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ユーゴスラビアの歴史まとめてみた

 かつて存在した多民族国家ユーゴスラビアの歴史を、私が投稿した全18回の動画シリーズ『ユーゴスラビア-大国の誕生と滅亡の歴史』の概要と共に記事化しました。

Chapter 1. ユーゴの基礎データ・略史

 本チャプターは、そもそもユーゴという国を全く知らない人のために、ユーゴスラビアの基礎データと略史を一本の動画にまとめ、次項からの詳細な解説に向け予備知識を付けてもらおうという回になってます。


 ユーゴの歴史は1918年に始まる。バルカン半島にて複数の民族が集結し「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」を建国。その後1929年に国名を「ユーゴスラビア王国」に改称した。

 第二次世界大戦勃発後、1941年にナチス・ドイツの侵攻により王国は解体されユーゴは一時消滅したものの、その後チトー擁するパルチザンが国土を奪還した。終戦後の1945年11月ユーゴスラビア連邦人民共和国を建国した。

 しかしチトー死後の1991年から分離独立の動きが強まり、約10年間に及ぶ旧ユーゴスラビア紛争を経た後、2006年に完全に消滅した。

 ユーゴは複数の民族が入り乱れるいわゆる「モザイク国家」であった。その複雑さ故「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と形容された。

Chapter 2. 帝国統治時代から第一のユーゴ誕生まで

 本チャプターは、19世紀のハプスブルク帝国やオスマン帝国といった大帝国に支配されていた時代から、1918年のセルブ・クロアート・スロヴェーン王国建国までの流れを見ていく回となっています。


 1830年、後にユーゴの中心国家となるセルビアがオスマン帝国から「セルビア公国」として実質上独立を達成、その後1878年のベルリン条約により「セルビア王国」として正式に独立した。

 1900年代に入るとセルビア王国と、南北ニ帝国との関係が悪化、セルビア王国は周辺国のモンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアと二国間同盟条約を次々結んでいき、バルカン同盟が誕生する。

 1912年、バルカン同盟諸国とオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が勃発。この戦争はバルカン同盟諸国の勝利、オスマン帝国の敗北に終わり、結果オスマン帝国はバルカン半島の領土をほとんど失った。

 その直後の1913年、第一次バルカン戦争の領土分割を巡ってブルガリアと周辺国(セルビア・ギリシャ・モンテネグロ・ルーマニア・オスマン帝国)との間で第二次バルカン戦争が勃発、セルビアはこの戦争でも戦勝国となった。

 1914年になると、当時ハプスブルク帝国領だったボスニアの州都サラエボにてサラエボ事件が発生、これでハプスブルク帝国がセルビア王国に対し宣戦布告し、結局はこの戦いが第一次世界大戦へと発展する。

 セルビア王国は協商国側として第一次世界大戦に参加、その戦争目的としてセルビア人、クロアチア人、スロベニア人の解放と統一を掲げた。

 1918年、第一次世界大戦はセルビアが所属した協商国側の勝利に終わり、その後12月に「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」が建国された。第一のユーゴの誕生である。

Chapter 3. 第一のユーゴ消滅まで

 本チャプターは、1918年に様々な民族的問題を孕みながらも誕生した第一のユーゴが、第二次世界大戦に巻き込まれた後、消滅するまでの流れを見ていく回となっています。


 1918年、第一のユーゴが誕生したが、民族の統合は思うように進まなかった。セルビア中心の政策がとられたことで、セルビア人以外の民族、特にクロアチア人がこれに強く反発したためである。

 1929年、国内が混乱する中、国王のアレクサンドル1世はそれへの対応策として、憲法の停止、議会の解散を命じ、独裁制を樹立した。その後国名を「ユーゴスラビア王国」へと改称した。

 1934年、国王アレクサンドル1世はフランスのマルセイユにて青年に暗殺され、その後息子のペータル2世が王位を継承する。なお、彼がユーゴ王国最後の王様である。

 1940年代に入るとドイツ・イタリアのヨーロッパ侵攻が開始され、バルカン半島諸国は枢軸国の支配下に置かれたり、三国同盟への加盟を余儀なくされたりした。

 1941年、ユーゴ王国も三国同盟への加盟を宣言するが、それに対しユーゴ王国軍のシモヴィチ将軍を中心とする国内の反対勢力がクーデターを敢行し成功する。

 その後シモヴィチ将軍を首班とする新内閣が形成されるも、新内閣は三国同盟の協力義務を放棄しながらも同盟加入を正式に破棄しない一方、連合国側のソ連とは友好不可侵条約を結ぶなど、曖昧かつ楽観的な姿勢でいた。

