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朝の挨拶200712 読むRadioまとめ

話が空中分解してしまったので、ここでまとめておきます。


(本の内容にふれるので、ご注意ください)









アメリカで待ち受けていたもの

アメリカに渡ったトラップ一家。待ちうけていたのは、文化、風習の違い。

アメリカとオーストリアでは、何もかもが違っていました。

摩天楼、きらびやかに照らされる街並み、高架鉄道、エスカレーター…

オーストリアとは全く異なる明るさ、騒音に目まいすら感じます。

コカ・コーラ、ルート・ビア、飲みなれない、食べつけない食べ物。

実は、アメリカに向かう船の上ですでに一つの壁を乗り越える特訓をしていたのです。

言葉の壁。猛特訓。

『サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編』にこんな一節があります。

ワグナー氏は、「最初の十年間がいちばんつらい」といっていたけれど、それはまちがいだった。彼はこういうつもりだったにちがいない。
「最初の十日間がいちばんつらい」(P,43)

コンサート活動も順調にはいきません。

難関は”レセプション”。英語が不慣れなマリアたち、挨拶の言葉を考えてもすぐに種切れ。微笑む顔もやがてひきつったまま戻らない。

讃美歌は暗いと言われる、フォーク・ソングなども歌に取り入れなければならない。

おなかのバルバラ(後に生まれるヨハネス)八か月目。突然キャンセルされたコンサート。

困ってるところを助けてもらいながら宣伝活動。生まれてきた赤ちゃん、ヨハネス。

契約は更新されたが、生活が苦しく、ビザも切れる。

そこで、以前「ツアーをやらないか」と言ってきた人に連絡を取り、アメリカを離れ、ヨーロッパでの活動をはじめ、各公演で称賛されます。


ヨーロッパで活動を終え

アメリカに戻ってからは、お客の反応が芳しくなく、低迷していく活動。

お客のことばに落ち込む。でも、へこたれず、アメリカ式にのっとって生活を変えて行きます。

認めてくれる人々が助け舟を出し、『聖歌隊』から『合唱団』へと錬金術のような魔法の変身をとげたのです。その後、ハプニングのコンサートは、アメリカの人々に受け入れられました。マリアにとって”何か”が見つかった瞬間。それからは、青白い顔色を健康的に見せるため、メイクを濃くしたり、聴衆に見て、聴いてもらえる歌を模索しながら活動を続けました。

ツアーまで間があいたとき、一家は手作りの品物をつくり、展示会で大成功。その後も注文が殺到し、ようやく生活が軌道に乗ったのです。

どんな仕事であれ、仕事は誇りであり、仕事をすれば自由が得られる、
(中略) 可能性を試すかどうかは、自分次第だ。(P,180)



Home Sweet Home

借金を返した一家は、車を買い、夏を過ごす家を探します。

手紙にあったバーモント州ストウ、訪ねてみると、自然が豊かでハイキングもできる、山、広い大地、畑、森。酪農が盛んで、近くに川もある。

服にお金を使うのをやめて、農場、土地探しに周辺をまわり、見つけた場所。ゲオルグの望む「日あたりのいいところ」、そこは、かつて暮らしていたオーストリアにとてもよく似た景色でした。

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googleマップで広域と、環境がわかりそうな地図を2枚。
アメリカ北東部。森林公園に囲まれ、農業・酪農が盛んな土地です。

1941年、農場を買い、建て直しのためコンサート活動も積極的に行います。この頃になると、お客の心を掴めることも増え、教会で披露することも増えてきました。近所の人に聞きながら農業を覚え、疲れ果てて宿泊所に倒れるように眠る生活と別れを告げたのです。


戦争と活動

ときは第二次世界大戦。1943年、ルーペルトとヴェルナーは米軍に入隊。祖国と戦わねばならない出来事でした。その間も女声合唱団として、コンサート活動を行い、ツアーも開始。

