
「もしなる2」3.カオスの夏期講習
夏期講習が始まり、私は彼女の英語力に驚いた。低いとは思っていたが、そんなレベルではなかった。そう、低いどころか、何もなかったのだ。少なくとも中学二年の夏までの、一年と一学期分は、確実に英語の授業を受けてきたはずなのに。
「あの、熊田さん・・・この問題って、並び替えじゃなくて、カッコの中から一つ選ぶ問題なんだけど」
そう、彼女は「She goes to school ( ) bus.」のカッコ内に、「by/in/as/to」のどれか一つを選ぶ問題を、なんと「to in by as」と並び替えてしまっていたのだ。
「なんや、道理で解答欄が狭いと思ったわ。作ったやつ、不親切なやっちゃなーって」
「っていうか熊田さん、ちなみにこれ、何順なの?」
「適当に散らした」
「意味ないでしょ、それで合ってても」
「嬉しいやん、合っとったら」
「バカじゃないの」という一言を、私はグッと堪えた。
そう、予め「夏期講習だけ」と宣言はしてはいるものの、この子が新規生徒であることには変わらない。
今までも、「講習だけ」とは言っていたものの、結果が覆ったことが何度もあった。そう、講習が思った以上に楽しく、また勉強も分かるようになったので、本人が「これからも通いたい」となったパターンである。
子供がそう言えば、どんな親だって、簡単に折れる。というのも、やはり親としては、子供に勉強を頑張ってほしいものなのだ。今まで「勉強なんか嫌だ」と言っていた子供が、「勉強を頑張りたい」と言い始めれば、応援したくもなる。
この子がそうなる可能性は、もちろん限りなく低いが、講習が終わるまでは分からない。そして、何よりも勉強が苦手だから、分かるようになりたいから、ここに来たのだ。たった5日間しかないが、講習期間中はできる限りのことはしてあげたい。
しかし、なぜこうなるまで放置されてきたのだろう。こういう生徒と出会う度に、私は不憫に思う。きっとこういう子供たちは今まで授業中、ボーッとしてきたに違いない。先生が言っていることも、黒板に書いてあることも、チンプンカンプンだったのだ。それも一年以上も、だ。一体、どういう心境だったのだろうか。
そして、ふと私はその時の学校の先生のことも想像する。きっと、先生たちだって気づいているに違いない。こんなにも何一つ分かっていない生徒が教室の中にいる、ということを。
もちろん、一人一人に構ってあげるのは物理的に不可能だとは思う。しかし、分からない子を置いていく、というのは心が痛まないのだろうか。それは、慣れていくものなのだろうか。こればっかりは、個別指導塾の塾講師である以上、全く分からない。
無論、こういう子供たちがいるから、私たち塾業者も潤うのだが、やはり私はモヤモヤとした気持ちになる。
「先生、丸付けが終わりました」
ふと、左側に座っていた、栗原菜純ちゃんが落ち着いた声でそう言った。
「速いね、菜純ちゃん。うわっ、すごい、満点じゃない」
同じく、新規で夏期講習をお試しに受けに来た菜純ちゃんは、すごい出来である。恐らく、私が今までに受け持ってきた生徒の中で、一番の頭の良さだ。
ちなみに夏期講習は復習がメインとなり、二学期以降の単元には入らないことになっているが、菜純ちゃんは復習をする意味が全くなさそうだ。それくらい、これまでの履修範囲を完璧に理解している。
「・・・この塾、つまらないです」
「え?」
「問題、簡単すぎます」
菜純ちゃんの落胆気味の声に、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
今までの経験上、これは危ないパターンである。そう、子供が「つまらない」と言えば、親は無理に塾には通わそうとはしない。
もちろん、子供が勉強を苦手とする場合は、強制的に通わせるパターンもあるが、菜純ちゃんは違う。ここに入らなくても、恐らく一人で勉強ができるだろう。親だって、本人が「嫌だ」と言えば、その意見を尊重するはずだ。