 このような態度をドイツが許すわけもなく、1941年4月6日、ナチス・ドイツはユーゴ王国に対し大規模な攻撃を実行。ユーゴ王国は反撃する間もなく4月17日に降伏した。

 その後ユーゴスラビア王国は枢軸国の手で分割され、第一のユーゴは消滅した。

 分割の結果、セルビアは「セルビア救国政府」としてドイツの軍政下に置かれ、クロアチアはボスニア・ヘルツェゴビナを含めた領土を「クロアチア独立国」として枢軸国側から承認された。(地図やその他地域は動画参照)

Chapter 4. 第二のユーゴ誕生まで

 本チャプターは、第二次世界大戦中に行われたセルビア人、クロアチア人の民族主義組織による殺し合いの歴史と、チトー率いるパルチザンがユーゴを解放するまでの流れを見ていく回になっています。


 ナチス・ドイツの手によって創設されたクロアチア独立国、その政権を担ったのが過激なクロアチア民族主義組織である「ウスタシャ」であった。

 他方、国外に脱出した国王ペータル2世とシモヴィチ将軍はロンドンにてユーゴ王国の亡命政権を樹立した。その後、枢軸軍の手に落ちたユーゴを解放する担い手としてセルビア民族主義組織の「チェトニク」を指名した。

 1941年、バルバロッサ作戦と称されるナチス・ドイツによる対ソビエト連邦の奇襲作戦が実行され、ドイツとソ連の間で結ばれていた「独ソ不可侵条約」はこの作戦により破棄された。

 この作戦を機に活動を本格化させたのがチトー率いる「パルチザン」であった。

 その後、戦時中のユーゴ圏内ではウスタシャによるセルビア人虐殺、チェトニクによるクロアチア人、ボシュニャク人虐殺が実行され、極めて凄惨な状況となっていた。

 そんな中、パルチザンは唯一民族の域を超えた組織として、ユーゴの広範囲にその支持を拡大させた。

 1943年になると連合国もパルチザン支持を正式に決定、連合国をバックにつけたパルチザンはユーゴ全土を解放し、第二次世界大戦は終戦を迎える。

 終戦後の1945年11月、議会選挙を経て「ユーゴスラビア連邦人民共和国」の建国が宣言された。第二のユーゴの誕生である。(1963年に国号をユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変更している)

Chapter 5. チトーによる独自の社会主義体制の形成

 本チャプターは、終戦後のユーゴがソ連と仲違いをし、独自の社会主義へと進む、あるいは進まざるを得なくなるまでの流れを見ていく回になっています。


 終戦後、ユーゴは他の東欧諸国と同じように、ソ連を手本にして戦後復興に取り組んだ。周辺国と条約を結び、友好関係の樹立にも努めた。

 しかし、その過程でチトー率いるユーゴは周辺国の共産党に影響力を持つようになり、そのことがソ連、特にスターリンの怒りを買ってしまう。

 1948年、両国の対立が表面化し、ユーゴはソ連によりコミンフォルムを追放される。これは事実上、共産圏からの追放であった。

 1949年から、共産圏を追放されたユーゴは本格的に独自路線をとり始めた。それまで推し進めていたソ連型の社会主義体制を見直し、アメリカのマーシャルプランを受け入れ、ユーゴスラビア共産党という党名をユーゴスラビア共産主義者同盟に改称した。

 1953年にはカルデリという人がユーゴの外務大臣に就任し、東西どちらの陣営にも属さない「積極的平和共存」を掲げ、独自の外交を展開していく。

 同年、スターリンが死去し、その後ソ連の最高指導者にスターリン批判(1956)でお馴染みのフルシチョフが就任した。フルシチョフがトップに就くとソ連はそれまでの姿勢を改め、ユーゴに対し過去の態度を詫び、国交正常化に合意した。

 こうした流れで東西陣営どちらとも関係を持ったユーゴは、先ほどのカルデリが示した外交方針のもと、アジア・アフリカ諸国と関係を強めていく。

 その結果、1961年、ユーゴ主導で第一回非同盟諸国首脳会議がベオグラードにて開催されることとなった。中立、非従属を掲げる「非同盟」は参加国を次第に増やし、米ソ中心の国際政治に一定の影響を与えていく。

