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「強さ」を構成する大切なもの

石井ゆかりさんに『花と言葉』を差し上げたら、石井さんのインスタでコメントとともに紹介してくださった。石井さんの言葉に日々背中を押していただいているわたしにとって、それは思いもかけないことで、震えた。

そのなかで石井さんは「柊さんは強い方」とおっしゃっていた。何度も読んだあと、それが指している意味について考えていたのだけど、はっきり答えが出なかった。わたしにとって「強さ」という言葉は、ときどきとてもむずかしい。

考えているうちにひとの意見を聞いてみたくなって、「強さ」ってなんだろうと夫に話を持ちかけた。しばらく2人で話しているうちに、「強さ」にはいろんなものがあるよね、という話になった。

わたしが「強さ」と聞いてまずイメージするのは、いわゆる父性的な強さだ。小さなことに動じず、威圧感さえ感じさせるようなパワーを持つ、圧倒する「強さ」。
でも、ひとを受け入れられる「強さ」も、静かに大地に根差し立っている「強さ」もあるよねと思い出したのだった。

しばらく話しているなかで、自分が無意識に考えている「強さ」はどんなものなのかが、はっきり照らされたように感じた。「強さ」の表象にはさまざまなバリエーションがあるのに、揺らがず、他を圧倒し、打ち負かすような性質こそが「強さ」で、それを持つのが「強いひと」なのだと、どこかで思っていたことが。

考えが整理されてすっきりするのと同時に、自分がすこし恥ずかしくなった。「強さ」とは、本当にわたしが無意識に思っているようなものなのだろうか?と考えたとき、自分のなかにある「強さ」に対する思いこみ、とりわけその言葉に抱くネガティブな感情がひとつ解けたような気がした。

そして自分が過去の体験のなかから「強くあってはいけない」「強いことはよくないこと」とどこかで学んでいたことにも気がついた。こちらについては女性としてどう生きるかの話になってくるので今回はこれ以上書かないけれど、長年の思い込みが外れると、清々しい一方で、ひとの前で裸になったような気持ちになる。

話を戻そう。
「強さ」がわたしのなかにあるとすれば、それをなにに使うかがとても大切であるということ。つねに内省しながら慎重に進んでいくこと、それもまた「強さ」なのだと思った。そう考えると、わたしの臆病な性格もまた、「強さ」を構成する大切な要素なのだと思えるのだ。

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