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第二部:結婚後にぶち当たった「女の壁」

ちょっと自分の現在位置を確認するために
半生を振り返る記事を書いていきます。
全部で3部構成になりそうです。全話長文注意。


4.家庭環境の変化で中国茶の活動は停滞

私のお茶の活動という意味では、
夫と結婚して福建省に拠点を移すまでは
順調だった。

中国へ移住する、
ということ自体に不安はなかった。

大学時代に北京へ留学していた経験もあるし、
私が中国茶と出会ったきっかけのアモイ市も福建。

来たことある場所。
だから大丈夫。

そう思っていたものの、
現実は甘くはなかった。

海外移住はやっぱり楽じゃない

国際結婚して生活の拠点を海外に移す、
というのは思っていた以上に大変で、
慣れるまでに時間がかかった。

私の中国語が夫以外にはほぼ通じない現実。

買い出しに近所のスーパー行っても
テンションがあがらない。

野菜にしろ肉にしろ魚にしろ、
なんかあまりおいしそうに見えない。

レジの列で割り込みされるとイライラする。

自由奔放に走り回る電動自転車が
危なくて横断歩道渡るのも神経使う。

そして謎の体調不良が続く。
体がだるい、なにもできない。
原因不明の熱を出した日もある。

ふとしたときに日本の何気ない風景が
恋しくなったりする。

意味もなく東京の天気予報が気になる。

寂しさは常につきまとっていた。

結婚後は家族中心の生活がスタート。
忙しい夫の予定に合わせるため専業主婦となった。

そして私は中国ではビザ無し生活。

夫はオーストラリア国籍の香港人だから
配偶者ビザは出ないし、

専業主婦状態だから
労働ビザも学生ビザも当てはまらない。

観光客的な扱いで中国には
連続最大15日間しか滞在できなかった。

そのために15日に一度は香港か台湾、
もしくは日本へ出国せざるを得ず。
何度も飛行機に乗って行ったり来たり。

移動目的の移動を繰り返すだけの日々、
本格的になにかに取り組むのも
むずかしい状況が何年も続いた。

せっかく中国へ来たのに、何もできない。

地に足つかない、
自分がどこにいるのか実感がない。

ただただ消耗している感覚。虚無感。

1ヶ月に何度も国境を出入り…そんな生活が続いた

5.実らぬ妊活で自己肯定感が地に落ちる

福建では夫や義父と一緒に
会食する機会がたくさんあった。

職場の人、取引先の人、
家族ぐるみで付き合っている友人など、
いろんな人たちと出会った。

そこで感じたのは、
周囲からの“子供圧力”がすごいこと。

中国語に「早生貴子(ザオション・グイズ)」
“宝のような子供に早く恵まれますように”
というような意味合いの決まり文句がある。

会う人会う人みんなが
私たちに言ってくる「早生貴子」。

最初は気にしていないつもりだったけど
あまりに言われ続けるとさすがに
意識してしまい、プレッシャーが積み重なる。

私自身は福建で
夫のお茶の仕事を手伝いたい、
一緒に働きたいと思っていた。

しかし夫や義父の意向もあり
「仕事はいいからまずは子供を産んで」
という流れになってしまった。

私は妊活に専念するために、専業主婦。

「思っていたのと違う」というのが本音。

しかし、これも私自身が選んだ選択肢。

もちろん私も子供は欲しい。
母親になりたい。

年齢的にも、もはやそこまで若くない。

感情的にはいろいろ思うところはあったけど、
まずは妊活に専念する、というのは
とても合理的な判断だと納得できた。


しかしその妊活は思うようにいかなかった。

夫の出張が多かったり、
15日間の制約で私が一旦
中国でなきゃいけない日と重なったり
なにかとタイミング合わないことも多かった。

無理やりタイミング合わせるために
私が夫の出張に同行することも
何度かあった。

それでも毎月生理が来て落ち込む日々。

最初はそんなに気にしてないつもりだったけど
じわじわメンタルが浸食されていく。

女としての機能を果たせない私。

期待に応えられないまま、
家族としての役割を果たせないまま、
タダ飯食べさせてもらっているだけの状態が
つらい。

ただの役立たず、完全にお荷物。

自分を支えていた自己肯定感みたいなものが
ポキポキと少しずつ折れていくのを感じていた。

一向に結果が出る気配もないまま
2年が過ぎたころ夫から
「日本で不妊治療の病院に通ったら」
と言われる。

彼は仕事があるから中国
私は妊活のために日本。

それってどうなの?
家族で役割分担は必要だと思うけど
子供を授かるために夫婦が別居するって、
どうなの?