 こうしてユーゴスラビアは異色の存在感を放つ大国としてその名を世界に知らしめていったのである。

Chapter 6. 変容する社会主義体制と崩壊の序曲

 本チャプターは、不調だった経済計画や、再燃した民族運動などへの対応として、市場メカニズムや分権化政策を導入する様子を見ていく回になっています。


 非同盟諸国の中心国となる等、国際政治の面では上手くやっていたユーゴだったが、国内政治・経済に関してはあまり上手くいってるとは言えない状況であった。

 そこで1963年、チトーは「63年憲法」と呼ばれる新憲法を制定、市場メカニズムを受け入れる市場社会主義を既定の方針とし、経済の自由化を推進することや、国号を「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称することなどが取り決められた。

 しかしその後、経済の自由化が認められたことにより、ユーゴ国内では経済格差が発生した。さらに、経済の自由を認めたことが、各民族の政治的な自由への要求にも繋がってしまった。

 こうした流れでユーゴ各地で民族主義運動が発生する事態になり、チトーはその対応に追われた。だが結局、この時の民族主義運動はチトーの働きにより一旦の収まりを見せる。

 1974年、チトーは以上の反省から「74年憲法」と呼ばれる新憲法を再度制定した。6つの共和国と2つの自治州(コソボとヴォイヴォディナ)は、それぞれ警察権、裁判権、経済主権を持つ、といった徹底的な分権化・平等化がとられ、結果この74年憲法体制で、かなり緩い連邦制が誕生した。

 なお、この74年憲法体制における平等化でセルビア領内の2自治州が共和国と同等の権利を得ることになり、セルビア人が一番割を食う結果になった。この時の不満が後のミロシェビッチの誕生にも繋がる。

Chapter 7. チトーの死去と民族主義の高揚

 本チャプターは、カルデリ、チトーの死去をきっかけに各地の民族主義が再度高まり、連邦の存続が危うくなってしまうまでの流れを見ていく回になっています。


 1979年、独自の外交方針を提唱したカルデリが死去。1980年、民族間の危うい均衡を巧みに取り持ってきたチトーも死去した。

 ユーゴを取り持ってきた主要人物が立て続けに亡くなり、連邦の存続が危ぶまれる中、各地で民族運動が再度発生する。

 1981年、コソボのとある大学にて学生食堂の食事がまずいことをきっかけに学生による暴動が発生。これが結局、コソボの共和国昇格、セルビアからの脱却を要求する大規模なデモ運動に発展した。

 ここからコソボ領内でのアルバニア人とセルビア人の対立は明確化し、その後も燻り続ける。

 当時まだセルビアの一部である自治州という立場にあったコソボで起きた民族運動に対し、各共和国・自治州の徹底的な平等化が図られた74年憲法体制のもと、セルビア政府はコソボに対し直接の対応ができなかった。

 1987年、それまでの流れで鬱積していたセルビア人の支持を受け、ミロシェビッチがセルビア共和国幹部会議長となる。その後ミロシェビッチは74年憲法をセルビア有利に修正した後、コソボ弾圧を開始する。

 1988年、コソボのアルバニア人はミロシェビッチの政策に抗議する形で大規模なゼネストを敢行。ミロシェビッチはそれに対しコソボを軍の管轄下に置く特例措置を発動し対抗した。

 こうしてコソボのアルバニア人とセルビア人の対立が深刻化する中、経済政策を巡ってセルビアに不信感を抱いていたスロベニアが、コソボのアルバニア人を支持することを表明した。

 これを皮切りに、セルビアとスロベニアの関係もまた急速かつ大幅に悪化した。「コソボ問題」というセルビアの国内問題をきっかけに発生した対立が、連邦の構成国同士の対立に今後発展していくことになる。

Chapter 8. ユーゴスラビア内戦勃発まで

 本チャプターは、ミロシェビッチによるコソボ問題、経済不況への対処に不信感を強めるスロベニアにて民族主義が高まり、それがスロベニアとクロアチアの独立宣言に繋がっていくまでを見ていく回になっています。


 スロベニアは元々西欧との交流が盛んで経済的に豊かで、さらに比較的"自由"を重視する国風であった。特に言論活動においてはそれが顕著で、共産主義体制を批判するメディアというのもスロベニアでは珍しくなかった。

