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「みえる」「みえない」とはなにか

友人の子が、部屋の誰もいないところを見ながら飼っていたねこの名前を呼んでいたという話を聞いて、ふと、「みえる」とはなんだろうと考えた。

「見える」は物理的に「みえる」ことである。「視える」は物理的に見えないものが「みえる」ことである。「視える」には特別な、秘密めいた力の発動があって「視える」のであろうと思っていた。

しかし、である。

わたしが昔飼っていたセキセインコのチャッピーを思い出すとき、はたまた夢の中で戦争に巻き込まれながらも生きていこうと決めるとき、わたしはあきらかになにかの器官を使ってそれを「みて」いる。

イラストのオーダーで、いまはここにいない大切なひとや、飼っていたペットの話を聞くことがある。その方の話を聞くうちに大切なひとやペットの姿があざやかに「みえて」くる。「見る」「視る」の違いは、もしかするともともと「みる」力を備えているわたしたちが、何を「見る」と定義するか、にあるのではと思えてくる。理性を身につけた大人は、常識の物差しを使いながらものを「見て」いるから、光を反射するなにかこそ「見える」ものであり、光を反射せず、実体のないものは「見える」ものではないと区別して考えているのではないか。

社会的な生活を送る上で、常識的なものの見方を身につけることはとても重要である。「見えない」はずのものを「見える」と言い始めるとコミュニケーションの齟齬が生まれてくるから、大人たちは「見る」と「視る」のあいだに線を引きながら暮らしているということになる。それなりに常識を身につけたわたしも、「見る」とはどんなことを意味するのかを理解しているから、突然誰もいないところをさして「見える」というようなことはあまり言わない。だが、そうやって目で見えるかどうかを基準に世界を理解していこうとすると、そこにはどこか無理が生じるなあと思うわけなのである。子どもだけにみえているねこは、存在しないと言えるのか?

「みる」とは本来「見る」よりもずっと多様なものだ。常識を身につける前の子どもが「見る」か「視る」かにこだわらず、ただ、「みる」姿に、常識と引き換えに見落としている「みる」力について想いをはせずにはいられない。

常識的な意味での「見る」と、本来の「みる」、これはまったく別のものではなくどこからどこまでを「みる」と定義づけるかの問題でしかないように思える。だから常識的なわたしたちも、自分の力でその線引きをとっぱらってみることで「みえる」ものが変わるのではないか、と。

そうやって世界をみてみると、生きているひとも死んでいるひともともに存在しているのを感じる。実存は、いのちやもののある一側面の現象にすぎない。もちろん「見る」世界でできるような体温のあるふれあいはできないから、「見る」世界から誰かを失ってしまう悲しみはどうしたって消えないのだけど、このことは生きているわたしにひとすじの光を投げかけてくれる。

追記:もちろん線引きを変えても、視力のよしあしがあるようによくみえるひととみえないひとがいるのだと思う。

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