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自分と向き合うのに「言葉」は要る。

教育の機会とはなんだろう。山田ズーニー先生のコラムを読んだ。
「本当はこっちを伝えたかった」

ズーニー先生は「教育的機会を奪っていないか」と書かれているが、むしろ先生は与えているのだと思う。制限時間内というプレッシャーの中で書いてみることで、自分の気持ちが露わになってくる。仕上げてみて「本当はこっちじゃなかった」と気づくのはとても貴重。しかも書かないと達しない域。大切な機会。

私の講座でもそういう人は結構いる。私は「文章は結論を決めてから書いて」と指導しているので、書いてみてから「やっぱり結論変えます!」というのは、本当はいけないんだけど、これは、思考ツールとして言語を使い切った結果なんだと思う。もちろん覚悟を決める前と後で、文章の差は歴然。

必死に泣きながら自分の嘘偽りない思いを書いて、その結果「先生、やっぱりこの読書感想文、学校に出したくない」という子もいる。宿題を出さないことに対する処罰なんてどうでも良いほど、その子は自分と向き合って成長した。そんなとき私は「教育できた」と感じる。

自分と向き合うのに「言葉」は要る。

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