 1988年、コソボのゼネスト敢行と同年、反体制的な記事を書いたとしてジャーナリストのヤンシャが逮捕された。

 「ヤンシャ事件」と呼ばれるこの出来事はスロベニア人の目には、連邦政府によるスロベニアの"自由"への攻撃として映り、先の経済政策の不信感も相まって、スロベニアは次第にユーゴから分離独立する方針を掲げ始める。

 1990年、1月に行われたユーゴ共産主義者同盟第14回臨時党大会において、セルビアの代議員が改革案をことごとく拒否してきたことを受けて、スロベニアとクロアチアの代議員が党大会を退場するという事態が起き、これでユーゴ共産主義者同盟は分裂、解体された。

 1991年6月25日、スロベニアとクロアチアが共同で独立宣言を採択し、その2日後、独立したいスロベニアと独立を阻止したいセルビアとの間で戦闘が発生、計5回に及ぶユーゴスラビア内戦の始まりである。

Chapter 9. 「十日間戦争」「クロアチア紛争」

 本チャプターは、スロベニアの独立紛争である「十日間戦争」と、クロアチアの独立紛争である「クロアチア紛争」が勃発するまでの流れを見ていく回になっています。


 1991年6月27日、それまでユーゴ連邦軍が管理していたスロベニア国内の国境検問所が、独立宣言後にスロベニア軍によって奪取されていた。その奪還のために連邦軍がスロベニアに出動し戦闘が発生、「十日間戦争」が始まった。

 しかしこの戦闘は結局、その名の通り10日間ほどで終結した。スロベニアに居住するセルビア人が少ないことや、ECが休戦を求めてきたことから連邦軍が早い段階で撤退を決めたからである。(スロベニアの勝利)

 スロベニアの場合は国内セルビア人の割合が少ないことが紛争の早期終結に繋がったが、逆に多数のセルビア人を抱えていることで紛争が泥沼化したのがクロアチア紛争、ボスニア紛争である。

 1991年、クロアチアは、十日間戦争も横目に、ユーゴ連邦から独立する準備を着々と進めていった。それに異を唱えたのがクロアチア国内のセルビア人だった。

 クロアチア国内のセルビア人は「民族自決」を掲げ独立を推し進めるクロアチア政府に対し、自分たちにも「民族自決」の権利があるとして、クロアチア国内のセルビア人居住地をセルビアに編入することなどを求めた。

 しかし、クロアチア政府は国内のセルビア人の主張に耳を貸さず、次第にクロアチア国内で、武装したセルビア人住民とクロアチア警察・軍との間で衝突が起きるようになる。

 1991年9月22日、その様子を受けてユーゴ連邦軍が「セルビア人保護」を名目にクロアチアに侵攻。「クロアチア紛争」が始まった。

Chapter 10. クロアチア紛争の詳細

 本チャプターは、クロアチア国内のセルビア人居住地である「クライナ・セルビア人共和国」を巡って、クロアチア人とセルビア人との間で発生したクロアチア紛争について見ていく回になっています。


 1991年9月22日、ユーゴ連邦軍がクロアチアの首都ザグレブに侵攻し、クロアチア紛争が勃発した。セルビア優勢で進む中、11月に国連の仲介で停戦合意が成立した。

 EC(1993年からEU)は元々この紛争に対し中立でいようとしていたが、この段階からドイツが単独でクロアチアを国家承認するなど、クロアチア寄りの行動を取り始める。

 そして結局その一ヶ月後にEC全体としてもクロアチアの国家承認を認めるなど、ドイツに押される形でその中立性を崩した。

 1992年4月にはボスニア紛争が勃発し、紛争の舞台がクロアチアからボスニアへと移った。(ボスニア紛争の詳細は次回)

 このクロアチア紛争は結局、1995年8月4日、アメリカの支持を取り付けたクロアチア軍がクライナ・セルビア人共和国に侵攻する「嵐作戦」を実行、4日ほどで制圧が完了し、紛争は終結した。(クロアチアの勝利)

Chapter 11. ボスニア紛争の詳細

 本チャプターは、セルビア人、クロアチア人、そしてイスラム教徒のボシュニャク人という3つの民族による凄惨な戦いとなったボスニア紛争の勃発と終結までを見ていく回になっています。


 1991年6月、スロベニアとクロアチアが独立を宣言した。1991年11月、マケドニアも独立宣言、そして1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言した。

