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故ばあちゃんと僕の起業の話

ばあちゃんが一昨日他界した。
昭和5年に産まれて88年の人生。
戦時中には空襲を走って逃げ続けたという本人の逸話も聞いたことがある。
昭和初期から戦前戦後、高度経済成長期と激動の時代を生きた。

そんなばあちゃんは苦労人でもある。
結婚し子供を3人授かったものの、早くして夫を亡くしたので、女手一つで3人の子供を育ててきた。未亡人が生きるには今よりもはるかに大変な時代であったはずだ。

前置きはこのくらいにして、なぜ、このブログを書こうと思ったかというと、「起業」した影響を近親者に求めるならば、自分の場合は確実に「ばあちゃん」からだろうなと思うからである。

よく、起業した人のインタビューを読んでいると「父が事業を営んでいた」或いは「家庭が代々商売をやっていた」という話は頻繁に出てくる。

そんなエピソードを家庭内に求めるとするならば、自分の場合は「ばあちゃん」の存在だなと思っている。

ミシンの敏腕営業マンだったばあちゃん

まず1つ目は、未亡人になった後、子供達を食べさせたり学校に行かせたりするために働くことになったばあちゃんは、ミシンの営業マンになった。

家庭に一台ミシンがあった時代、ばあちゃんは営業マンとして岐阜の田舎でミシンを売り歩いた。すごい根性の持ち主で、雪の日に歩いて山越えをして売り歩いたらしい。その結果、ミシン会社の中でも全国トップ10の営業成績を残し、一時期は髪を洗うのも全て美容室でやるほど稼いでいた話は聞いたことがある。

僕が物心ついたときは、ミシンを使った内職と家のまわりの畑仕事だったので、その勇姿は見たことがないが、おそらく家系内で、この営業マインドを一番受け継いでいるのは自分である。

また、自分の兄弟とも話しいていたが、ばあちゃんがもしこの時代に生まれていたらきっと起業していたようなタイプかもしれない。

彼氏が元パチプロだったばあちゃん

ばあちゃんは、僕の両親をできる限り自由にさせるという意味を込めてか込めないでか、未亡人だからこそ息子夫婦に執着しないようにか、時折彼氏がいたらしい。おかげでうちには嫁と姑の対立みたいなのは本当に少なかった。

そして僕は、幼少期からその歴代の彼氏に本当によく遊びに連れて行ってもらった、らしい。
そのうちの一人は、元パチプロで、当時はトロフィー屋さんのおじさんだった。パチンコは今でこそ確率論の中で遊ぶゲームにすぎないが、昔は釘の位置を読んで適切な速度で玉を打ち込む、まさに技術を求められるものだったらしい。そんなパチンコの世界でプロ級だと、お店に入るだけで、お金を渡されて出ていくように頼まれたとか頼まれてないとか。w

そんな彼氏の家に正月に遊びに行くと花札のやり方を教えてくれた。幼少期にトランプでもウノでもなく猪鹿蝶を学ぶ機会は少ないはずである。

この人がサラリーマン家庭の中で、そして社宅街で育ったのでまわりもみんなサラリーマンの子息で育った僕の中で、唯一の「身近に商売」の原点だろうなと思う。

何でも受け入れられる、いつも前向きなばあちゃん

そんなばあちゃんは、とは言え昭和の中頃の高度経済成長期、つまり超男性社会の時代に、子供を育てるために働いたり、未亡人として生きたり、苦労に苦労を重ねてきた苦労人なので、包容力というか、何でも受け入れられる力が強かった。歳をとってもほとんど愚痴という愚痴を聞いたこともない。

例えば、僕が中学生高校生時代に先生と喧嘩して学校をサボっていた時も、「どうして学校に行かないのか?」なんて言葉は一度も聞いたことがなく、静かにお弁当を買ってきてくれた。

とにかく細いことは何も聞かない人で、いつも実家の居間に座って韓流のドラマを見ながら、いつもそっと気にかけながら、ご飯を用意してくれる優しさは子供心にそして思春期の自分にはとても心地良かった。

他にもいろいろ思い出話はいっぱいあるけど、苦労してきたゆえの包容力のある人だった。

そんな大好きだし、自分が似ているらしいばあちゃんが他界した。
寂しいけど、おそらく家系内で最も性格がばあちゃんに似ている僕としては、これからのその意志を受け継いで前向きに生きていきたいなと思う。

そういえば、ばあちゃんも40代になってから営業マンになった。僕も30代で起業して初めて営業を経験した。何かを始めるのに遅すぎることなんてない。