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かたいものをやわらかくする、ということ

「わかりやすさ」があふれている。

「かたいものはやわらかく、わかりやすく、親しみやすくしよう!」という圧力を感じると、「かたいものはやわらかくすべきなのか?」という問いが立ち上がってくる。社会学部卒のわたしは恩師に「本当にそうなのか、物事をつねに疑え」と教えられてきたので、都度こうして立ち止まって考えるのが体に染みついてしまっている。

わたしが気になっているのは、その圧力のなかに「やわらかいものこそよいものだ」という正義を感じるからで、わかりやすいものは善、わかりにくいものは悪と単純化した考え方はあまりにも無邪気すぎるように思う。

出会いの扉は外に向かって開かれるべきと思うけれど、過度にわかりやすく、親しみやすくすることで失われていくものもある。

たとえば小説を読む前にあらすじを読むことがある。それは何百枚にわたって書かれた文章のエッセンスを凝縮したもので、それを読めばその物語の雰囲気はなんとなくわかる。

けれど、その本を読んだあとにあらすじをもう一度読むと「この物語をこう切り取って書いていたのか」と、あらすじを書いた人の意図を感じることができるし、実際に読んだときの印象とあらすじから伝わってくる印象には乖離があることが多い。

ここで書きたいのはあらすじの是非ではなく(あらすじを読むのは大好き!)、あらすじはあくまであらすじであって、物語を読むという体験とはまったく別のものである、ということだ。

あらすじを読んだときには触れられなかったエッセンスが、時間をかけて読んだ作品のなかに多分に含まれている、ということ。わたしはそのなかの何気ない一節に心震わせる。そんな思いがけない出会いを求めてページを繰っているといっていい。

もちろん文化の楽しみ方はひとそれぞれ自由だ。けれど、入口が強調されるあまり、そういった思いがけない出会いを体験するよりも、「消費する」方にばかりひとの関心が向けられていってしまうのには一抹のさみしさを感じる。

食事だって急いでかきこみたいときもあれば、ゆっくり時間をかけて好きなひとと味わって食べたいときもある。入口は広く、奥行きは深く、そのひとの好奇心や心の状態に応じて楽しめる、そんな懐の深さが本の好きなところなのだけど。

そしてなにより渇きをいやしてくれるのは、わかりやすいものとは限らない。自分の頭の外にあるなにかとの偶然の出会いが心を救ってくれることがある。旅先で生まれ変わったような気持ちになるのは、偶然との出会いや自分の「あたりまえ」の外にある、「わからない」ものとの出会いがあるからだ。

いつもお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、これからの作品作りに使いたいと思います。