち溢れていたのに、そのうち上達を感じられなくなり、「払った授業料が勿体無いから」という名目で通った方も多いはずです。
これはずっと学校で「野球のルールを習ってきただけ」でボールすら触ったことがないのに、そのまま試合さえ用意すれば、一流(ペラペラ)のメジャーリーガーになれると考えているのと、構図は一緒です。遊ばされて終わりです。
しかし、英語をまず、「教科」として出会えば、それを延長してしまうのは当然のことです。
考えてもみて下さい。
もしも日本語を「国語の授業」だけで完結しようとすると、とんでもないことになるでしょう。
やれ「カ行変格活用」だ、やれ「謙譲語」だ。学ぶのは、そういう知識のみの積み重ね。実際に「カ行変格活用」や「謙譲語」を用いた文章を自分で作りもしない、口にすら出さない。
そして、その知識のための筆記試験が6年間挟まる。口にする過程も、聞く過程も全部抜いてしまい、参考書だけで「日本語」と向き合う。「話す」とは全然違った、マニアックな「教科」へと流れる。
そのため、英語を「文法的に正しいかどうか」の側面でしか見られなくなります。
そうなると、「実際にどう使われているか、それが自然な表現かどうか」という、言葉として大事な側面が、ゴッソリと削られてしまう。ここで本場の英語と「大きな乖離」が起きてしまう。
そもそも「言葉」を学んでいるのに、文字だけで6年間向き合い、「聞く・話す」を後付けで考えるのは、やはり異常でしょう。これは恐ろしく「古い考え」です。
日本人が何十年経っても英語が話せないのは、この「固定概念」が邪魔をしています。少なくとも英語の授業や学び方は、私が生きてきた「昭和・平成」から、ほとんど変わっていません。
古い野球理論を「小中高」と数年間、机で学んだ後に、初めてグラウンドに放り出されて、素振り一つできない自分に絶望するか。それとも早い段階でグラウンドに放り出されて、野球を少しずつ身につけていくか。
もちろん、立派なプレーヤーになれるのは後者です。どちらを選ぶか。どちらになりたいか。
何にしろ、物事は「入り方」が大事です。教育でも一番大事なのは、「初動」。一番初めに習ったもの、出会ったものが正しいと思うようになり、その子の生涯の「基準」となってしまう。
本来ですが、「口さえあれば、誰でも英語を話せる」のです。向こうでは、幼児だって英語を話しているでしょう。
これは「環境」のせいだけではなく、「学び方」のせいです。教科」として出会ったのか、「言葉」として出会ったのか。
教材は昔と違って、ネットなどにも溢れているのですから。ビデオデッキしかなかった、昭和や平成初期ではないのです。
今でも環境のせいにしていては、損をするのは自分です。環境に気づいていないだけ、作れなかっただけ。もう「英語を話せない」は、「自己責任」の範囲です。
■大事なものを、置き忘れてきてしまった日本人
日本人だけが「英語を話せない」と、何十年以上も悩んでいます。
ウンウン、頭の中で「英語を日本語から切り替えよう」として、それができなくて墜落しています。
実に馬鹿らしい。まるで、「飛び方を忘れた鳥」のようになっています。
日本人がやってきたのは、そしてやっているのは「言葉」ではなく、英語という「教科」です。
そのため、受験英語から解放され、初めて海外ドラマを見て、教科書に使われていない言葉や文法が「実際の言葉」に溢れ返っていることに、ビックリしています。
「生きた英語、ネイティブな表現」という、おかしな言葉が生まれる。では、今まで黒板で学んできたものは死んでいたのか、ネイティブに通じない日本製英語だったのか。どこからどこまで生きていて、どこからが死んでいたのか。私たちは一体、何を学ばされていたのか。
ここが何も総括されていないのに、大人の事情で、どんどん新しいテストや制度が固まっていく。
そして受験の直後、「そんな英語は使いません」と後出しで言われる。ネイティブの指摘がどんどんどんどん、機関銃のように撃ち込まれる。発音から意味まで、全部です。
