スポーツは、だれのもの?
Stay Home。
接触する人を8割減らそう。
パラスポーツエバンジェリストとして3月に独立したけれど、私は、この記事でも書いたように運動音痴。
外出自粛の前からずっと、スポーツは観る専門。
それでも、インターハイや全中の中止のニュースに、感じる痛みがある。
甲子園がどうなるのか、それに対して、頭で考えることと心で考えるものが違う複雑な感情を抱く。
スポーツができないこと。
急に目標を失う辛さ。
中学時代のわたしは運動部だった
先に紹介した記事では、書かなかった、いや書けなかった過去がある。
それが、実は私は中学時代はスポーツをしていたということ。
私は、幼いころから運動はとにかく苦手。
小学校が単学級だったこともあり、6年間ずーっと運動神経悪いキャラ。
そんな私は、高校でマネージャーという響きに憧れて野球部の門をたたいたことからスポーツ好きが始まった、と先日の投稿で書いたけれど、実は私、中学時代は運動部だったのだ。
それも、器械体操部。
もちろん、マネージャーじゃない。
家族にも友達にも「やめた方がいいよ!死ぬよ!!」と本気で止められた。
それくらい、運動神経が悪かった。
それでも、かっこいいと思ったし、バク転とかできるようになりたかった。
ただ、それだけの気持ちだった。
部活に入ったら、できるようになるかもしれない。
そんなかすかな期待を胸に、体操部に入部したのだ。
圧倒的な劣等生
中1の入部者の最初の課題は、鉄棒の蹴上がり。
「体操部に入部者なのに、逆上がりできないのか。」
逆上がりができるまでは蹴上がりの練習はNGとのことで、みんなが蹴上がりの練習をする横で、ひたすらに逆上がりを練習していた。
それでも、1学期のうちにできるようにはならなかった。
中1の夏合宿は日大藤沢高校の体操部にお邪魔して2泊3日の合宿を行う。
貴重な練習用具のある環境でバク転とか宙返りの練習とかしながら、並行して私はずっと逆上がりの練習だった。
とっても珍しい存在だったみたいで、怖いと有名だった高校の体操部の先生がめちゃくちゃ優しかったのを覚えている。
3日目の合宿終了間際にようやく成功。
見守ってくれていた人たちが拍手してくれたこと以上に、「できた」ことが嬉しかった。
誰から見ても私は劣等生だった。
逆上がりはできるようになったけれど、蹴上がりは一向にできない。
試合には出るものの、逆上がりで段違い平行棒の演技をスタートするしかなかった。
跳馬が比較的得意だったけれど、とはいえひねりは入れられず。
バク転は辛うじてできたけれど、ゆかでの宙返りはできなくて、自由演技はハンドスプリングとバク転しか技がなかった。
後輩が入ってくる中2の春。
私の学年の女子部員は私含めて3人いて、顧問の先生が1年生にこういった。
「Aさんの技を見習いなさい。Bさんの演技を見習いなさい。ゆかのは…スタイルだけでいいや。ゆか、太るなよ。」
私は当時160㎝くらいあったので、体操選手としては大きすぎるんだけど、体重が42㎏だったのでスタイルだけは良かった。
良いところが1つでもあったらそれでよかった。
楽しいだけでよかった
すぐに後輩に追い抜かれた。
それでも、卑屈な気持ちには全くならなかった。
器械体操は、団体戦もあるので一人一人の点数はもちろん重要だけれど、団体戦は全員の点数が合計されるのではなくって一番点数の低い一人の点数は除外される。
だから、正直私の出来が悪くても、あんまり困らないし、部員から私が足を引っ張っているような扱いは受けなかった。
部員数も全部で10人ちょっとなのでみんな仲良しだったのも大きい。
私は自分の課題に向き合って、できるように練習すればいいだけで、ちょっとでもできるようになることがただ嬉しかったのだ。
そして、私以外のみんな、うまかったのだ。
点数はカットされるけれど、団体戦に出れば優勝メダルがもらえる。
自分の貢献なんて脇に置いて、みんなで優勝を喜んだ。
棚ぼたポジションでメダルを獲得していた私は、中2の11月、初めて市民大会で個人総合2位になる。
といっても10人くらいのうちの2位なんだけど、うちの部の1番うまかった子がグレて部活を辞めて、2番目にうまかった子が優勝。
私より上手だった後輩は私より難度の高い技をやっていたけれど成功しなくて落下が重なり、私が2位になった。
棚ぼただ。
それでも、嬉しかった。私は私のやるべきことができていたから。
次なる目標は、中3の5月に開催される中学総合体育大会。
全国大会を目指すレベルではなく、私たちの目標は市の大会で優勝して県大会に出ること。
突然消えた目標
いつの時期だったかは明確には覚えていない。たぶん、2月くらい。
平均台の上で倒立をしていたときに、手が滑って肩を強打した。
