料理情報に疎いまま大きくなった、と言えない

私は、実はずっと言いづらくて言えずにいることがある。それは、大学生になって一人暮らしをするまで、いわゆる超有名な料理研究家さん(栗原はるみさんとか、小林カツ代さんとか)を知らなかったことだ。

私は共働き両親と妹の4人家族の中で育った。家の中には、溢れるほどの本があったけれど、きっとすごく偏っていたんだと思う。両親それぞれの仕事に関係する本か児童書か文学全集、みたいな本しかなくて、家庭的な実用書というものがほとんどなかった。唯一あったのは、母が結婚する際に祖母から持たされた『カラークッキング』全集と『十二か月』シリーズ。最新の料理雑誌は、ただの1冊もなかった。子どもの頃は当たり前だったから、それを不思議だともなんとも思わなかった。

母は大学卒業後、社会人になって2年ほどした頃に大学同期の父との結婚が決まり、実家から900km離れた、当時の父の勤務先近くに引っ越すことになった。その準備で半年ぐらい休職している間に、いわゆる嫁入り修行的意味合いで6回コースかなんかの料理教室に通ったきりで、結婚後は、外食先で食べて美味しかったものなんかをその『カラークッキング』全集なんかで探して読み解きながら、新しい料理をつくっていたのだろうと思う。

仕事しているため昼間の料理番組を見るチャンスも当然なく、買う本も自分の専門の数学の専門書ぐらい。仕事帰りに私たちを(放課後預かってくれていた叔母の家から)ピックアップして書店に行っても、なにせ時間に余裕がないから、立ち寄るのは専門書のコーナーで、実用コーナーに立ち寄る余裕はなかった。だから我が家には、日常的に料理番組を見たり、料理雑誌を買ったりする習慣が全然なかったのだ。私が子どもの頃に見た記憶がある料理番組は、グラハム・カーの「世界の料理ショー」ただ1つなのだから。(これはものすごくおもしろくて大好きだった)

私が料理に興味を持ったのは確か小学4年生の頃だ。毎日母の夕食の支度を手伝ったり、時々遊びに行く祖母の家のキッチンに入り浸り、ずっと普段見慣れない津軽の郷土料理が次々とできていくのを眺めたり手伝ったりしているうちに、料理を一人でするようになったんだろうと思う。

一番最初に作った記憶がある料理は、卵がゆだ。小学4年生のとき。その日私は熱を出して学校を休んでいたけれど、母も父もどうしても仕事で休めず、私は家にひとりだった。朝に母が、冷蔵庫にフルーツとヨーグルトがある、とかなんとか言ってくれたような気がするけれど、とにかく体が重くて頭も痛くて動けずに寝ていたのでよく覚えていない。うとうとして、また目が覚めて、またうとうとして、を何度か繰り返して目が覚めた時、急になんだか体が軽くなったように感じた。頭も痛くない。すると急に、とても、猛烈にお腹が空いていることに気がついた。
のそのそと起き上がり、誰もいない家(それには慣れっこなのでなんとも思わなかったが)のキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてみたけれど、冷たいものは食べたくない。炊飯器には、朝に炊いたご飯が残っていた。

「かぜのときには、おかゆだ」。おかゆ以外に今最適な食べ物があるだろうか。
片手鍋に炊飯器からご飯をすくい入れ、そこに水を適当に足して、火にかけた。(共働きの両親で、しかもおおらかな人たちなので、留守中に包丁を持ったり火を使ってはいけない、というお達しが全くなく育ったのが幸いした)
グツグツいっているが、どこまで煮たらいいのかよくわからない、でもまだイメージよりはシャバシャバしている、うーんでもお腹が空いていてもう限界。そこに卵を1個割り入れて、箸でグチャグチャグチャと混ぜてみたら、なんかちょっと水っぽさがなくなって、それっぽくなっている!
たまごがゆが完成した。ダイニングテーブルにひとりで座り、茶碗によそってちびちび食べると、信じられないぐらいおいしかった。塩で味付けするのを忘れたのに、ものすごくおいしかった。
それをきっかけに私は「自分でつくれば、自分の食べたいものがいつでも食べられる」ことに目覚めたんだろうと思う。

それ以降、ひとりでなにかつくろうと思い立ったときに手に取るのは、本棚に鎮座する『カラークッキング』全集だった。でも、やってみると、これがなかなか難しい。カラークッキング、とはいえ、完成写真がないものもあれば、あっても単色刷りだったりして、正解がわかりづらい。
そんなとき、小学5年生の時に誕生日のプレゼントに、オーブンをねだって買ってもらった。レンジ機能のない、電気オーブン。それには、付録として完成写真がオールカラーのレシピ冊子がついていた。オーブンと共に家にやってきた、最新の料理情報だった。その日から、冊子の最初のページから、1品1品つくった。6年生になった頃に、全ページ作り終わった。その経験は私の素地の1つになっているだろうと今でも思う。

しかし。だからといって、新しい料理本がほしい、とはならなかった。

元々本を読むのが好きだから、本からのアプローチがとても気楽だった。料理をしたいと思ったその時に、目の前にはとりあえずその道標になる、読みきれない、そしてつくりきれない膨大な量のレシピを詰め込んだ古臭い全集があったから。しかもそれは、決して今のように手取り足取り懇切丁寧に説明しているわけではないので、読み解くことに手応えがあり、完成形さえ自分に委ねられることしばしば。つくる前に、なにができるか自分でも未知数の部分が多いので、そのワクワク度がたまらくおもしろかった。外食しておいしかったメニューを、全集から探す。本の中に完成写真はないが、さっき食べた食事の残像と味の思い出はある。それを頼りに見つけたレシピを読み解いて、訳もわからずつくってみる。この繰り返し。合っているのかそうでないのか?まあいいか、の繰り返し。ずっとそれで事足りてしまっっていて、相変わらず料理番組が放送されている時間帯に見ることも、料理雑誌をみることもなく子ども時代は過ぎていった。

大学生になってからは、料理番組もよくみたし、料理雑誌にも目を通すようになった。でもたまに、自分が子どもの頃の著名な料理研究家さんの料理名や書籍名、テレビ番組なんかを言われても、実はなんのことだか分からずに、ひそかにドキドキすることがある。忘れずに覚えておいて、家に帰ってから調べて、なるほどこれのことかと合点する。
自分が気づかずに見落としてしまった1つ1つを見つけて、それを摘んで持ち帰り、穴の空いたパズルを埋めながら、なにか自分が全体の構図をつかもうとしているような気がしている。

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