女の子と花と猫

触れられて、わたしたちはめざめる

女の子と花と猫

「いまを生きる」ということを考えるとき、切り離して考えられないのは自分自身の肉体のことだ。
何かのいたずらで肉体を持って生まれたからには、「いまを生きる」ことは「肉体とどうつきあうか」ということと密接につながっている。

一人でいるときは、自分のいる空間そのものが自分のように思える。それが2人になると、自分の肉体がはっきりと自覚させられる。他者の視覚や触覚によって、わたしの形があきらかになっていく。頬、肩、胸、背中、触れられて初めてそこに肉体があると感じ、心臓が動き始める。わたしもまた他者を見つめ、触れることでその身体をはっきりと知覚する。「在る」ということを。肉体の感覚は研ぎ澄まされ、わたしたちは一人から二人に目覚める。瞑っていたもうひとつの目が静かに開く。

肉体が、なければいいのに、とよく思っていた。どんなに好きになっても、わたしたちは肉体によって制限され、個として確立し、交われないと感じていたからだ。

好きなひとにどうしても触れられない。心が、身体が、そのひとを求めているのに触れられない。どんなに杯を重ねても、どんなに言葉をつくしても、手前のところでしか交われない。身体の距離が近づけば近くほど、その肌の奥に触れられないことが狂おしい。肌の匂いを想像しながら歯噛みする。

肉体がなければいいのにと思いながら、人間として肉体を持って生きることをつよく欲しているという、矛盾。生きることは、矛盾だらけだ。ほんとうに。

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