挙句の果てには「What time is it now?」という、中一の時に習い、テストに書いて、散々丸がついてきたこのフレーズも、「ネイティブは使いません」と言われる。もう、文字通り「血祭り」の状態です。
この原因の全ては、「聞く・話す」を「後付けで」考えていたからです。
英語的な発想というものは、「後付け」では入りません。日本語の常識を抜き、序盤に音と一緒に入れて、何度も口にし、型をつけておかないと、積み上がらないのです。順番が狂えば、「先に入った」ものが邪魔をし、新しく入るものも入らなくなる。子供の方が上達が早いのは、そういうことです。
だから、大人は絵本すら読めません。Snoopyの漫画だってチンプンカンプン。
難しい論文の英文和訳はできるのに、ネイティブも知らないような文法知識だって知っているのに、向こうの子供が読んでいる本が理解できないのです。
この「異常事態」は、2020年を迎えようとしているのに、国家単位でずっと放置され続けています。そして入試に「スピーキング」を入れれば、民間試験を導入すれば全て解消されると、国は本気で考えているようです。
そして、何よりも日本人は「音」が認識できません。当然です、「音の学習」を丸々学校で抜いてきたのですから。
一番音を聞いて、一番口から出さないといけない、人生の中で、「最も多感な学生の時期」に、スペル暗記のために、学校の試験のために、その過程をゴッソリ抜き、「日本語の音(カタカナ発音)」で固めてしまったのです。
実に馬鹿らしい。
こうして、「試験」を前に設置し、「聞ける・話せる」を後に置いてしまったため、大人はもう、感覚を取り戻せなくなっています。「英語ってどうすれば話せるようになるの?」という、馬鹿げた質問がどれだけ多いことか。
野球と一緒です。野球ができない子はいません。
「野球ってどうすればできるの?」という質問と、「英語ってどうすれば話せるようになるの?」は、一緒です。
「毎日やればいい。やっていれば、そのうち上手くなる」が答えです。「どうすれば話せるようになるの?」と聞いている時点で、「今まで何も話す練習をしてこなかった、全然別のことをしていた」ことを、証明しています。ゼロ状態です。
そもそもですが、英語は「できるできない」の話ではありません。
「どれだけ上手くしてきたか、何年かけてきたか」の話です。口があるのだから、誰でも話せます。今まで「日本語が話せない」と困っている日本人を、見たことがありますか?本当に、馬鹿らしい。
野球だって、下手でも「できる」のです。英語だって、下手でも「話せる」のです。この原理が分からない人が、どれだけ多いことか。
そのため、中高6年やって、「I can't speak English.」は異常事態です。そもそも、この文章すら、何かおかしい。
そのため、「英語を受験から外せばいい」という意見は、本当にその通りなのです。それくらい、日本では「話せる」と違うレールを走らされている。
「話せる」ようになりたいなら、日本の教室を脱出して、英語圏に渡った方が遥かにいいでしょう。もしくはインターナショナルスクールです。
まず、向こうでは「和訳」や「カタカナ発音」で英語を理解する、などはありえないのですから。
こうして、「言葉の本質である、音の学習」を抜いたため、「聞いて覚える」「音を真似する」という道は、日本人にはほぼ断たれてしまいました。
日本の英語教育の大きな害の一つは、「音が聞けない」という絶望的ハンデを、国家レベルで与えてしまっていることです。
つまり、言語習得において、最大で有効なツールの、海外ドラマ、アニメ、Youtubeなどのハードルが、山のように高くなっているのです。
私たちが日本語を話せるようになっていったのは、テレビ番組やアニメなどの影響が大きかったでしょう。お笑い番組を見て、タレントさんのフレーズの「真似」をしたことがありませんか?子供はしていませんか?