菜純ちゃんが退屈しないためにも、もっと難しめのテキストに変えた方がいいのかもしれない。というのも、これは笠原さんからも強く言われていることだが、菜純ちゃんだけは何とかして入塾に繋げないといけないからだ。
本来、生徒に優劣をつけてはいけないのは分かっている。しかし、もしも菜純ちゃんがこの塾に入ってくれたら、「あそこ、あの菜純ちゃんが通っている塾なんだって。きっといい塾に違いないわ」と口コミが勝手に広がり、何もしなくても、どんどんと新しい生徒が入ってきてくれるのだ。
「私たちは慈善事業をやっているんじゃないですからね。塾人である前に、一人のビジネスマンなんです」という言葉は、入社以来、笠原さんから何度も聞かされてきた。そう、だから菜純ちゃんだけは逃してはいけない。
「じゃあ、今度はこのページを飛ばしちゃって、このまとめページでもやってみる? 問題も難しめだから」
「多分、できると思います」
「あ・・・そっか。うん、そうだよね、菜純ちゃんなら出来るかもね」
「はい、テストもずっと100点でした」
表情も変えず、菜純ちゃんはそう言った。そんなに可愛いんだから、せめてもう少し愛嬌があったらいいのに、と私は心の中で呟いた。
また、勉強だって、テストが全てになっている気がする。問題をただ黙々と解き進めるだけで、好奇心のようなものが全く感じられない。
「なあ先生、これ分からん。そもそも何で、トムは毎週月曜日にサッカーするんや。月曜はサッカーの血が騒ぐんか? ほんなら火曜は何すんねん?」
カオスだ。中身が中学生以上の小学生と、中身が小学生以下の中学生を両隣に並べてしまった。もう、頭が混乱しそう。
ひとまず私は菜純ちゃんが退屈しないように、と難しめのプリントを特別に用意した。ひとまずこれで、15分くらいは稼げるだろう。これで右隣に時間を割ける。
「よし。じゃあ、ひとまず今日は、英語の基礎、be動詞からやってみようか」
「なあなあ、先生。そのビー動詞って、そもそもそ何やねん。周りもみんな言うとるけど。ずっとそれ、疑問やってん。まず始めるんやったら、ビーからじゃなくて、エー動詞からやろ。都合よく飛ばされたら、エーが可哀想やん」
「いや、ないから。エー動詞なんて、そもそも」
「な、何やと? ビ、ビーがあるのに、エーはないんか?」
「ありません」
「そ、それはあれか。山にはあるのに、川にはないとか、そういうやつか」
「バカじゃないの」、という一言がまた出そうになったが、私は何とかまた持ちこたえた。
「ほんなら、シー動詞は? ディー動詞は?」
「違う違う、そういうABCじゃなくて」
「な、何や、違うABCがあるんか? それってC-C-Bみたいなやつか」
何なの、この子。どうやって今まで生きてきたの。それにどうしてC-C-Bを知っているの? もちろん、知っている私も私だけど。
「いい? be動詞って言うのはね、イコールのことなの」
「イコール? おいおい、ちょっと待てぇや、先生。なんでいきなり数学になんねん。これ、英語の授業やろ。数学やるんやったら、返金してもらうで」
「無料で受けてるくせに!」というツッコミも、私は何とか堪えた。
「あの・・・ちょっと、熊田さん。ちなみに今まで学校の授業中は、一体何をしてたの? すごい気になっちゃうんだけど・・・」
「知るか。そんなん、うちが教えて欲しいくらいやわ。エリートに聞き」
「エリート?」
「うちの担任や。と同時に、日本が産んだ人類史上最低の英語教師や。うち、二年連続あいつやねん。呪われてんねん」
「あ・・・もしかしてそのエリートって・・樋口先生って人のこと?」
「はあ? 先生、なんで知っとんねん、エリートのこと。あ、もしかしてあいつの元カレか? ツイートして、拡散希望のハッシュタグつけるで」
私は「違う違う!」と、ポケットからケータイを取り出そうとする手を慌てて制した。何と気が早い子なんだろう。
