自分の意思はどこからやってくるのか
今日はクリスマス。
いつもの公園のだだっ広い草むらぜーんぶわたしのフィールドですって感じでドセンで一時間立ってたら、子どもが枝をお供え(?)してくれた。ありがとう。
無を知って始めて沸いた疑問・自分とは誰なのか
前回の日記で書いた通り、静功で思考がほぼ無に近い領域にいけるようになったわたし。それを知ってしまうと、自分が周りに溶け込んで一つになったようで、欲望やエゴがなくなったようで、とても気持ちよくてそしてちょっと人間っぽくない。
何もしないで長時間じっとしていられるのって凄いねと言われるが、あの爽快さはアッパー系快楽とは異なる気持ちよさがありハマる。
感情の周波数でいったら平和だろうか(そして日常に戻り社会の喧騒に揉まれ元の周波数へ⏬苦笑)
なるべくあの状態に近いものをキープしていたい、そう思って自分を観察していると、邪魔になってくるのがインナーチャイルドはじめ過去の記憶である。
イラついたり悲しくなったりしている自分、あの人のこんな所が凄く嫌な自分、それって純粋な自分の感情だろうか。
不機嫌だった親のパターンをコピーした子どものままなのではないか。
こうあるべきと言われて育ったのでそうでない人に苛立つのでは。
ダメ人間と思っているそのダメ判定の基準は何?
そしてそのまま己の本心に気づかず生きて死ぬ人は多いのでは。。
と気づいて愕然としたりした。
そんな時に知ったのがセドナメソッドで、これを日々やることにより癖づいている自分のパターンを客観視している。
安心できる愛のある家族のもとで育った人間と
安心できない家族のもとで育った人間、スタート地点がまるで違うんだよね。
でも親ガチャ失敗したわーと言っててもガチャポン前に戻れないし笑、
人生を振り返って学びが深かったのって失敗した時や苦しかった時だった。
毒家族持ちさんの中にはその問題を通して成長できる伸びしろ付で生まれてきた人もたくさんいるのだろうと解釈している⭐️
嫌な感情をもたらした過去を事実のままに受け止め、
邪魔な鎖を取っ払って
嫌な記憶を誘発しそうな環境を避けて
自分の魂が送ってくる情報に耳を傾けることができたら幸い。
本当の自分って何だろう?
こうあるべきという社会の縛りは減ってきて自由は増えたが、情報の波に揉まれていると自分が分からなくなる、そんな時代だ。
波に溺れないで自分の内面を見つめるには、余白が必要なのだと思う。
何もしない時間、生産性のない趣味、一人でぼーっとできる余裕。
自分の好きなことや夢中になれることを見つけるのは奇跡だ。