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言葉を獲得する

「一日野づらや川辺や林の中を歩き回り、いたるところでイメージを採集する。そして、日が落ちると家に帰って、明かりを消し、眠る前に長いことかかってそれらを反芻する」
––阿部昭『短編小説礼賛』(岩波新書)p.69

これを読んだとき、頭に電球がパッとともる感覚と、出会えた、という安堵感があった。その文字をなぞって読み直してみる。

一見、「無駄」だったり「遊び」のように思えること––散歩したり、ひとと語り合ったり、本をめくったり、そういう、仕事とは切り離された(ように見える)ことは、会社員として時間を拘束されることに慣れていた自分からすると、なんだかさぼっているように思えて、誰も見ていないのに罪悪感を感じ、そうすることに対してすこし気後れしているところがあった。

けれど、この文章を読んだあとは、その時間こそがもっとも重要である、と確信を持って言える。

身体を外気にさらし、風に震える葉のざわめきを聞き、鳥たちが声高に響かせるさえずりに耳を傾け、太陽の光を絶えず遊ばせる水面を眺め、地面にうつる大きな葉の影におどろき、子どもの歓声に耳をひきさかれながら、すこしずつ自分の中に気配が重ねられていく。

だから「採集」という表現は、言葉を持たない自分の感情にとてもしっくりきた。それは今日食べるものをとってきて、料理して、みんなで食べるような、ごくシンプルな、わたしたちのいのちの営みと似ている。

ひとりデスクに向かって編む。自然を、社会を、空気を材料にして作っている。絵を、物語を、言葉にならないなにかを。わたしと世界のあいだを循環していくそれを眺めていると、自分がいままさに生きていることを実感する。

そんなことを考えながら末広町を歩いている。歩を進めるたびに日は暮れていき、夕ご飯はなにを食べようと考える。指先は冷えているけれど、心はほのかにあたたかい。銀座線はラッシュを迎え、四方からぎゅうぎゅう押されながら、頭の端のほうでうっすら赤ん坊の泣き声を聞いている。

そうしてゆるやかに一日は終わる。明日は、いや明日も、すばらしい一日でありますように。満員電車の中で、静かに願いをこめる。

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