「ほら私、花塚中学校の担当だから、生徒から色々聞くの。学校の様子とか。それで、よく出てくるの、エリート先生って人」
「何や、そういうことか。そう、あいつ、チョー嫌味ったらしいねん。なんか大学もいいとこ出てて。トッポッキやったけな。それが満点やったって、いつも威張ってんねん」
きっとそれはトッポッキではなく、TOEICのことに違いない。主に社会人が受ける、民間の英語テストのことだ。きっとこの子は、音から、韓国料理を結びつけたのだろう。誤変換もいいところだ。
「でもな、エリートの奴、全然英語喋れへんねん。外国人の先生が来ても、ずっと無言や。言うても、いつも同じセリフばっかりや。ほんで分かってもないくせに『アハーン、ウフーン、イヤーン』とかの相槌だけ、一丁前や」
「ねえ・・・『アハーン』は分かるけど、『ウフーン、イヤーン』は言わないよね?」
「いや、絶対言うやろ。いくらアイツでも、結婚したら、」
「あー! ストップストップストップ! そこまで!」
私は大声で制し、菜純ちゃんの耳を塞いだ。
もう、とんでもない。こんな話、とてもじゃないが、菜純ちゃんには聞かせられない。家に帰ってから、今日授業中、隣でこんな話をしていた、と保護者に伝わったりでもしたら、入塾の可能性は一瞬で潰える。
「何やねん、最後まで言わせろや」
「あのね、雑談もたまにならいいけど、周りのことも考えてね、四葉さん!」
私にとっては珍しく、厳しい口調でそう注意した。
すると、少しは反省してくれると思ったが、彼女は少し驚いた表情をして、小さな声でこう言った。
「今・・・初めて名前で呼んだな」
「え?」
「だって、今までずっと『熊田さん』やったやないか。でも今、『四葉さん』って」
「あ・・・そっか、ごめん。ちょっと慣れなれしかったかな」
普段私は、幼い子には初めから名前で呼ぶようにはしているが、中学生以降は、仲良くなってからにしている。
名前で呼ぶのは、距離感を縮めるには効果的だが、時期とタイミングというものがある。ただ先ほどは、慌ててつい、名前が先に出てしまった。
「いや、それでええねんで」
「え?」
「うちな、好っきゃねん、名前で呼ばれるんが。ほら、『四葉』の方が幸せそうな感じがするやろ? でも、学校の先生はみんな『熊田さん』とか『おい、熊田』とか『いい加減にしろ、熊田』とか言うてくる。それがすっごい嫌やねん」
「自分の名前が好きなんだ?」
「それもあるけど、うち、自分の苗字が嫌いやねん。『熊田』やで?」
「いいじゃん。それに、別に変な苗字でもないし」
「じゃあ、とっかえてーや。うち、『熊田』やるわ。その代わり、先生の『若松』もろうたる」
「ダ、ダメよ、そんなの」
「ほら、先生かて、やっぱり『熊田』は嫌がっとるやん」
「違う違う、そういうことじゃなくて」
「じゃあ、とっかえてーや。先生、今日から熊田由璃な。『クマユリ』でええか?」
「ダ、ダメ! 違うもん、私!」
「あの、先生」
私たちはいきなり割って入ってきた、菜純ちゃんに振り返った。
し、しまった、騒ぎすぎてしまった。もしも勉強の邪魔になったとしたら、益々印象が悪くなる。
「ゴ、ゴメン、菜純ちゃん。ちょっと、うるさかったよね。集中できなかった? 今から静かにするね」
「いえ、そうじゃなくて・・・質問、なんですけど」
「え?」
驚いた。何だろう、質問って。講習が始まってから、質問なんて初めてだ。菜純ちゃんが解けないような難しい問題、プリントにあったっけ?
すると、菜純ちゃんはとても聞きづらそうな感じで、
「あの・・・何ですか、その・・・C-C-Bって」
「え?」
私はポカンとした。
「私、今まで英語の塾でも、聞いたことがないんですけど、それって大事ですか? テストとかにも出てきますか? C-C-Bって」
不安そうな菜純ちゃんの表情を、私は初めて見た。
その時、「止めてっ、ロマンチック~♪」という鼻歌が右隣から聞こえてきた。カオスだ、カオス。
「テストとかにも出てきますか? C-C-Bって」