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「和訳」ってダメなの?

今回、「和訳」に関して私の思うことを書きます。

恐らくですが、「和訳」がいいか悪いか、私ほど苦しんできた人間はそういないと思います。

そもそも私は中学一年生の時に初めて英語と出会ってから、塾で子供に教えるまで、人生の大半をずーっと和訳で、英語に向き合ってきました。そして、子供にもさせてきました。

英語の文章を見たら、すぐに訳す。日本語にする。もう、条件反射で英文を見たら、ぽろっと日本語が出ます。

別に不自由はありませんでした。筆記試験では。むしろ、それで恩恵を受けてきました。

ただ、聞けませんでした。話せませんでした。

だから、「訳せる=聞ける、話せる」の公式はもちろん、成り立ちません。
つまり、「全く別の道」だと考えた方が健全です。

こうして、訳して終わってきた日本の学生たちは、大学に入ってから、英語難民になります。どうすれば話せるようになるのだろう。

そう、本当に、本当に分からないのです。

英語は紙の上でしか、習ってきていないのですから。

こうして、書店に行き、次々とハウツー本や英会話本、表現集、英作文テキスト、イメージを使ったテキスト、TOEIC、聞けば話せるCD、発音教材などを買います。その他、英会話スクールに通う、オンラインレッスンもする。YoutubeやTed、海外ドラマも見る。洋楽も真似る・・・

今まで一本道だったのに、いきなり沢山の道が現れる。お金もかかる。

そして、どの道に進んでも上手くいかず、ここから堂々巡りが始まる。あれをやったり、これをやったり。そうこうしているうちに、社会人を迎える。

もちろん、私もその一人でした。

色んなものに手を出してきました。今まで大人に言われた通り、真面目にやってきたのに。

ただ、数年前、私が「英語で考える」というコンセプトのスクールに入った時、「聞く・話す」ために和訳は良くない、と言われました。

しかし、私は当初、その「意図」が分かりませんでした。

和訳しないで、どうやって理解ができるのだ。理解もできなければ、「聞ける」も「話せる」もないだろう。

ただ、私がそれを言うと、そのスクールのスタッフに悲しい目をされたのです。「可哀想に」。目がそう言っていました。

今、思うと、そのスタッフの気持ちがよく分かります。そう、やはり「可哀想」だったのです。

そして、もう一つ、言われたことがあります。

「訳」と「理解」は違うぞ。

これもいまいち、私にはピンと来ませんでした。

「訳」と「理解」は一緒だと思っていました。

そして、これが別だと気づくまでに、私は数年かかりました。

さて、こういうエピソードがあります。

私は昔、あるネイティブと一時期、お付き合いをしていたことがあります。

そして、その人は日本語を学んでいました。

そしてある日の別れ際、その人は何かを必死に思い出して、こう言ったのです。

「ゴキゲンヨウ」と。

何だそれ。

私は顔を顰めました。そんな「ごきげんよう」なんて。

小堺一機さんじゃあるまいし。

どこで覚えたのかと尋ねると、その人は日本語の対訳フレーズ集で「Have a nice day.=ごきげんよう」と丸暗記していたのです。

納得です。

そう、その人は私に「Have a nice day.」と言いたかったのです。

直訳すれば「いい一日をお過ごし下さい」でしょうか。

しかし、日本語では「いい一日をお過ごし下さい」なんて挨拶はありません。言ったことも言われたことも記憶にありません。

さて、私が言いたいことが分かるでしょうか。

そう、「Have a nice day.」は「Have a nice day.」でしかないのです。
そして、それは日本語にできません。また、する必要もない。

ただ、これを強引に、日本語にある挨拶表現に当てはめようとしたら、「ごきげんよう」に割り振られただけなのです。

しかし、やはり私からすると、「ごきげんよう」は、どう考えても「Have a nice day.」とイコールではないのです。

「Have a nice day.」はあくまで「Have a nice day.」であり、「ごきげんようは」はあくまで「ごきげんよう」なのです。

それと同じように、「big」は「big」であり、「大きい」は「大きい」なのです。「cute」も「cute」であり、「可愛い」は「可愛い」なのです。

第一義が似通って使われているだけで、全然「別物」なのです。「big」が背負ってきたものと、「大きい」が背負ってきたものは、歴史が違う。響きも違う。感覚も違う。使われ方も違う。