1944年夏のこと。

「トラップ・ファミリー合唱団とともに、音楽をやり、休暇を楽しみましょう。今年の夏、ヴァーモント州ストウのトラップ・ファミリー・ミュージック・キャンプへおいでください」(P,330)

こう銘打った広告を出します。しかし、農場は3分の1しか整備できていない状態。配管ひとつについても戦時下では報告が必要。求人を出し、中古品を探しても見つからない。仕事に追われ、壁のペンキを塗り、台所やストーブを磨き、体裁を整えていた一家の元にやってきた女性コック。恵みの存在ともいっていいほど。条件がいくつかあるけど、すべて用意すると約束。

曲りなりにも開催されたキャンプ。『星条旗』を斉唱し、知事のあいさつ、参加者たちを歓迎するため、ゆっくりと食事を運ぶ。芝生の上に座った人たち、星空の下でミニコンサートはじまり。キャンプでは質問箱を設置し、おわりに近づくと、質問に答え、話し合う夕べがありました。


1945年、終戦

戦争が終わり、第2回のキャンプ。ルーペルトとヴェルナーが復員。それからまもなく、オーストリアでファミリー合唱団としてツアーをしてほしいと依頼が舞い込みます。

1947年、トラップ・ファミリー・オーストリア救援活動を開始。
救援活動への参加は、”お金、食べ物、生活用品、なんでも寄付。寄付金は慈善目的だから所得税控除が認められる”。このようなチラシをつくり、新聞やラジオでも理解と支持を得、出発するときには荷物がバスに入りきらないほど。そうして、オーストリア各地をまわり、困っている人々を助ける手助けができました。


別れ

ルーペルトの結婚も決まり、祝福の声が上がる一方で、死の影が近づいていたのです。

ゲオルグは肺を患っていました。具合の悪いゲオルグを先に帰し、アメリカでツアーを続けていましたが、”心配ない”と書かれた手紙に、胸騒ぎを覚えたマリアは、飛行機に乗りニューヨークへ。2週間会わなかったゲオルグは見るからに痩せ衰えていました。
必死に医者を探し、祈るマリアたち。

聖霊降臨祭のおわった木曜日、夜11時…

神父が部屋を出て行き、すぐに戻ってきました。ストラ(祭服の一部で、細長い帯状のもの)と『死にゆく人への祈り』の本を手に。

祈りの唱えを数えきれないほど…

激しい苦しみの中、マリアの言葉に「はい」と答えた最期


1947年5月30日金曜日、午前4時30分



Trap Family Lodge

ロッジの一角に墓地があります。ゲオルグやマリア、家族が眠っています。

ロッジをはじめたのは1948年、家族の幾人かが結婚し、トラップ一家がアメリカの市民権を得てからのこと。ゲオルグやマリアたちが奔走し、なかなか得られずにいた市民権。オーストリアを脱出してから10年の歳月が流れていました。

トラップ・ファミリー・ロッジは、1980年に焼失し、83年に再建。ホテルとして、宿泊もできます。


さいごに

1949年、マリアが出版した『The Story of the Trapp Family Singers』。母国語ではなく英語で書いたそうです。33の時、初めてやって来たアメリカに惚れ込んで、英語をマスター。失敗で終わらせない根性、意志の力こそ、原動力であり、合唱団成功への指針となりました。

本の終わりに、ヘンリー・ヴォン・ダイク『もう一人の賢者の物語』が綴られています。

「たったひとりで、魂の救済をもとめ、天国への道をさぐる者は、
 道をたどっても、ゴールへは到達しない。
 愛の道をたどる者は、遠くまでさまようことがあろうとも、
 必ずや神が恵みの園へと導いてくださる」(P,455)

希望と愛に包まれた世界、こころをひとつに生きる家族の物語。


ここでひとつのくぎりといたします。

読んでくださった皆様、ありがとうございます。


200712 YUHUA O.

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