同調圧力の強いニッポンで、あえて「自分の意見を言う」ことの大切さについて考えてみた

言いたいことさえ言えないこの世の中じゃ、ポイズン

なんて歌があったが(古い)

同調圧力強めの日本では、「出る杭は打たれる」なんてことわざもあるほど、「横並び」意識が強いと思う。

農耕文化で、共同体で生活し、徳川時代に滅私奉公なんてのを植え付けられ、さらに島国、鎖国で閉鎖的だった時代が長かったせいか、世間に嫌われると「村八分」になり生きていけないという文化がまだ根強く残っている気がする。

だから集団の中で「もっとこうしたほうが良いのに」とか思っていても、それを「あえて言わない」人が本当に多いなと思う。

そんな中で何か「もの申す」のはとても勇気がいることだが、ここ最近、あえてそれをやるように意識して生活している。

そんな「良いことを思っていても言わせない空気」と、その中で「あえてもの申す」ことについて、わたしが思うことを書いてみる。

みんなの中で浮きたくないけど、流されたくない。

ちなみに、こんなことを書いている時点でお察しの方も多いかもしれないが、わたしは、根本的に、「長いものに巻かれたくない」側の人間である。

流行っていようが、主流だろうが、嫌なものは嫌だし、おかしいものはおかしいと思う。逆に、どんなにマイナーだろうが好きなものは好きだ。ここは譲れないという、自分が大事にしていることもあるし、それを曲げてまで長いものに巻かれるのが息苦しい。

ただ、もともとは引っ込み思案で人前で発言することができず、モジモジしていたので、思ったことをドンドン言うようになったのは割と最近、ここ1年くらいの話。

周りから見ると、わたしは自信たっぷりで、堂々としているように見えるそうなのだが、実際のところ非常に小心者で、人目も気になるし、浮いた存在になるのは嫌だ。

わーわーきゃーきゃーとチヤホヤされたり、目立つのは嫌いではないが、集団の中で嫌われたくはない。

っていうか、他人に嫌われたい人いるの?って感じ。気にしない人はいても、積極的に嫌われたい人はいないんじゃないかな、と思う。

空気は読めるほうなので、自分が発言したことで、その場で浮いてしまったりするのは嫌だし、実際、発言したことで微妙な空気になったりすることもある。

わたしのような、出すぎたタイプを忌み嫌うような、年功序列型思考の人に嫌われてるなぁと感じることもあるし、嫌がらせっぽいことをされることも時々ある。

そういうことをしてくるのは、だいたいこのあたりの人。

発言することは、リスクでもありチャンスでもある

でも、自分の考えを言わなければ「言わなかったこと」になり、
わたしが考えたそのことは「存在しないこと」になってしまう。

たとえば、自分が大多数の意見に賛同できず、心の中ではそれを「おかしい」と思っていたとしても、それを口に出さなければ「同意した」とみられてしまう。

そのまま進んだ結果、自分が「反対しない」ことでその意見がそのまま通った結果が望ましくないものになったとき、わたしはとても口惜しい気分になる。望まない結果に、「反対しない」という姿勢で賛同したのはわたしだ。もし受け入れられなくても、自分の意見を「言うだけ言って」みればよかった・・という後悔をしたことも、何度もある。

逆にもし、とびきり良いアイデアがあったとしても、それを発信したり、誰かに伝えなければ、そのアイデアは世の中に出て行かないし、もし、それと同じことを誰かが言えば、その人が発案者になる。

もしかしたら、大きく外してしまうかもしれないが、もしかしたら、それが人の役に立って、グンと良い方向に進むかもしれない。「発言」は、リスクもあるが、大きなチャンスでもあると思う。

せっかく自分の考えがあるのだから、もし、その場が変わらなくても、伝えた相手に響かなくても、「言うだけ言ってみる」って大事だと思うのだ。

ベンチャー企業時代につけた「発言する力」


引っ込み思案だったわたしが、どんどん発言できるようになったのは、ベンチャー企業での経験が大きいかもしれない。

ガラケーでインターネットサイトが見られるようになり、「iモード」などで携帯コンテンツを楽しむようになった時代にできた会社だ。わたしが入ったころは、わたしも含めて中途入社で大量に人を採用していたようで、いわゆる「ベンチャー気質」というか、とにかく自己主張が強い人がたくさん入社していた。

なので、総務と営業のぶつかり合いや、営業と制作サイドのケンカなど日常茶飯事。主張してナンボ、言い負かしてナンボな空気が漂っていた。

そんなベンチャーなのでOJTなど研修があるわけもなく、基本、何も教えてくれないというビックリな環境だった。

フレックスタイムの会社だったので、入社初日は10時に出社したが、上司は来ていなかった。上司が来るのが昼過ぎなんて当たり前、下手すりゃ徹夜明けで寝ていて来ない、なんてことも日常茶飯事な会社。やることがなくて会社案内をとりあえず2時間くらい読んだところで、わたしの上司がやってきた。そこで何を教えてくれたかと言えば、特に何も教えてくれなかった。