 この独立宣言を受けて、ボスニア国内に多数居住していたセルビア人は、クロアチアの時と同様、セルビア人の共和国である「スルプスカ共和国」の建国を宣言した。

 その後からボスニア・ヘルツェゴビナの独立に反対であるセルビア人と、賛成であるボシュニャク人・クロアチア人との間で衝突が起きるようになり、セルビア人保護を名目に連邦軍が出動。ボスニア紛争が始まった。

 ボスニア紛争はセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人という3民族による陣取り合戦のような様相となり、それぞれが自らの領域の拡大に奔走した。その際、自らの領土から他民族を大小様々な手段で排除する政策が各地で実行された、これが後に「民族浄化」と呼ばれる政策である。

 紛争が長期化、深刻化していくと、アメリカ、ヨーロッパを中心とする国際社会の間にはやがて、ユーゴ内戦における悪者はセルビアである、といういわゆる「セルビア悪玉論」が流布していった。(詳細は動画参照)

 1995年、セルビア人勢力がサラエボにて迫撃砲弾を発射したという事件を受けて、アメリカを中心とするNATO(北大西洋条約機構)はセルビア人勢力に対する空爆「デリバリット・フォース作戦」を実行した。

 アメリカはこうした空爆を行いながら和平交渉も進めていき、1995年11月にアメリカのオハイオ州デイトンにて和平会議が始められた。その後パリにて調印され「デイトン合意」が成立し、ボスニア紛争は終結した。

 結果、ボシュニャク人・クロアチア人の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、セルビア人の「スルプスカ共和国」からなる単一国家「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が維持されることになった。(勝利者なし)

Chapter 12. コソボ紛争勃発まで

 本チャプターは、一時は落ち着いたかのように思われたユーゴ内戦が、1998年からコソボにて再燃し、コソボ紛争となるまでの流れを見ていく回になっています。


 1995年のデイトン合意にてボスニア紛争は終結した。その合意に対し熱烈な不満を抱いていたのがコソボのアルバニア人であった。

 1991年頃からコソボでは穏健派のルゴバがアルバニア人勢力のトップとなっていた。アルバニア人は非暴力主義を掲げ続けることで、弾圧を続けるセルビアの対処を国際社会が支援してくれることを期待していた。

 しかしアルバニア人期待のデイトン合意では、コソボの地位に関して一切触れられず、果てには「ユーゴ内戦は終わった」とばかりに、国際社会が新ユーゴ(セルビアとモンテネグロの新連邦)を国家承認し始めた。

 これを受けてコソボのアルバニア人は非暴力路線を一変させ、武力によって独立を目指す方針を掲げ始め、過激派組織「コソボ解放軍(KLA)」がコソボ中から支持を集め台頭する。

 過激派というだけあってKLAは殺人、集団暴行、麻薬取引などに手を染めながらどんどん規模を拡大していき、その様子を見てアメリカはKLAをテロリスト認定するに至った。

 1998年2月28日、アメリカのテロリスト認定を受けてミロシェビッチはコソボに対する武力制圧を開始し、武力衝突が発生、コソボ紛争が本格化した。

Chapter 13. コソボ紛争の詳細

 本チャプターは、1998年2月28日より本格化したコソボ紛争が、NATOによるセルビア空爆(アライド・フォース作戦)を経た後、終結するまでの流れを見ていく回になっています。


 1998年2月28日、コソボ中部のリコシャンにてセルビア人勢力とアルバニア人勢力の間で初の本格的な戦闘が勃発しコソボ紛争が本格化した。

 3月5日、セルビア人勢力は、KLAの主要人物であるジャシャリの家があるコソボ中部のプレカズに攻撃を実行し、ジャシャリとその妻、弟、息子を含むアルバニア人57人が死亡した。

 この攻撃で死亡したアルバニア人の中には、非戦闘員の女性、子供が多く含まれており、これが西側諸国の非難を呼び、セルビアは再度世界から孤立する流れになる。

 これ以降、コソボ国内ではセルビア人勢力、アルバニア人勢力双方による民族浄化の応酬が続けられ、国際社会は戦闘行為の即時停止を強く求めるようになるが、主に問題視されたのはセルビアの行為のみであった。

 1999年1月15日、コソボ中部のラチャクにて、セルビア人勢力がアルバニア人45人を殺害する事件が発生した。「ラチャクの虐殺」と呼ばれるこの事件を契機にNATOが再度軍事的解決の方向性を強めていく。