その機会が英語に関して、丸々「削ぎ落とされて」しまったのです。沢山、英語の音に馴染まないといけない時期に、「文字学習」に走らせてしまった。
英語の先生から「英語のテレビ(ビデオ)を、何度も分かるまで見てこい、真似してこい」と指示を出された人は、誰もいないでしょう。「ワークの○ページをやってこい、日本語訳とスペルを覚えてこい」だったでしょう。
そして、大学受験の後、「英語を話せるようになるには、『海外ドラマ』がいいよ」などと、いきなり聞いたはずです。しかもそれは、学校の「英語」の先生ではなく、「英会話」の先生です。もしくは、ネットの世界にいる「英語を話せる人」からです。
受験の後に「英語の中身」がガラリと変わる。アドバイスする人もガラリと変わる。教材が変わる。全部ひっくり返される。今までやってきた「英語」がすうっと消え、「英会話」というものがぬうっと顔を出す。
「学ぶ順番」が、あべこべになっている。
■「文字から」しか、話者への道がなくなってしまった
こうしてですが、多くの日本人にとって、英会話は「書物」に閉じ込められることになりました。
そう、「文字を覚える」ところにしか、話者への道が残されていないのです。
そして、英語を「文字」から入り、「日本語に訳すだけの教育」を受けてしまえば、英語を紡ぐときは「日本語の文字→英語の文字」の「一本道」しか残されなくなるのは当然です。つまり、「英作文」です。
そう、学校で英語を教わった日本人は、「英作文」の一本道しか、英語を紡ぐやり方を教わっていないのです。他の紡ぎ方を聞いたことがないでしょう。
この時点で、日本の英語教育は「最大の失敗」です。今後、ネイティブの授業を増やそうが、早期から始めようが、受験にスピーキングを入れようが、最終ゴールが「英作文」に辿り着く以上、成功はしません。
というのも、英作文では、ネイティブのような英語を紡ぐことはできないからです。そう、「日本語と英語の発想」が全く違う。
日本語発想から作れない文など、沢山あります。海外ドラマを見れば、それが一瞬で分かります。「訳せない文」だらけです。
ましてやそんな言葉を日本語から、組み立てられるわけがないでしょう。だから受験の後に、ネイティブ表現の「短いフレーズ丸暗記」が流行る事態が起きている。慌ててネイティブの猿真似をしている。
そして、学校で英語のテストを受けた人は分かると思いますが、英作文は一番「ハードルが高い」のです。学生のテストの減点は、大体そこに集約されます。
「英作文がいいかどうかの論争」は、終わりがありません。ただ、私がお伝えしたいのは、英作文が大衆的ではないこと、英語力の前に「国語力」が必要であること、一度日本文を読まないといけないこと、全体的に長続きしないこと、ネイティブ的な表現が紡げなくなること、動詞や前置詞などの感覚が置き去りになること、不自然な表現が絶えずつきまとうこと、自分の英語に自信が持てなくなること、いつか「やり直し」の過程が入ること、学習時間が必然的に増えていくこと、そして、口を全く動かさなくなる危険性を孕んでいることです。挙げれば、もっとあるでしょう。
私は長年、塾講師をしていましたが、どんなに英語ができる子でも、英作文はボロボロでした。どんなに偏差値の高い高校生でも、です。特に、中学生は目も当てられませんでした。
では、なぜ「英作文」は難しいのでしょうか。
それは、「日本語の数だけ英語の対訳を覚え、文法知識を駆使し、日本語とはほぼ真逆の語順で英単語を並び直す」という作業だからです。「頭の良さ」が必要です。そして、会話になると、これに「発音」の問題まで入ってきます。また、会話なので「瞬時」にしないといけません。筆記テストのように、ゆっくりじっくり時間をかける暇などないのです。
日本人が「話せない」と言っているのは、「日本語が英語に、瞬時に、うまく変換できない」と、ほぼ同義です。
「話すこと」は本来、「ネイティブを真似て、彼らに近づけていくだけ、上手くしていくだけ」のプロセスなのに、日本では「英作文ができるかどうか」の作業になっています。ここが「強烈」にねじれている。「できるできない」の話になっている。沢山の英語難民が、ここで生まれている。
「英作文」はかなり高度なテクニックです。普通の人はできません。
そして、これは後でまた述べますが、英語と日本語の構造は「真逆」です。言語の相性が「最悪」なのです。
英語を国家レベルで、「相性の悪い言語」に変換して、意味を捉えている。そして、その「相性の悪い言語」から英語を紡ごうとしている。
やはりこのやり方は、どう考えても、極めて「非効率的」でしょう。無理がある。あえて挑戦したい人や、翻訳家になりたい人だけがやればいい。ただ、生徒にはその道を辿らせるかどうか、選ばせるべきですし、指導者は「別の道」を提示しないといけないと思うのです。単純に、可哀想です。
「一本の道」だけであれば、あとで生徒が英語難民となり、高額詐欺教材や詐欺スクールに引っかかったり、「聞けない・話せない」という「十字架」を背負わせることになりかねません。「古い教え方」はもはや、害です。
英語を教えている指導者の方は、教室にいる「英語ができない子」が将来、英作文をして英語をペラペラと口にしている未来像が描けますか?
