生きる意味も命の価値も、問う必要なんかない。 ーやまゆり事件に想うことー

2020年1月8日。

私にとってとても辛く、とても他人事にできず、何度向き合っても悲しい気持ちにとらわれてしまう事件の初公判が行われた。

45人の入所者を殺傷したやまゆり園の事件だ。

朝から遺族の実名報道など、この事件を再び鮮明に思い出し、苦しくなる時間を過ごした。
気分転換という名のもとに、考えることを避けて、私はいつも通りコルクラボの定例会に向かった。
今回のゲストは登山家の山田敦さんだった。

「好きを突き詰める」をテーマに行われた対談の中で、本筋とはそれるけれど、「登山家にとって死は身近だ」という話があった時、私の頭の中でも「死は身近だ」と思った。

何度振り払おうと思っても、スマホに届くLINEニュースも新聞社からのメールマガジンも、テレビの報道番組からも、初公判のニュースが流れてくる。

何度も向き合っても自分の気持ちを言語化できなかった3年半前の事件を、今こそ向き合って、生きる意味、命の価値、この事件に想うことを自分なりに言語化したい。

あの日

速報ニュースがスマホに届いた瞬間、誰かが被害にあっているんじゃないかと気が気じゃなかった。

私は神奈川県内の特別支援学校で教師をしていた経験がある。
この世界は、割と狭い。
だからこそ、誰か知り合いがその場にいたのではないかと不安になった。

大学時代に付き合っていた彼は相模原市に住んでいた。
彼の弟も重度知的障害者だった。
別れてから5年以上連絡を取っていなかったけれど、この時ばかりはもう二度と会わないかもしれない彼の弟の無事を知りたくて連絡をした。

弟の無事を知らせるメールと同時に「卒業生が入所しているかもしれない」と書かれていた。
彼も当時、神奈川県内の特別支援学校の教員を務めていた。

その後、卒業生が無事だったかどうかは確認していない。
というか、教師は服務規定が厳しく、在校生や卒業生の情報は極力外にはもらさない。

だからこそ、自分が勤めていた学校の卒業生が関係してないか、ものすごく不安だったけれど、この事件が起きたとき、既に教師を辞めていた私には情報収集のしようがなかった。

混乱のさなかに、野次馬のように自分が動くのも良くないと思ってじっと耐えた。

・・・といえば、聞こえはいいかもしれない。
まもなく開幕するリオパラリンピックを前に、仕事の忙しさを理由に一度このことに向き合う自分をシャットアウトしただけだった。

SNSには教え子の保護者達の悲しみ、不安、怒りがあふれていたけれど、私はなんと声を掛けたらいいのか、何をしたらいいのかわからなかった。
とにかく目の前の仕事を頑張るしかないと思ってがむしゃらに働いた。

事件の約半年後、自分が顔も名前もどんな人かも知っている方がこの事件で亡くなったことを知った。

死が身近にあるということ

教師だった3年間で、在校生と卒業生4人の死に向き合った。
いずれも当時の私より年下の子たちだった。

一人の在校生の死は、一番仲の良かった同期が担任をしていて、保護者からの訃報の電話を受けたのも彼女だった。
動揺して肩を震わせる彼女と一緒に涙した。

肢体不自由の子供たちの中には、口で食事をすることや呼吸をすることが困難な子たちがいる。
重度の障害をもつ子たちと一緒にいると、死はとても身近だとイメージされるかもしれない。

漠然と、私たちよりも短い命かもしれないと思っていたにもかかわらず、まさか本当に自分たちよりも早くこの世を離れるなんてことは、その時まで全く考えていなかった。
いきなり死がリアルなものになってものすごく怖くなった。
子どもの死に向き合う覚悟がまだできていなかったことを実感した瞬間だった。

肢体不自由だけでなく、知的障害のある子どもたちも、私たちが思いもしない理由で亡くなったりする。
例えば盲腸とか、誤嚥による窒息とか。
お味噌汁のわかめで窒息してしまう子もいるのだ。
言葉で不調を伝えられず、気づいた時には手遅れだったということも実は多い。

教師の経験を積み重ねることで様々なリスク管理をして、ある程度の覚悟をもって向き合っていっても、唐突に訪れる死という現実を受け止めることもかわすことも難しいと思った。

限りある命だとしたら、私が今、彼らに伝えるべきことはは何なのだろう。
一時期、教師である自分のやるべきことを見失った。

そんな時にベテランの教師に言われた言葉が、今も頭に残っている。

「私たちには寿命を延ばすことはできないけれど、密度を濃くすることはできるはず。」

将来のために身に着けるべきこともたくさんあるけれど、もしかしたら私たちよりも早く旅立ってしまうかもしれない。
だからこそ、毎日を充実して過ごせる力を身に着けてほしい。