びっくりするくらいの痛みだったけれど、幸いなことに誰も見ていなかった。
何が幸いなの? と思うかもしれないけれど、当時の顧問の方針は、「ケガをしたら、試合の時に回復していたとしてもレギュラーから外す」というものだった。
成績よりも練習に安全に参加することと1日にも休まずにやることが大事、という先生だった。
だから、私は強打した肩を隠して、そのまま1日を終えた。
絶対に病院に行ってはいけない。
ものすごく痛いけれど手は動く。骨は折れていなそう。
でも、腕を上げると痛いし、物を持つと激痛が走った。
それでも、なんと私は1か月近くも我慢し続けてしまった。
中学生の思考能力なんて浅はかだから、もっと強い痛みを与えたら日常の痛みの感じ方は弱くなるんじゃないかって考えて、痛い肩に鞭打ってハンドスプリングとかバク転とかしまくっていた。
そしたらついに、腕が上がらなくなった。
シャーペンを握っても手に力が入らなくて字がガタガタになった。
部活が休みの日に病院に行くと、MRI検査などを受けて、肩に致命的なダメージを受けていたことが判明。
肩に負荷をかけないために、その日から三角巾で腕を吊って、リハビリが始まった。
この時点で目標が1つ「終わった」のだ。
次の目標も、たった一言で消え去った
団体戦で出れなくても個人で出場はできる。
まずは5月の出場を目標に。
ケガは自己責任だったので、中学校の引退試合の10月に向けて気持ちを切り替えた。
リハビリを頑張るしかない。
2月、3月、4月。
リハビリでは500gのウェイトすらも痛くて持ち上げられない。
マッサージのようなゆるいリハビリに私はイライラした。
まったく痛みは消えないし、良くなる気配もない。
4月に入ると焦りはさらに強くなる。
整形外科の先生に「痛みが全然消えない!!」と訴えた。
そしたら痛み止めの注射を打ってくれることになったのだけれど、これは注射を打っている間に意識を失ってしまって中断。
生意気で反抗期真っ盛りの中3の私は、リハビリがどのくらいの期間でどのくらいの経過で良くなるのか、5月の試合に間に合うのか、10月の試合はどうなのかと噛みついた。
大きくため息をついた医師が言い放つ。
「諦めてよ。オリンピック、目指すわけじゃないでしょ?」
カルテを見たまま、顔を上げない。
オリンピック・・・?
なんだそれ。
何の話をしているんだこの人は。
母に引きずられるように診察室を出た。
会計を待ちながら、「体操部、辞める」といった私を母は止めなかった。
リハビリの予定はその後全部すっぽかし、通院もやめた。
そして、顧問の先生に退部届を提出した。
オリンピック以外は価値がない?
ただ楽しいと思って取り組んでいた中学生の私の気持ちは、オリンピックに出られないなら価値がないという大人の評価を前に、あえなく散った。
「私がオリンピックを目指せる選手だったら、先生は治してくれたんじゃないか。」
初めて、自分が上手じゃないことを呪った。
自分が楽しいかどうかなんて、誰のためにもならない。
入部時点でみんなに止められた。
死ななかったけれど、みんなにすごく迷惑も心配もかけた。
楽しそうだって思って始めたから、こんなことになった。
始めから無理なことに、手なんて出さなきゃよかった。
運動神経の悪い私が、楽しむためのスポーツをすることを、許せなくなった。
そう、スポーツはうまい人だけのものだったんだ。
私なんかが、やってはいけないものだった。
スポーツは、だれのもの?
だからこそ、自分はスポーツができないけど、マネージャーだったらできるかもと思ったのだ。
「オリンピックに必ず出ます。だから、治してください。」
そう思えていたら、人生は変わっていたかもしれない。
でも、そんなこと一ミリも考えたことがなかった。
そもそも、オリンピックを目指したいなんて一度も思ったことがなかった。
私はただ、部活で器械体操をさせてほしかっただけだ。
甲子園が夢のまた夢であっても、白球を追いかける選手への応援の声が途絶えなかったのは、私自身が知っていたからだ。
市の大会のメダルが欲しくてがむしゃらだった自分の想いを。
全中よりもオリンピックよりも、私は市の大会のメダルが欲しかった。
みんなと一緒に部活がしたかった。
パラスポーツに出会ってから、よりこの時の思いに触れることが多くなった。
2020のパラリンピックが決まる前から、パラリンピックを目指してた選手は、世間の評価がそこまで高くなくても、がむしゃらに自分のために、そして応援してくれる人たちのために、頑張っていた。
パラアスリートの背中を見たときに、世間の評価とは関係なく、自分の目標に向かってがむしゃらになっていいことを、初めて知った。
コロナ禍でのスポーツはどうなる?