その代わり、企画100本ノックみたいなことをやらされた。

WEBコンテンツを企画する部署に入ったのだが、まずはとにかく自社のサイトを見て、もっとこうしたほうが良いというアイデアや、自分がどんなコンテンツを作りたいか、とにかく書けるだけ書きだす。そのうち形になりそうなものを企画書にして見せる。

わたしはまだiモードサイトが見られる携帯を持っていなかったので、会社用の携帯をいくつか借りて、まだ電波の入らないオフィスビルの高層階から下に降りて、ベンチに腰掛けて、自社のサイトをひたすら眺めた。

昔のガラケーサイトは、スマホのようにどの機種でも同じように見えるわけではなく、ドコモのiモード、j-phone(現ソフトバンク)、ezweb(現au)と仕様も異なり、それぞれ別にサイトを作る必要があった。さらに機種ごとに見え方が異なるため、いろんな機種を持って見比べて、どんな風に見えるのかを学べということ。

誰も教えてくれないので、自分で、自分なりに研究するしかない。そこで気づいたことを書きださなくてはいけないのだから必死だ。

とにかく否定をしない「ブレインストーミング」


この会社に入ってから、「ブレインストーミング」=略してブレスト、をよくやらされた。頭の中に沸いた玉石混交のアイデアを、とにかく否定せずにひたすら出し切って、そこから実現可能なアイデアを拾い上げるという手法。

この「ビミョーかもしれないアイデア」を、どんどん言うというのは、従来の日本人には割と勇気がいることだ。どんなにくだらないと思うアイデアでも、それを否定しないでどんどんホワイトボードに書きだしていく。このプロセスは私にとっていい訓練になった。

日本人はサムライ魂が強いのか、ダメ出しの多い文化だなと思う。ストイックであることは時に美しいが、自分の良いところを見ず、足りないところばかり見るクセをつけてしまうな、と思う。

「できた」ことに目を向け、失敗を恐れず発言する資質を身に着けることは、今後のグローバル社会では必須な要素なのではないかと思う。


人生の後半を、どう生きたいか?


昔から、本質的なことに目を向けるタイプだったので、いろいろと思うことはあったのだが、ベンチャーで発言することを鍛えられ、その後自分で起業をするなどして人前で話す訓練もしたせいか、ある程度のグループを取りまとめることなどができるようになってきた。

それでも、つい最近までは、自分がリーダーとして任命されている場合には、権限があるためある程度気を遣わずに発言できるが、不特定のメンバーが集まる集団、たとえば習い事だったり、職場だったり、そういう場面では思うところがあっても発言を控えることが多かった。

けれど、数年前に乳がんを患ったことで、わたしもいつかは死ぬんだな、ってことをちょいと実感した。

そして今年48歳。アラフィフになり、人生が折り返しに差し掛かっていることを実感するようになった。それは人生の後半戦を意味する。今までやってきたことを振り返って、今後の人生をどう生きたいか??を改めて考えてみたときに出てきたのは「後悔の少ない人生を生きたい」だった。

やった後悔より、やらない後悔


行動力があり、思い立ったが吉日、と行動に移すほうなので、わたしの場合、後悔は「やらなかったこと」の後に大きくやってくる。

やった後悔より、やらなかったときの後悔の方が大きいと言うが、まさにそうだ。やりはじめて違うなと思ったら、方向を変えるとか、辞めるとか、いろいろな選択肢があるけれど、やらなければゼロのまま。そのくせ「あのときああしていれば、どうなっていただろう」なんていう夢想もついてくるのでタチが悪い。

これと同じで「思っていたのに言わなかったこと」についても、結構後悔することが多かった。

だから、今後の人生は、他人に嫌われたくないとか、そういうくだらないことを気にするよりも、自分が考えていることは、できるだけ発信したり、発言するようにしている。

こうしたほうが良いな、とか、それはおかしい、とか
そこは個人の感覚だが、おそらくそう思っている人が他にもいそうだけど、誰も言い出さないな場合などは、特にあえて発言することにしている。

結局、発言した人が矢面に立つことになるし、言わなければそんなリスクもないし、発言しなければ責任を取ることもない。

でも、わたしはせっかくなら面白い人生を生きたいし、ゼロのままより、たとえマイナスになったとしても、物事を「動かす」ほうを取ろうと思って行動している。

そうすることで、自分もチャレンジしたことで、その物事が思うようにいかなかったとしても、やれることはやった、という気持ちで受け入れやすいし、わたしの知らないところで「こう言ってくれてよかった」と思う人がいるかもしれない。

そのぶん「出しゃばり」と嫌われることもあるかもしれない。だが、その反面、わたしの意見を「いいね」と言ってくれる人が出てくる可能性もあるし、そういう人と濃くつながりを持てる可能性がある。

だから、多少のリスクを取ったとしても、あえて口を開き、自分の思いを伝えていこうと思っている。そうすることで、少しずつでもわたしの周りの何かが変わっていくのではないかと思うし、そう考えると毎日がワクワクしてくるのだ。


同調圧力について、詳しくは鴻上尚史さんの本をどうぞ。自分がなぜこんなに息苦しいのか、その構造がわかりやすく書かれていて、膝を打つこと間違いなし。

今日もお読みくださりありがとうございました!

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