「英語→日本語」すら、ままならない子が、そんな芸当が将来、できると思いますか?一人一人の顔を見て下さい。
確実に「人を選ぶ」でしょう。絶対に「できない人」が出てくる。それも、大量に。
それでも「うちの生徒はできる」という人は、個別で長年教えた経験もなく、また、頭がいい子ばかりなのでしょう。少なくとも私が今までに塾などで出会ってきた子のほとんどは、絶対にできません。
少なくとも英作文は、英語の偏差値が平均以下の子ができる芸当ではありません。指導者は平坦な道ではなく、崖道を登らせて、転げ落ちても「知らんぷり」をしている。
もちろんそれで成功した人はいるかもしれません。ただ、ほんの一握りです。この国の英語教育は、「ほんの一握りの成功者」を前提で語られています。残り大多数の「脱落者」を、見て見ぬ振りしている。しかし、大衆的ではない時点で、それは「公教育」ではない。
もう一本、「違う道」だけは、見せておいてあげて下さい。せめて、子供たちが将来、英語に対して「話せる希望」が持てるためにも。時間と努力さえかければ、英語は国内でも話せるようになるのだ、と思わせられなければ、敗北です。
国は何もしてくれません。どうせ失敗しても「教師」の英語力のせいにするでしょう。そして、何よりも子供たちの前に立つのは指導者です。彼らは英語を真剣に勉強すれば、将来、話せるようになると信じています。自信を持って、「私の子は将来、英語を話せるようになる」と言えますか?
また、指導者の方も、その英作文のやり方で、今まで相当苦しんできたでしょう。そのハードルの高さはご誰よりも、自分がご存知なはずです。今まで「時制、前置詞、冠詞」など、日本語とかけ離れた概念に、苦労してきたでしょう。
そして、これは当たり前ですが、英語圏ではこんな作業を誰もやっていません。
誰一人も、です。
一秒たりとも、です。
日本人が国家レベルで頭をウンウン唸らせながら、何年もかけて必死にやっている英作文の作業を、彼らは「誰一人」として、「一秒たりとも」やっていないのです。もう、この事態は笑うしかありません。
そして、私たちが日本語訳を必死に覚えている間、彼らは幼い頃から、正しい発音で英語を口にし続けています。ウンウン苦しむことなく、です。日々、着実に上手くなっている。
言葉の習得とは、大人の真似をして、ただ「口を動かすだけ」の行為です。口と耳さえあれば、誰でもできる作業なのです。
この日本人が英語に浪費してきた時間と労力、そして金銭的なロスは、気が遠くなるレベルです。
では、なぜこんな事態が起きているのでしょうか。
それは、日本の英語は「話せる」ために生まれたわけではなかったからです。その目的は「別」にありました。そしてもちろん、英語圏は当然ですが、「話せる」を第一に考えています。これが序盤にお伝えした、「別レールの逆走」です。
そのため、英語圏では100%、普通に英語を話せるようになっています。
100%です。頭がいい、悪いに関わらず、です。子供でもペラペラです。
本来、英語は訓練さえすれば、誰でも話せるのに、今の日本のやり方では、大量の「話せない人」を産み落としてしまっています。それも必死に勉強してきた人が、英語が話せずに苦しんでいる。
「英語は日本語からでしか紡げない、英作文しかない」という常識は、そろそろ捨て去るべきです。
そして特に、お子さんをお持ちの方は、この「分厚い壁」を作っておかないようにした方がいいです。後々、お子さんが「英語と日本語の狭間」で苦しむのが、目に見えるからです。
ここで一つ、成功例を見て下さい。
この子は岡山県に住む、川上拓土君という子で、とても有名です。彼は国産のバイリンガルです。そして彼は別に、ネイティブと暮らしていたわけではありません。
さて、彼は英語を流暢に話せますが、英作文テキストを極めたのでしょうか?フレーズ集を覚えたのでしょうか?資格試験の勉強をしたのでしょうか?日本語から英語に切り替えているのでしょうか?