 その後一応の和平交渉が試みられるも決裂に終わり、3月24日、NATOによるセルビア人勢力に対する空爆「アライド・フォース作戦」が実行された。作戦は当初の予定を大幅に超える約3ヶ月間にも及んだ。

 6月10日、ミロシェビッチが和平交渉への歩み寄りを見せて作戦は停止、その後の話し合いの結果、連邦軍がコソボから完全に撤退することで合意し、コソボ紛争は終結した。(コソボのアルバニア人勢力・NATOの勝利)

Chapter 14. コソボのその後とマケドニア紛争

 本チャプターは、1999年に紛争が終結した後、国連の監督下に置かれたコソボが、2008年に独立宣言を行うまでの流れを見ていく回になっています。


 1999年6月10日、NATOによる空爆が停止され、同日、国連にて決議第1244号が採択され、コソボを国連の監督下に置く「UNMIK」が開始された。

 こうしてコソボに平穏が戻ったが、2年後、コソボ紛争の余波が隣国のマケドニアを襲うことになる。

 コソボ紛争勃発直後から、セルビア人、アルバニア人双方で「紛争難民」が発生していた。そしてそのアルバニア人難民がコソボを離れ向かった先というのが本国アルバニアともう一つ、マケドニアであった。

 こうしてマケドニアにアルバニア人難民が多数流入したことをきっかけに、マケドニア国内でアルバニア人の地位向上を求めるアルバニア民族主義が高まる結果となり、それが2001年に爆発してしまう。

 2001年2月、マケドニア国内のアルバニア人勢力が「民族解放軍(NLA)」として武装蜂起した。これに加え、コソボのアルバニア人武装勢力が、NLAを支援するためにマケドニア領内に侵入してきた。

 これを受けてマケドニア軍が出動し、コソボ・マケドニア国境地帯で戦闘が発生、マケドニア紛争が勃発した。

 しかし、5月には事態収拾を目的として、マケドニアにてマケドニア人政党とアルバニア人政党による連立政権が誕生するなど、今回は両勢力が割と早い段階で解決に動いた。

 8月13日、マケドニア西南の都市オフリドにて、アルバニア系住民の地位改善に関する合意である「オフリド合意」が調印され、マケドニア紛争は終結した。(軍事的にはマケドニアの勝利)


 こうして1991年6月27日の「十日間戦争」より始まったユーゴスラビア紛争は、2001年8月13日の「マケドニア紛争」終結を以って、幕を閉じた。


 マケドニア紛争終結後から、コソボでは国連監督下から抜け出し、完全独立に向けた動きが活発化、そして2008年2月17日にコソボ議会は独立を宣言した。

 この独立宣言はその後日本を含む西側諸国を中心に承認され、現在に至っている。ただセルビアや国内に自治区、自治州を持つロシア、中国などはコソボの独立に反対している。

Chapter 15. 新ユーゴにおけるモンテネグロ

 ここから内戦終結後の旧ユーゴ諸国の動向を見ていきます。本チャプターは、1992年に誕生した新ユーゴからモンテネグロが分離し、ユーゴが完全に消滅してしまうまでを見ていく回になっています。


 元々セルビアを中心に6つの国が集まってできた旧ユーゴ、そこからユーゴ内戦を経てスロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが離れ、セルビアとモンテネグロを残すのみとなった。

 1992年4月28日、セルビアとモンテネグロは「ユーゴスラビア連邦共和国」を建国した。これは「新ユーゴ」「第三のユーゴ」と呼ばれるユーゴの最終形態である。

 しかしこの新ユーゴ建国はボスニア紛争発生直後である。つまりモンテネグロはここから、セルビアと共に茨の道を歩むということだ。

 新ユーゴ建国と同月に勃発したボスニア紛争はその後泥沼化し、モンテネグロはセルビアと共に国際的な非難、そして制裁を受け続けた。さらには紛争で発生した難民が、モンテネグロに多数流入したこともモンテネグロ国民の生活に大きな影響を与えた。

 こうした経験をする中で、やがてモンテネグロはセルビアと距離を取り始める。

 ボスニア紛争終結後の1996年、モンテネグロはそれまでセルビアと結んでいた経済協力関係を破棄し、独自の経済政策を取り始めた。1998年頃から激化したコソボ紛争では、モンテネグロはセルビアではなくコソボのアルバニア人を支持することを公言した。

