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完璧を目指しているときには訪れなかったこと

仕事柄、自分で自分の絵を言葉で説明することがあるのだけど、言葉にできることのほかに絵に宿っている何かがある、と、ふと考えた。

よいものを作ろうとし続けるかぎり、自分の意識の外の力が絵に作用するように感じる。意図していないその「なにか」は、折り重なる「誰か」との対話でできているように思える。ここで言う「誰か」とは、ひとだけではなく多岐にわたっており挙げきれない。花や、風や、鳥や、木、もっともっとあるけれど、いわゆる「常識」の外にある対話の相手のことだ。

自分でコントロールできることと、できないこと。よいものを作るという意識のいっぽうで、どこかなにかにゆだねている。それによって自分のよく知る世界の外に、ひょいと出られることがある。理性的に完璧を目指しているときには訪れなかった瞬間。

何かを作ること、そしてそれを鑑賞することは旅みたいだ、と思う。わたしたちは自分の価値観を通じてものを見て、世界のある部分を切り取りオリジナルの世界を構築し、その中で生きている。一人一人住む世界は違っていて、誰にも替わることはできないのだけど、旅することはできる。好きな誰かの世界を訪れ、そこで見える世界(の見え方)を楽しみ、ふたたび自分の国へ帰ってくる、というふうに。

イラストレーターは自分が世界をどう見ているかを描く仕事だと、恩師の木内先生が言っていたと思い出す。それは自分が見ている(住んでいる)世界へ旅したいと思ってくれるひとと出会って初めて仕事になる。そう考えると気が遠くなるが、旅したいと思ってくれる希有なひとともこの数年でたくさん出会えたように思う。入国ゲートを通った誰かと握手を交わすことはやはり格別な想いがある。島国に住んでいるから余計に、なのかもしれない。

自分が見ている世界と誰かの見ている世界。そのどちらが優れているとかどちらが欠けているとかそんなことはそもそもない。2つを比べる物差しも、単位も、その前提となる環境が変わってしまえば役に立たない。(もちろん、現実の世界にいるかぎり、誰かと比べられたりすることは避けられないのだけど)

わたしたちは現実の世界で旅先を選ぶのと同じように、絵の世界でも訪れたい国を選ぶことができる。「心地よい場所が好きだからここ」「刺激的な場所で元気をもらいたいからここ」「技術を学びたいからここ」と、そのときの気分や目的によって自由に旅先を選ぶことができる。そしてお気に入りの国ができたらそこへ何度も遊びに行って、気の合う友達や、なじみの場所を作ることもできる。友好国になることもできる。それもまた楽しい。

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