明らかに彼は「英語を話せなくなった日本人」と、別の道を歩いています。
よく、「学ぶのが早ければ早いほど、英語が話せるようになる」と言いますが、彼と私たちの「差」は、ただの「始めた時期」だけで片付けていいものでしょうか?彼は、何を使って話せるようになったのでしょう?
ちなみに以前、川上君の部屋にテレビカメラが入ったのですが、英作文テキストや表現集のようなものは、一切ありませんでした。「一切」です。
日本人が必死にウンウンとやっている、「英語話者への教材」が一冊もなかったのです。代わりに、全く違うものがありました。それも、どっさりと。
この「謎」を解かないまま、英語を学んでいてもいいのでしょうか。きっと学生時代は順調でも、数年後、道がすうっと消え、濃霧に包まれます。
私たちは国家レベルで、「話せる」と全然別のことをやってきた。いや、今もやっている。「違う道」に入っている。「この子すごーい!」で片付けてはいけない。
■「一言フレーズ集」に行き着く日本人
さて、こうして日本人のほとんどは、「英作文」を諦めます。大衆的な方法ではないからです。
そうすると、大衆が次に起こす行動は何でしょう。
そう、「フレーズ集」を買い揃えてきて、フレーズを丸暗記することが、もう一つの残された道になってしまいます。「日本語→英語」と文法知識などを駆使してウンウン考えるのではなく、そのままセリフを覚えちゃえばいいじゃん、となる。頭を使わなくて済むし、手軽だし、文法がわからなくてもできる、と流れる。
しかし、いつも日本語で話している長い文章を、英語との対訳で丸暗記するのはどう考えても、「非現実的」でしょう。「限界」がある。
そう、センテンス単位の文章を覚えるのは、所詮「無理」なのです。部屋に手付かずの表現集が溜まるのは、この発想が原因です。
例えばいつも私たちがペラペラと話している日本語に全て「台本」があり、それを丸暗記して、会話に臨むのは不可能でしょう。
言葉とは決められた会話集ではなく、その場その場で考えて、自由に紡いでいくものです。筋書きのない、ドラマの連続。無限のもの。時には相手の顔を見て、表現を変えていかないといけないし、丸暗記台本では何も功を奏しない。
こうして、覚えるフレーズは長いものから、段々短いものになっていきます。文章は覚えられないのですから。どんどんどんどん、楽な方に流れていく。
そのため、その終着駅は、「簡単!便利!すぐに使える!」を売りにした、一言フレーズ集に集約されます。書店にはそういうものが手を変え、品を変え、溢れてしまう。
出版社や著者も「本を売るため」に「手軽さ」や「簡単さ」をアピールし、「たった○○だけで」の文言をでかでかと並べ、極力ハードルを落としてくる。
書店の英会話コーナーは、日本人英語の「墓場」のようになっています。
そして、そこに集まる社会人は、死んだような目つきになっています。
どれがいいのかな。どれを読めばペラペラになるのかな、と。こうしてまた、手軽なものを買っていく。アプリをダウンロードする。
結局、何を買おうが一緒です。どうせ「英語と日本語の文字の対訳」を眺めて終わるでしょう。なぜなら、英語学習は今までそうやって「対訳の行き来だけ」で習ってきたのですから。同じレール、同じ列車に乗り続ける運命しかありません。
「フレーズ集」とは「英語を話せるようにするもの」ではありません。ただの「台本集」です。大事なのは、「文章の紡ぎ方」です。
フレーズ暗記をメインにすると、絶えず「○○って、英語で何?」と、台本をもらい続けることになり、「英語で考える力」を失ってしまう。
こうして、「あのフレーズが便利、このフレーズが便利」とあちこちつまみ食いして、そこでお腹一杯になってしまっている。
こうした、「便利フレーズ乞食」になってしまうと、自分のためにも良くない。
それが証拠に、フレーズ集が世に溢れて数十年以上経ち、日本人は英語が話せるようになりましたか?「一言だけ」で終わる人が、大量生産されていませんか?