でも自然に任せていて
もう2年も経ってしまった。

このまま時間だけが過ぎていくのは怖い。

夫としては、福建の地方都市よりも
東京の方が先進的で高度な治療が
受けられるだろう、という意味での提案だった。

彼の話は理にかなっている。

子供を第一優先にしている私たちにとって
「夫婦一緒に生活したい」という
私の感情論は通らないし通すべきではない。

そう考えて妊活のための別居生活が始まった。


不妊治療のために一人で一時帰国

日本へ長めの一時帰国。
北京留学時代の親友と久しぶりに再会した。

彼女はママになっていた。
話を聞くと彼女も妊活をして
体外受精で授かったんだとか。

「現代の医療はすごいよ!!」

という前向きな言葉に勇気をもらった。

採卵はすごく痛いと聞いていて
不安で憂鬱だったけど、親友の

「女性って本当にすごく強くて、
痛みに耐えられるだけの精神力あるから。
女性ってそういう生き物」

という言葉に励まされた。


激痛の採卵

そして日本で本格的な
不妊治療をスタートさせ、
はじめての採卵。

毎日飲み薬も筋肉注射も
いろいろやって刺激しまくり。

採卵日前は下腹部がパンパンで
座るだけでも声がでるくらい痛い。

採卵手術。
肉壁を超えて卵巣に直接
管を刺し卵胞を採取する。
それを左右2回やる。

部分麻酔したけど、ものすごく痛かった。

笑っちゃうくらい。
うめき声も出たし後半は足も震えてた。

管を刺されてグリグリされ続ける
激痛の30分間は長かった。

終わった後も下腹部痛すぎて、
歩くのもつらい。座るのも痛い。

結果を聞いたら卵子17個取れたって。

普通なら
毎月1個ずつ出てくる卵子を、
薬の力で無理やり増やして
力技で一気に17個もとった。
めちゃくちゃだ。

無事に成長できた受精卵は
9個まで減った。

手術後は点滴のために3日病院通い。

術後で一番辛かったのは、
ものすごくひどい便秘が
しばらく続いたこと。

大腸やおしりの感覚が
麻痺してしまったみたい。

おなかは苦しいのにトイレに行って
ふんばってもなんの反応もない。
食欲も失う。

マグネシウム飲みまくっても
まったく効果はなく、
人生で初めて浣腸を買った。

体のバランスが
ぐちゃぐちゃになってる感覚が
気持ち悪かった。


失敗続きの移植

採卵をしたのは8月。

9月は身体を整えるために休み。
10月に初めての移植。失敗。
11月2回目の移植。失敗。

12月は着床する能力があるかどうかを
チェックするERA検査。異常なし。

翌年1月、生理不順。
血が2週間ほど止まらない。
移植は中止。

2月は春節の長期旅行。
3~4月移植3回目。失敗。

5月また生理不順で移植できず。
2週間以上血が止まらない、血の量も多い。

移植のたびに毎日何種類も飲み薬に貼り薬、
膣からも薬を入れる。サプリも飲む。

薬もサプリも安くない。
通院1回で何万円も払う。
移植のたびに15万円ふっとぶ。
失敗するたびに夫もがっかりする。

そんな夫から提案。

「他の方法を考えようか」

なにかと思ったら
