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かつて天才だった過去の自分が教えてくれたこと~「楽しさ」の自己生成編~

「楽しみを自分から作れる人は、より多くの楽しみを人生に与えることとなる。」

 こんな記事に興味を持ってくださったそこの方、ありがとうございます。さくらんぼ計算ガチ勢と申します。主に人生訓なんかを投稿しております。
 今回紹介するのは「楽しさの自己生成」です。「なんのこっちゃ?」と思うでしょう。一つずつかみ砕いて説明しましょう。
 加工貿易の勢いが少し落ち着き、アニメや漫画、ゲームなどのエンタメコンテンツが貿易の一端を担うようになった現代の日本において、ネットや書店などでは「たのしむコンテンツ」があふれるようになりました。いまや、日夜新しいコンテンツが作られ、消費され、生活の一端を担っています。
 ただし、「楽しさ」あふれるこの状況に対して、僕は一つの持論を持っています。それらはほぼ「うわべだけの楽しさ」に過ぎないんですよ。
 楽しさにはいくつか種類があって、「感情的な楽しさ」「行動的な楽しさ」「自己顕示欲を満たす楽しさ」「感想、考察、解説を言える楽しさ」「世界観を楽しめる楽しさ」などがあります。で、問題として一つ上げられるのが「感情的な楽しさ」です。
 「感情的な楽しさ」というのはその名の通り、「かわいい」「かっこいい」「笑える」などをあたえる外部から注入されるタイプの楽しさです。それらはすべて一時的な感情であるため、それらについて特に考えても教養的なものはなにも身に付きません。
 そしてエンタメコンテンツにおける「感情的な楽しさ」には「能動性」がそんなにないことも挙げられます。だいたいのコンテンツが人が作ったのを見たり買ったりするだけで、「行動力」が身に付きません。そうすると楽しさのために動くことができなくなる。これからもっと厳しくなる時代において、時間とお金を大量に消費して得るものが一時の感情である、今に始まったことではありませんがこれは日本人の教養的な問題だと思います。本当に悪く言えば「楽しさの植物状態」「楽しさ寝たきり」などといえます。一つ誤解しないでほしいのは、僕は「感情的な楽しさ」を全否定はしません。休息も時には必要です。「感情的な楽しさ」を浪費(まあなくても生きられる状態)程度で楽しむなら全然いいです。あくまで問題なのは、人における「楽しさを満たすもの」の全てが「感情的な楽しさ」であり、消費(ないと生きられない状態)になっている人は将来についてちょっと危険である、ということですね。
 では「楽しさを満たすもの」をどうすればいいか、という疑問があげられるでしょう。
 その答えこそが、「楽しみの自己生成」です。前置きが長くなりました。ようやく本題に入ります。
 「好きこそものの上手なれ」ということわざがあるでしょう。僕はそのことわざが大好きなんですけど、これって「上達をすることでの楽しさ」なんですね。
 もしあなたがサッカーをするとしましょう。ただ「カズかっけー!」「三笘イケメン!」みたいな感じでうわべだけを見ているだけでは何も上達しません。(モチベーションにはなりますが。)練習したり研究して上達することで筋力がついたり技術が向上する、それによってモテたり、頼れる人になったり、サッカー自体がより楽しくなったり、見えてなかった部分が見えるようになるなど、指数関数的に楽しさが増えていくんです。それもほかの人が「感情的な楽しさ」で時間を消費していく間に。これが「上達する楽しさ」が持つすごい力です。
 「感情的な楽しさ」は楽しさー時間のグラフにおいてほぼ横ばいです。一時的な感情のために外部から楽しさを注入しているだけに過ぎないから。一方「上達する楽しさ」においては初めこそ「感情的な楽しさ」よりも楽しさの値は低いものの、それ以降は一次関数的、または高次方程式のように楽しさが増えていきます。(ほとんどの場合どこかでピークはありますが)
 加えて、上達する楽しさは人間的な魅力も身に付きます。突き詰めれば悟りの境地に至ることもあるはずです。
 イチロー選手も言っていました。「努力を努力だと思ってる時点で、好きでやってるやつには勝てないよ」と。僕が言いたいこととは少しベクトルが違いますが、やはり「好きこそものの上手なれ」です。ことわざなんて昔の人のポジショントークでしかないなんて言う人もいますが、これに関しては人の楽しさの真理をつかんだ名言だと個人的に思います。
 今後、日本は少子化などより悲惨なことになりかねません。それを食い止め、社会を維持していく方法の一つとして、一人一人の人間的な能力を向上させることも未来につながるでしょう。

 2024年8月5日

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