「どう」生きるかではなく「なぜ」生きるか。

https://hasunoha.jp/article/topics/1757

生徒さんから「自分が宗教に興味なくても、人間には何らかの信仰が必要なのではないか」という意見が多数出るようになった。
ーー本文より
名古屋の東海学園高校による取り組み。
浄土宗立の学校だそうだが、
宗門系でなくともこういったテーマに、
宗教の有無に関わらず、10代のうちに触れることは
非常に大事だと思う。
「どう生きるか」ばかりが注目されるけれど、
その前に「なぜ生きるか」がある。
それが、その人の原動力になる。
逆に言うと「なぜ」がないのに
どう生きるかを模索していても意味がない。
「なぜ生きるか」はほとんど信仰の問題で
その根底は「生きていてよかった」と言えることだ。
「こんな人生、なぜ生きるのか。」
これは学力が高ければ高いほど答えが出るとは限らない。
否応なしに突き刺さるこの言葉に
大人になってから向き合う時間は限られている。
10代までの年代に対し、
「生きていてよかった」と本気で思っている背中を見せることが
宗教の、教育の、最大の使命であると思う。
それがないのに
能力値ばかり叩き込んでも、無意味どころか
崩壊を招くことは、分かるはずだ。
自ら教わり、学んで、その都度出した答えしか自分を支えてくれないのだから。
その人にとっての肝心が抜け落ちているのだから。
だから、どんなに頑張っても安心できない。
どんなに答えを見つけてもスッキリしない。
仕方なく朝起きて、仕方なく一日を過ごし
仕方なく生きる。
もやもやしたまま歳を取って死んでいく。
それでいいのか。
”生を明らめ死を明らむるは仏家一大事因縁なり”
ずっと言われ続けていることだけど。
あなたが「生きることは根本的にすばらしい」と言えないのに
次世代が育つはずがない。
(仏教が恐ろしく明晰なのは
この信仰じたいを批判的に見ながらも
全面否定しないところだ。)
自分は、
できていないかもしれない。
でも、お坊さんに限らず、できるできないにかかわらず
これを当たり前のこととして
生きている人たちを知っている。
自分には先生がいる。
師がいる。
友がいる。
当たり前のように受け止めてくれる人がいる。
それは、
人のスペックなんか関係ない世界だ。
たとえ自分には出来なくても
そんな世界で生きている人たちがたくさんいる。
生徒さんたちにはぜひ実感してほしいなぁと思う。

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