「海外で代理母も考えてみようか」と。

その話を聞いたとき、
背筋がゾクッとした。
正直怖くなった。

そこまでして自分の遺伝子を残したいのか。

冷静に落ち着いて考えたら
それも一つの手段ではあるのかもしれないけど、
私の気持ちは追いつかなかった。


メンタルの限界が近づく

3回目の移植が失敗し、生理不順で
移植にチャレンジすることすらできず
時間だけが無駄に過ぎていく中で、
いよいよ私のメンタルがやばい気がしてきた。

泣く日が増えた。
何も実らないまま年齢ばかり
重ねていくのが不安。

そして私はあと何回、陰性という
「あなたは女としてダメ判定」を
突きつけられなきゃいけないのか。

もう本当に逃げ出したい。
子供が欲しいのかどうかも分からない。

「子供が欲しいだけなら
どこかで若くて元気な女性をさがしてくれ」

と夫と義父に本気で言いたい。

でも私の幸せがどこにあるのか、
私の理想は…と考えると、
やっぱり私も子供が欲しい、
母親になりたいという気持ちがあるのも事実。

夫も日々仕事を頑張っている。
私も私にできることを頑張ろう。
諦めるにはまだ早い。

頭ではわかっているけど
気持ちがどうしても追いつかない。


しばらくはずっと
なにも言わずにいた義父から、
すごく真剣なトーンで

「子供を作るのは今しかできないことだから
本気でがんばれ」

というようなことを言われた。
なんだそりゃ。

別に悪気がないのはわかる。

結婚して4年も経っていて、
何も変化がない状況に
焦る気持ちもわかる。

でもそんなことわざわざ
言われなくても十分わかってるよ。
とっくの昔から本気でやってるよ。

しかし結果が出てない今の私が
何を言っても伝わらない。

無能。
無力。

涙しかでない。


大好きなお酒もやめた。
ポテチもやめた。
ジャンクフードも減らした。

なるべく栄養バランス考えて
自炊するようにしている。

夜更かししないように遅くても
23時すぎには寝ている。

身体を動かすことも
意識的にやっている。

空腹にならないように注意してる。
冷えないように腹巻もしてる。
与えられた薬もちゃんと飲んでる。
サプリも飲んでる。

そういうことを全部がんばって、
努力して、きちんと継続してる。

私にできることは精一杯やってる。
毎日毎日。


それでも結果がでない。


毎月毎月、ダメ判定を下される。
そういうことをもう、30回以上は繰り返してる。


どうやら私の努力はまだ足りないらしい。

何が足りないのか。
なにかを間違えてるのか。
分からない。



ずっと欲しかった言葉

5月。
夫とシンガポール行くはずが
移植周期と重なってしまった為に
私ひとり日本に居残り。

しかし出血止まらず
移植できなくなってしまった。

今月は病院に通う必要がなくなった。

また時間だけ浪費している。

時期的にはちょうどゴールデンウィーク。
世間が浮かれている中で
私ひとりまるごとヒマになってしまった。
どこかへ出かけようにも高い時期。
いきなり誘って遊べる友達もいないし
そういう気分でもない。