 2002年、モンテネグロ議会選挙が行われ、結果、独立を訴える政党が勝利し、モンテネグロの独立はもはや秒読みかのように思われた。

 しかしそこにEUが介入した、モンテネグロの独立によりバルカン半島が再度不安定化するのを恐れ、モンテネグロに独立を思いとどまるよう働きかけた。

 その結果2003年、ユーゴ連邦という国名を、モンテネグロの自主性を重んじ、より対等にすることを目的に「セルビア・モンテネグロ」に改称することで両国が一応の合意をした。

 だがこれでモンテネグロの独立志向が弱まることはなく、国名改称から3年後の2006年、モンテネグロにて独立を問う国民投票が実施され、独立派が勝利した。

 2006年6月3日、この投票結果に基づきモンテネグロはセルビアからの独立を宣言、ユーゴスラビアが名実ともに消滅した瞬間であった。

Chapter 16. マケドニアのその後

 本チャプターは、マケドニアの独立後から現在までの歴史を見ていく回になっています。


 1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立宣言したのを見て、11月にマケドニアも独立を宣言した。その後連邦軍はマケドニアから撤退し、無血で独立を達成した。

 独立後にマケドニアは国連、NATO、EUに加盟しようとしたが、それに待ったをかけたのがギリシャであった。

 マケドニアは国名、国旗にアレキサンダー大王で有名な古代マケドニア王国の名称、象徴を使っており、それにギリシャは激怒、マケドニアの国際機関への加盟にことごとく反対した。

 1993年に国名を暫定的に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」とすることでやっと国連加盟が認められた。

 しかし、1994年からギリシャはマケドニアに対し国旗・国名の変更を迫り経済封鎖を開始した。これによりマケドニアは1995年に国旗を変更した。国旗変更によりこの経済封鎖は解除されている。

 2008年、マケドニアのNATO加盟を、国名を理由にギリシャが拒否する出来事があった。これによりマケドニア呼称問題が再浮上し、ギリシャ・マケドニア間の対立は再度深まった。

 2017年、マケドニアにて、国名変更に対し柔軟姿勢なザエフ政権が誕生し事態は動く。呼称問題解決に向け両者が話し合いを進め、2018年、マケドニアの国名を「北マケドニア」とする「プレスパ合意」が成立した。

 2019年に国名変更が正式決定され、現在に至る。しかし、なおも周辺国との対立は残っており、北マケドニアがEUに加盟する見通しは立っていない。

Chapter 17. スロベニア・クロアチアのその後

 本チャプターは、スロベニアとクロアチアの独立後から現在までの歴史を見ていく回になっています。


 スロベニアとクロアチアが独立宣言をした後、紛争を経て両者は独立を確定させた。

 その後スロベニアは、2004年にNATO、EUに加盟し、2008年にはEUの議長国を務めるなど割とスムーズに欧州入りを果たした。

 一方クロアチアは、クロアチア紛争による経済の落ち込みや、「旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)」への対応を巡って、NATO、EU入りは難航した。

 結局、2008年にクロアチアはNATOに加盟し、そして2013年にEUに加盟した。スロベニアと比べ大幅に遅れながらも欧州入りを達成した。

Chapter 18. セルビア・ボスニアのその後

 本チャプターは、セルビアとボスニア・ヘルツェゴビナの内戦終結後から現在までの歴史を見ていく回になっています。


 ボスニア紛争がデイトン合意にて終結した後、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、スルプスカ共和国の2つの主体からなる単一国家、ボスニア・ヘルツェゴビナが誕生した。

 1995年、高等代表事務所(OHR)という機関が設立され、紛争後のボスニアの監督にあたることになった。(コソボで言うところのUNMIK)

 その後ボスニアは治安を改善させ、2016年にEU加盟候補国申請を提出、現在、欧州委員会はボスニアをコソボと共に「加盟候補国」の一段回下になる「潜在候補国」と位置づけている。

 視点変わってセルビアは、2004年に親欧米のボリス・タディッチが大統領になったことで欧米協調路線を推し進め、ICTYへの協力、2009年にはEU加盟申請を行った。

 現在、欧州委員会はセルビアをモンテネグロと共に「加盟候補国」と位置づけ、EU加盟の前段階となるEU加盟交渉を進めている。加盟は早くて2025年とのことだ。



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