コロナの影響で、2020は延期になった。
2021もどうなるのか、誰にも分らない。
インターハイも中止になって、大相撲も中止になって、夏の甲子園はどうなるって議論されている。
多くの人が「やってる場合じゃないでしょ」っていう。
もちろん、そうだ。
外出自粛を遮ってまでスポーツをやらせろ! なんて言わないし思ってもいない。
命よりも大事なものはないし、スポーツが感染を拡大させるためのものであってはいけない。
大きな大会開催の利権うんぬんかんぬんを言う人もいる。
でも、決断できない理由は、もっと純粋な気持ちにあるものなんじゃないかと私は思う。
頭ではやらない方がいいことはわかってる。
大人なら、だれでもわかっているはずだ。
真夏に甲子園をやることも、今の段階でスポーツ大会を開催することも全く持って現実的じゃない。
でも、中止にして、はい終了! って話じゃないから悩ましいんだと思う。
オリンピックでもインターハイでも、それよりもっと小さい規模の大会であっても。
誰かの目標であることを知っている人たちが運営しているから。
でも、コロナだから止めました、では果たせない責任があるのだ。
私自身も4月以降とあるスポーツ団体の運営に携わり始めた。
みんな、コロナの状況下で先が見通せないことを知っている。
感染リスクのある中で大会も練習も合宿もできないって、みんなわかっている。
でも、だからこそ、「中止って言わないでほしい」という声もあるのだ。
結果的にダメだったなら仕方ないけれど、1ミリでも開催の可能性を残してほしい。
そんな思いがある人たちが目の前にいる。
そこには「ただスポーツがしたい」「みんなと試合がしたい」その想いしかない。
中学での部活を、高校での部活を自分のゴールに据えている人もたくさんいる。
目標に大きいも小さいもなくって、自分の持っている目標を急に失ってしまう彼らの想いを、どうにかして達成できないだろうか。
そうやって考えるからこそ、判断はスピーディーにはできない。
頭ではわかっている。それでも、心が違う反応をする。
現実的には頭で判断するのだと思う。
でも、私たちは心の反応を無視していいわけじゃない。
何とかして補う方法はないのか。
誰も直面したことがないこの状況で、何とかならないのかってみんなが頭を捻っている。
誰かにとって大切なものであるということ
これは、スポーツに限らない話だと思ってる。
美術部だって全国高校文化祭がなくなったら辛いし、弁論部だってスピーチコンテストなくなったら辛いし、高校での交換留学のためにバイトしてお金貯めてた子は留学に行けないことで絶望しているかもしれない。
スポーツは規模が大きいし、目立ちやすいし、私自身がスポーツ関係者だからよりニュースが目に入るのかもしれない。
ニュースにならないところで、誰かの夢がコロナで断たれているかもしれない。
だから思う、夢とか目標って誰のものなのか。
私はスポーツ関係者だからより強く思う。
スポーツはだれのもの? って。
対象が何であっても、目標がどんなものであっても、「やめりゃいーじゃん」では片づけられない。
だって、あなたにとっての価値と、私にとっての価値は違うから。
スポーツ関連のニュースで「中止の判断が遅い」ってコメントを見るたびに、私は医師の言葉を思い出す。
できないことはわかってるのよ。
でも、それに代わるものがないかって、考える時間があってもいいじゃない。
そんなもの価値がないって言い合ってたら、お互いすり減るだけでしょう。自分にとって価値のないものであっても、誰かにとって大切なものは世の中にたくさんある。
人との接触が少なくなってる今、テキストでの言葉は必要以上に鋭く、無機質だ。
意図しなくても暴力的になってしまう。
慰めあう存在が近くにいない今だからこそ、自分の夢なのに、勝手に終わりにされてしまうことがより一層辛く感じると思う。
あんな辛い思いを、今の中学生にも、高校生にもしてほしくない。
私のエゴかもしれないけれど、今スポーツにできることは何なのか、今子供たちに必要なことは何なのか、今社会に必要なことは何なのか、みんなの大切なものを守るための方法を考えていけたらいいなと思う。
コロナ禍だからこそ、スポーツに限らずお互いがお互いの大切な物を傷つけない関係性を、目指せたらいいなと思う。
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