そんな思いにがむしゃらな三年間だった。

コミュニケーションが“取れない”ということ

そんな私が教師を辞めたのは、彼らの人生の密度を濃くするためには、社会の側にもっと変わるべき要素があると思ったからだった。

植松被告はコミュニケーションを取れない入所者を狙って殺害をしたという。

私は最重度と呼ばれる子たちと関わってきて、全くコミュニケーションが取れないなんて思ったことは一度もない。

小学部から特別支援学校に通う子どもたちは、精神年齢が0.5歳~3歳くらいの子供たちで、言葉を使う子や文字を使う子はかなり少なかった。
彼らは、彼らなりの言葉を持っていて、彼らの意思があって、彼らなりの手段で常に私たちに何かを伝えようとしてくれている。

私たちが使うような言葉や文字ではないかもしれないけれど、小さな身振りや発する声や目線など、いろんな手段で伝えようとしてくれている。

問題は、受け取る側だと思っている。

当時担任していた言葉を使わない子が発する「るー。るー。るー。」という言葉が、当時『おかあさんといっしょ』で流れていた「さるさるさ」の歌を歌ってほしいというサインだと気づいたとき、「今まで気づいてあげられなくてごめん。」と思った。

ただの喃語だと思っていたら、気づくことは絶対にできなったはずだ。
ある時は「とーとー」になって、ある時は「るーるー」になる。
それに意味があるはずだと思っていなければ、きっとずっとわからなかった。
ちなみに、るーるーが「さるさるさ」で、とーとーは「トントントントンひげじいさん」だった。

彼らはずっと、何かでつながろうとしてくれているし、何かのサインを示している。

そのサインをこちらが見つけなければ、もちろんコミュニケーションは成立しない。
もしその子が、あの現場にいたならば。きっと殺害の対象になっていたと思う。
だからこそ、この事件が怖いし悲しい。

植松被告にとって、コミュニケーションが取れないだけで奪われた命は、どんなに願っても返ってこない。

生きる意味・命の価値とは

コミュニケーションが取れない人がいるのかいないのか、その議論はぶっちゃけどうでもいい。

事件当時、植松被告の「障害者は生きていても仕方がない」という発言に対して、一部のネットでは「確かにそう思ってしまう」という意見が少なくなかった。

重度心身障害の彼らが、今の社会システムの中で何かを生産したり生み出したりするのはとても難しいし、月に15万円を稼げるようになるのもとても難しい。

じゃあ、障害者の生きる意味はないのか?
そんな議論が起こるとしたら、私はそもそものその議論を問いたい。

私たちは、障害があろうとなかろうと、「生きる意味」を他人に定義されないと生きていてはいけないのだろうか?

私は今、うつ病で働けていない。
収入はないのに、社会保険料は支払わなければいけないし、医療費もばかにならないくらいかかる。もちろん食費もかかる。
家族にとって負担でしかない。
その私は、生きる意味も価値もないのだろうか。

自分で自分を責めることはある。
でも私は、自分の家族や友人が同じような状態だったとしたら、絶対にそんなことないっていうだろう。

人間って、そうゆうものなんじゃないだろうか。

メリットになるから一緒にいる関係なんて友人関係じゃない。

12月に生まれた甥は、ただ生きているだけでそれでよくて、寝ておっぱいを吸うこと以外しないし、何かを生み出しているわけではない。
でも、だからと言って無価値だなんて誰も思わない。

障害があろうがなかろうか、人間の生きる意味も命の価値も、私たちは問う必要なんてないはずなのだ。

障害があるから迷惑だとか、障害者は役に立たないとか。

思うのは勝手だ。でも、そんな言葉はすべて自分たちに返ってくる。

働けなくなったら無価値ですか?
動けなくなったら無意味ですか?

そんな社会で、あなたは生きやすいですか?

このnoteを書いている私だって、この10分後に生きている保証はないし、意識はあるけど全く身動きが取れなくなる状況にならないなんて言いきれない。

誰だって、誰かの役に立てなくなる時が来る。
それでも、ただ生きているだけでいいのが、人間なんじゃないかと私は思うし、そう思っていたい。

私たちは、生まれてくる場所も容姿も性別も、生まれてくる時期も、一切自分の力でコントロールできない。

お金持ちをうらやましいと思ったり、美人をうらやましいと思ったり。
そういった感情が沸くのは人間として仕方ないことなのかもしれないけれど、五体満足であるのは、私たちが徳を多く積んだからじゃない。

誰も選べないし、誰の責任でもない。

だからこそ、生まれてきたからには、ただその命があるだけでいい。

そう思えるのが、人間であってほしいし、この社会であってほしいと私は思う。

だからこそ、私はもう、生きる意味とか命の価値とか、そういったことを問いたくない。

私自身がこの社会で生きていくためにも、私の生きる意味も命の価値も誰かに評価されたくない。

重度障害者の生きる意味も、私たちの命の価値も、誰かが考えることじゃない。

命があることに無意味なんてない。

もう否定しあうことはやめよう。

私たちから、認め合う時代をつくろう。

それがきっと、私たちにとっても幸せな社会だと私は信じてる。

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