そう、今の私にとって、「big」と「大きい」は、リンゴとミカンのように、全然別物なのです。

この境地に至るまで、数年かけてしまいました。

そして、英語と出会ってから、数十年経っていました。

その昔、日本語訳とは「=(イコール)」だと思っていました。

そう先生から学び、子供にそう教えていました。

ただ、それはイコールではなかったのです。

そう、日本語訳とは「この英語、日本語に直したらこうだよ」というだけのものだったのです。

中には同じに近いものもあれば、大きくズレているものもあるでしょう。日本語感覚で使ったら、おかしな英語になるものばかりです。

さて、私たちは今まで、ずっと100年以上も訳してきました。

その行為とは、イコールではなく、ただ単に「この英語、日本語に直したら、日本語の文化に振り分けたら、こうだぞ」です。

そう、全ての英語表現を、全て日本語に置き直してきてしまったのです。

こうして、学生時代が終われば、全ての出発点は「日本語」になっています。

そう、ここから果てしない、次は英語への旅が始まるのです。

日本語から英語に切り替えるという、「茨の道」が始まる。

和訳から「英作文テキスト」に、慌ててテキストを切り替える。

ここでみんな、英語難民になっているのです。

そして、それができないのに、ネイティブを前にしても、話せるわけがない。ネイティブは「英語の天才」なのです。「英作文の天才」ではないのです。

だから、彼らにはアドバイスができようもない。「間違えを恐れるな」とか「洋楽を聞こう」とかピンと来ないアドバイスばかり。どの参考書が日本人にいいのかも分からない。

そして、発音も全く手をつけずにやってきたことに、ここで初めて気付きます。

そう、もう全てが終わってしまっていたのです。

もちろん、明治・昭和の時代であれば、別に良かったのです。英語を学ぶゴールが、「英語の文字を日本語にする」でしたから。「話す・聞く」必要なんて、ありませんでした。

ただ、平成になり、そして令和となり、日本人は英語を当たり前に「聞く・話す」時代に突入しています。

もう、どうでもいいのです。この英語の文字が、日本語に置き直したら何なのか、は。

日本人にとって、「英語の役割」が変わったのです。

自国の文化で言えばこうだよ、という異国語の対象から、それを自分で使って、世界でコミュニケーションを取るためのツールに変わってしまいました。

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この英語、何を表してんだろう、の時代です。

「finger」という文字を「指」と日本語に割り振るのではなく、ネイティブは何を「finger」と呼んでいるのかを見て、聞いて、「finger」と正しく何度も発音する時代なのです。

そしてその時に、初めて気付きます。

「finger=指」ではなかった事実に。

そう、あくまでそれは「日本語に割り振ったら」です。

その果ては、日本語の文化にズルズルと引きずられていく運命が待ち受けています。「○○って英語で何?」と「ネイティブは○○って言いません」の、地獄の無限ループが始まる。

英語を学ぶ目的が変わったのに、日本の学校では学ぶやり方が全く変わっていない。これが、日本人が被っている悲劇の全てです。

それを証明する資料がこちらです。

これは、1868年に、あの坂本龍馬の海援隊によって編纂された「和英通韻以呂波便覧」というものです。

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構成をご覧ください。

左に英語の文字、その下にカタカナのフリガナ、その横に日本語訳。約150年前、英語はこうして学ばれていました。

そしてこれが、2019年になっても使われている、一般的な単語帳です。

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「この英語の文字、日本語に置き直したらね」の視点。

学び方が、1ミリも動いていない。

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明治時代の1868年と同じものを使って、同じ発想で、黒船に勝てるのでしょうか。今は2020年です。

和訳が「悪い」とは言いません。そして、もう大人は引き返せません。新たに英語の考え方を身につけていくしかないでしょう。

ただ、和訳が全てになってしまったら、国民全体で今後も英語に振り回される運命が待っているのは、やはり確実なのです。

※文庫本が2019年末、重版になりました。どうかお読み下さい。【完全版・増刷版】は文庫本のみです。

いつもお読み頂いてありがとうございます。一人でも多くの人が将来、英語で報われるように、有益な情報を発信していきたいと思います。ご声援、ご支援のほど、よろしくお願いします😊✨