便利フレーズ集とは「ジャンクフード」と変わりません。
文明と同じで、「手軽・便利・すぐに使える」ものが、自分のためになるわけではない。その場は凌ても、その場限りの英語になってしまう。「時間をかけ、苦労して手に入れたもの」こそ、初めて自分のためになる。
順番が違います。まず、「誰がどうだ、何がどうした」という、基本的なことが言えるようになってから、それを学ばないと、「便利なものだけの詰め合わせ」になり、結局言いたいことが言えなくなります。外を作るのではなく、まずは中を作らないと。
あと、ネイティブがいつも使っているスラングを必死に仕入れている人もいますが、残念ながら、結局それも使うことはないでしょう。
というのも、私たちの英語に足りなかったのは、スラングではないからです。それはただの「葉っぱ」に過ぎず、やはり根や幹ではない。
そもそも、中学校で習った基本的な単語や文法を使いこなせないのに、丸暗記した若者スラングを口にしたところで、「滑稽」でしかないでしょう。
どうせ、バカにされて終わりです。また、それが使われている場面も見てないのだから、使いどころだって間違えてしまいます。場合によっては相手を不快にさせてしまいます。「言葉の感覚」が分からない。
加えて、もしそれが使えても、その後の会話が長続きするわけがありません。そう、英語は「一言フレーズ」しかやっていないのですから。結局は「文章の紡ぎ方」が必要になってくる。
もう、出口はありません。日本の英語の「終着駅」は、ここ。
最終的にはもう、壁を越えて、現地に飛ぶしかないでしょう。わざわざ「話せるようになるため」だけのために、向こうで「ゼロスタート」を切るしかない。
■なぜ「イメージ」を使った教材が流行るのか
ではここで一度、冷静に考えてみましょう。
あれだけ学生時代、必死でやってきた英語学習の行き着く先が、「トイレを貸してくれませんか?」や「マジやべー!」などの一言フレーズ集の丸暗記になることに、怒りや悔しさ、情けなさを感じませんか?
必死に覚えた関係代名詞や受動態などはどこに行ったんでしょうか?先生から教えてもらったものは、何だったのでしょうか?
どうして今までやってきた英語の勉強が、「○○って英語で何?」みたいな「一言フレーズの丸暗記」に辿り着いているのでしょうか?
もしもそれが「最終形態」であるなら、中学から文法など学ばず、ずっとフレーズを丸暗記していれば、それでよかったでしょう。
しかし、本来、ネイティブのように長い文章をペラペラと話せるようになりたいから、今まで必死に英語を勉強してきたのではなかったのではないでしょうか?
