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「いじめ」に僕らは何ができるだろうか

うちには「実は私はいじめをする側でした」
と言う人も来ます。

涙ながらに申し訳なさそうに話す人も
淡々と感情を乗せずに話す人も。

いじめる側をかばうわけではないのだけど、
でもそれが彼らの生きる道だったわけで。

当時子どもだった彼らが抱えていた
何かを発散するには、表現するには
それしかなかったわけで。

僕ら大人は
いじめている側といじめられる側を区別し
「誰が悪いか」で議論してしまうのだけれど。

本当は、それが起きてしまう構造に
目を向けることが必要で。

問題は、人にあるのではなく、常に構造にある。
空気にあるんだと思っている。

学校、クラスという強制的に集められた
コミュニティの中で生きる道を探した結果
そうなったわけで。

いじめを肯定したいとは思わない。

いじめが原因で
自分で命を絶つ人がいるこの現実は
変わっていかなければいけない。

でもそれを変えていくのは
子ども達ではなく、私たち大人なわけで。

その私たちが「誰が悪いか」で
議論していたら何も変わらない。

たくさんの人と、たくさんの感情と出会い
幸せとは何かを感じ、知り
自分で自分の道を描き
自分の足で歩んでいけるはずだった、
信頼できる誰かと一緒に歩んでいけるはずだった、
その命をつなげていくためには、
私たち大人が考え方ややり方を
変えていかなければならない。

いじめは起きる。
なくなることはないと思う。

でもそれが起きた時に
周りにいる大人がどう対応できるのか
それによってその子の人生は
大きく変わっていくのだと思う。

僕らがすべきことは
誰かを悪者にすることではなく
「僕らには何ができるだろうか」と
自身に問い続け、気付いたことを発信し
手を取り合い、子どもたち一人ひとりに
寄り添っていくことだと思う。

いじめられている側だけでなく
いじめている側にも問うこと。

「どうしたの?」と。

批判するでも、否定するでもなく、問う。

「何がつらかったの?」
「どういう気持ちだったの?」と。

この社会には
加害者と被害者という分断がある。

でも実際には加害者も被害者である。

誰かを悪者にする社会では
すべての人が幸せになることはできない。

どちらにも同じく接することが必要なのだと思う。

この社会は
加害者と被害者、正義と悪、
そんな簡単な二極構造で
成り立っているのではない。

常にグラデーションの中にあるし
その色は常に波打っている。

誰かを悪者にするのではなく
「なにが原因なのだろうか」と構造に目を向け
「僕らには何ができるだろうか」と自分事にし、
考え、行動していくことが大切なのだと思う。

いじめている側も、
いじめられている側も、
どちらにも僕は同じく接します。

彼らの心の声を聴く努力をします。

時間はかかるけれど
それが僕の思う最良の道です。

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