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止まる勇気、進む覚悟

久しぶりの投稿である。
現在お盆前だが、ありがたく携わってきたこれまでの仕事をすべて、九月末で一区切りつけさせていただくことが少し前に決まった。
既に稼働を大きく減らしており、期間は未定だが、長期間休む予定だ。



社会人なのに育児や介護に励むでもなくビジネススクールに通うでもなく仕事をしないというのは、一般的にはドロップアウトのような印象を持たれる。また、現実的なことを言えば、転職に影響するかもしれない。

でも、私にはこのような期間がどうしても必要みたいだ。
学生時代から三、四年に一回程度それまでの自分にお別れを告げてきた。

自分を構成している素材をすり潰して濾すように、自分を分解して形のないものにする。その後に新しいスパイスを入れて再出発するというようなことを意図的ではないが結果的に、人生の中で定期的に行なってきた。

数ヶ月休みながら、価値観が異なるコミュニティに足を踏み入れてみたり、新しいことに挑戦してみたり。自己破壊、かっこよく言えばアンラーニングをして、大きな転換を迎えてきた。

なので、今回の休みはいつ訪れるかわからないリスクとして予想していた。



現在28歳で、社会人7年目である。新卒で鎌倉の会社に入社してIT関連の新規事業を担当した後、二社目は大企業で数百億円規模の事業を担当した。2022年に独立してからは二社目の企業で業務を続けながら、コンサルティングやECサイトのリニューアル等でいくつかの企業に携わってきた。

前回いつ休んだかと言えば、二年前の独立するタイミングで三ヶ月程度休んだ。なので、社会人になってからは二回目である。ただ、この時は仕事も契約形態は変われど業務内容は変わらなかったし生活も大きく変わらなかった。なので、今回のとは性質が異なる。



なぜ私には、長期間の休みが必要なのだろう。

子供の頃に憧れていたバランスの良い大人に順調に近づいている友人たちを見ていると、日々の中でうまく息抜きをしている。でも私はそれが上手ではない。一度走り出したら休みの日も考えるほどに没頭する。家族をも驚かせてきたその集中力によって短期間で多くを成し遂げられるポジティブな面もあるが、いつもどこかで息切れしてしまうのだ。

熱中しつづけるために、閉じ籠る。
一度夢中になると、冷めないように自分の感覚を制限する。それゆえ、その渦中にいる自分は、人生を客観視できない。
また、不必要な情報をなるべく制限するために柔軟性が弱くなる。

突然夢の中から覚める。いや実際には、徐々に覚めているのだが眠り続けようと目を瞑っている。
数年夢中に走った後、その慣性のまま延長線上に進み続けるのが怖くなり、進行方向を大きく変えようとする。

それまで自分の感覚を騙していた間に徐々に強くなっていた心の雨に気づかず、大雨時のフロントガラスのように前が見えない。ちゃんとワイパーを出せばいいのに。

でも、そんな理性的な思考によるコントロールより先に、神経がドリフトを始めるので、自分の身体がついていけなくて、毎度衝撃で目の前が真っ暗になる。





私はいわば躁鬱を抱えている。今年の5月から7月の3ヶ月間は本当に苦しかった。田舎暮らしで友人が近くにいない寂しさ、ヒト・モノとの予期せぬ出会いがない日々の単調さ、顔や信頼の見えない環境での複雑な仕事で社会性が失われた。一日中誰とも話さない、気分の移り変わりがない日々を過ごしていた。

毎日を生き延びることが目的になり、刺激のない日々を過ごしていると、食事の味がしなくなった。温暖化か何かで世界の食べ物が薄味になったんじゃないかと思って大好きなとんかつ屋さんに数え切れないほど行ったが、やはり私の味覚が鈍くなっていた。また、思考力も正常時の三分の一ぐらいになった。一昨年に鍛えた筋肉もみるみるなくなり、ピークから八キロ減った。

色々重なった5月頃の仕事のミーティングでは、自分の発表時に急に目の前が真っ白になり、画面共有していた資料の文字を読むことさえできなくなり、急遽交代してもらったりした。あの後はひどく落ち込んだ。



独立したタイミングあたりから大きな方向転換を必要としていたんだと思う。ただ、あの時は覚悟ができなかった。20代で積み上げてきたものをすり潰すことがまだ怖かった。何も残らない気がしていた。

限界が訪れて休み始めた今、半強制的に、自分のことを遠くから見てみたり、これまでの歩みを書き出してみたり。新しく頑張りたい芽を摘んだり、一度耕した後放置していた土壌に水をあげたりしている。

休む覚悟ができて数ヶ月、やっと平気だと思えるようになってきた。以前より暗い場所にいるが、いい希望の光の木漏れ日がたまに差してくる。次は、IT×自社プロダクトの領域は離れてみることは決めた。



複雑な問いを考えるプロセスには、問題に出会って大量の情報を仕入れた後そっと温める"孵卵"というものが必要と言われている。シャワーに入っている間や皿洗いしている時に想定外のところから答えが浮かんでくるあれだ。

私の人生にも、"孵卵"が必要なのではと思う。一度夢中になることを辞めてみることで、予期しなかった新しい道を見つけている。それを繰り返してきた。

7月までは絶望に満ちていて、自分の生に対する執着が絶えないように必死だったが、やっとポジティブな気持ちが芽生え、このように客観視でき始めている。よかった。



まだ前が見えない、同じような境遇の誰かや、ドリフト中の未来の私のために。
5月以降私に会ってくださった方々、本当にありがとうございました。
やっと元気になりつつあります。

そして、来週からは学生時代から関わりたかった教育という分野に、高校生の海外研修合宿の引率という立場で一週間活動します。この話はまた後日。

おいしいフルーツやお肉をいただきます。大きな励みになります。