中高時代の、あの純粋な英語への取り組みが、全て「無」に帰している。
培ってきたものを全て放り投げ、一言フレーズを覚えている日本人がどれだけ多いことか。青春時代に使ったてきた、あの貴重な時間が、全部死んでいる。
そう、結局二つのレールが別だったので、こういう悲劇が起こり、それが今でも国家レベルで解消されていないだけです。
本来、言葉とは「全てを真似る」ことです。意味も音も。
しかし、日本人はその「単純作業」ができません。英語をネイティブのように、「英語を英語のまま」捉えられない。全て「日本語」に切り替えてしまう。「日本語でどんな意味ですか?」と尋ねる。
そして、「ネイティブを真似よう」という観点がゼロなので、国家レベルで和製英語や不自然な英語も氾濫してしまう。
どうしてでしょうか。
それは学校で、英語は日本語との「1:1の対」の覚え方でしか教わってこなかったからです。悲劇の始まりは、ここ。
ここで、大きな「炎症」を起こしている。「英作文」や「表現集暗記」に辿り着くレールにしか、走れなくなっている。「聞けなく」もなっている。基本動詞も前置詞も文法も全部、ここで死んでいる。
だから今、「イメージを使った教材」が、書店の英会話コーナーに溢れることになっています。
さて、ここで「なぜイメージを使った教材のお話なの?」と、ポカンとされる方が、恐らく大半だと思います。
その場合、もしかして、イメージ教材を「分かりやすいから」とか「覚えやすいから」だと思っているかもしれません。
しかしその程度の認識では、イメージを使ったところで、結局一緒です。
恐らく、ただ読んで、「フンフン、なるほど。分かりやすい」と唸るだけで終わるはずです。結局レールは変えられず、それからも同じ路線を走り続けます。
イメージは「今までのレールを、劇的に逆方向に変えるためにある」のに、その意図がわからないのであれば、結局英語は文字を訳して終わります。
こうしてまた、色んな方法を模索します。今の自分の英語に「どう付け足せば、話せるようになるか」と、躍起になる。
そして、自分には「文法知識」が足りなかったのだと思い、また学生時代のように分厚い文法書を一から学び直す方が沢山います。また「知識吸収」に走る。もう、「高校四年生」に突入です。
しかし、文法を極めても、TOEICで文法問題ができても、一向に「話せる」に繋がらない。五年生、六年生、と無限のループに入る。
そして、挙げ句の果てには「中学英語でペラペラ話せる」と言われる始末です。もう、笑うしかない。
話せるようになりたいのに、もう一度文法をやり直しているのに、またテストのためになっている。一向に「話せる」に繋がらない。レールに乗れない。
では、ここで冷静に、考えてみましょう。
「中学英語で話せる」というのに、どんなに文法ができている中学生だって、英語を話せないのです。そして、高校生も話せません。中学英語はできるのに、です。
このおかしな現象も分からないまま、また英文法を一から学び直している大人が、なんと多いことでしょうか。
もちろん、文法は大事です。
しかし問題は、「文法を使って、どう『話せる』に繋げるか」です。そこの連結部分を、今までと違うレールに切り替えないといけない。
だから、「イメージ」なのです。
イメージを使うのは、「分かりやすいから」や「覚えやすいから」ではありません。
日本語で考えるクセを落としたいから、英語の本質を捉えたいから、学生時代の大きな過ちを取り返したいから、生活に英語の影を落としたいから、英語の環境を作りたいから、「話せる」練習に繋げたいから、です。
ふと今、この「note」の画面から視線を離し、周りを見てください。
目に映るのは何ですか?「文字」ですか、「情景(イメージ)」ですか?
そしてそこに、「英語の名前」が付いていますか? 付けてきましたか? 口にしてきましたか? 何年かけましたか? ネイティブに直されてきましたか?
ここを押さえない限り、きっと今までと同じ、学校で習ったレールを走ります。
こうして、「どこまで学校教育のやり方から脱け出せるか」が、「話せる」に向けて、大事になってきます。
皆さんが日本語を話せるようになったのは、「生活の中で、まず聞き、見て、そして言って、直されて、毎日触れ続けて、その後に文字を学び、書いて、年〜数十年単位でそれを続けてきたから」です。本来、これが「言葉」としての、語学の正常な習得過程です。
言葉は「黒板」から生まれるのではなく、「生活」から生まれないといけない。
さて、これより下ですが、カウンセリングでも話したことなども振り返りながら、「今まで誰にも語られていない真実」をどんどん、挙げていきます。
ここからが「本題」です。「言葉が紡がれるメカニズム」「日本語を抜いて英語を覚えるやり方」など、別次元の内容になります。
年単位で学んできたことが、「話せる」と外れていたことが分かり、絶望するかもしれませんが、どうか参考にされて、「光」を見出して下さい。
「話せなかった」のは単純な話です。「何もやってきてなかった」だけです。
※今回の記事は「もしなる」の続編になります。まずは、こちらをお読み下さい。ほぼ売り切れですが、電子書籍でも購入できます。ただ、【完全・増刷版】は文庫本のみですので、是非書店取り寄せか、幻冬舎までお問い合わせをお願いします(03-5411-6440)。電子書籍も、ほぼ内容は同じです。
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