思い出したのは、
中国へ移住する直前まで
お世話になった中国茶カフェ。

ゴールデンウィークは毎年激務で大変だった。
人手が足りないようだったら私も一緒に働きたい。

ダメ元でお願いしたらその期間、
店で働かせてもらえることになった。
ありがたい。救われた。

数年ぶりの中国茶カフェ。
変わっていない安心感。

横浜中華街は観光地なので
ゴールデンウィークは例年賑わう。
中国茶カフェも午後から閉店まで満席状態が続く。

目が回るような忙しさ。
それでもお客さまにお茶を淹れて、
喜んでもらえる。

好きな場所で好きなことをして
リフレッシュできている時間が
うれしい。楽しい。

久しぶりに笑ってる気がする。


数年ぶりに会う
中国茶カフェの社長。
40代、二児の母。

会社を辞めるかどうか悩んでいた時も、
父に結婚を反対されていた時も、
私の人生の節目ごとにすべてを社長に話してきた。

結婚してから妊活していることも知っている。


そんな社長と久しぶりに会って言われたのは

「もうやめな、妊活」

「1年休め、その方がいい、
今の状態で続けてたってたぶんダメだよ」

真剣なトーンだった。

「だってあなた面構え変わっちゃってるもん」
と社長。

どんな風に変わっているのか聞いたら
「泣きそうな顔してる」って言われた。





びっくりした。
ごまかせなかった。


たまらずその場で泣いてしまった。


久しぶりのカフェで
楽しく働けてると思ってたけど、
社長は見抜いてた。

「一年休んで、病院も行くのやめて、
それであったかいところ行きな、ハワイとか」
って。

「もう妊活やめな」

夫も義父も私の周囲の人は誰も言わない。
私も自分からはそんなこと言えない。

それでもたぶん
一番欲しかった言葉だったんだと思う。

その言葉が欲しくて、社長の前では
無意識のうちにそういう顔を
してしまっていたのかもしれない。
甘えたかったのかもしれない。

「妊活一年休めって"医者が言ってた"
って旦那に言いな」

こういうときに”医者”をうまく使うんだよ
って笑いながら。

「医者がハワイ行ってこいって言ってたって(笑)」

確かに医者が言うことなら夫も考えてくれそうだ。


「腐らない力」


結果的に、不妊治療はやめなかった。

社長に「妊活やめな」って
言ってもらえただけで
私の心はだいぶ救われた。

心が軽くなって、前向きになった。

気分転換に、
同じくらいのタイミングで紹介された
別の不妊治療クリニックへ通ってみることにした。

妊娠という結果を焦らず
まずは数ヶ月間、漢方薬を使って
体質改善からはじめましょう
という方針のクリニックだった。

採卵やら移植やらのために
薬でコントロールされ続けて、
自分の体の本来のバランスが
崩れている気持ち悪さはずっと感じていた。

血が止まらずに移植できないのも
もしかしたらそのせいかもしれない。

今まで飲んでいた薬はやめて、
しばらく漢方薬だけ飲むようにしてみた。

この頃の私を支えていた言葉は「腐らない力」

大学時代の友人と話してて出てきたフレーズ。
人生の中で、なにをやっても
どんなにがんばっても報われない時期
というのは必ずある。

タイミングを待つしかない時期もある。

ずっとスタンバイしている状態は
めちゃくちゃしんどいけど、
腐らないで前向きでいることは
できるかもしれない。

たぶん、いや間違いなく、
今の私はその待ちのフェーズにいる。

終わりの見えない真っ暗なトンネルの中。
出口がどっちにあるかもわからない。
同じ場所で何年もずっと足踏みしてる。

家族から求められている
「子供を産む」という女の生理機能すら
果たせずに何年も経ってる。

そんな役立たずで無価値な私に対して、
夫も義父も変わらずやさしく接してくれる。
必要なものはすべて与えてくれる。

申し訳ない。居心地が悪い。
自己肯定感はとっくの昔に地に落ちている。

でも今はとりあえずそれでいい。
がんばらなくていい。

メンタルが腐らなければ、
今はそれで十分。

6.お茶のおかげで自分を取り戻せた

不妊治療の合間を縫って、
中国茶の活動は続けていた。

お茶の時間は私の癒しだった。

一人でお茶を飲む時間も好きだけど、
茶席でお客さまに飲んでもらうお茶も好きだった。

「おいしいですね」と喜んでもらえる。

お茶を淹れている私は無価値ではなかった。

結婚する前のありのままの素の自分に戻れる。
お茶のおかげで、
私は自分を保つことができていた。

そして8月。
札幌でのとある出会いが
私に大きな自信を与えてくれた。

お茶に込めているものを見出してもった

札幌のお茶イベントにて。

満席の茶席の後ろに立って
ずっと私のお茶淹れを
見てくれている男性がいた。

終わると声をかけてくれて、
興奮気味に賞賛してくれた。

私は私なりに自分のお茶淹れに、
一杯のお茶に、込めているものがある。

もちろんその込めているものを
いちいちお客さまに説明することはない。

飲んでいただくお茶がおいしいと
感じていただければそれで十分。

むしろその「おいしい」のために
込めているものだからそれがいい。

でもその男性は、私が言葉にせず
一杯のお茶に込めているものを
ひとつひとつ具体的に取り出して
「すごいです、すばらしいです」
と褒めてくれた。

長年いろんな人に
お茶を入れてきたけど、
初めての経験だった。

しかもこの人は
私の茶席を見ていただけで、
お茶は飲んでいない。

それでも込めているものを
感じ取ってくれた。

話を聞くと
その男性の本業は納棺師だった。

私のお茶を淹れる所作が
納棺師として勉強になった、
と言ってくれたのだった。

お客さまの目の前で茶葉にお湯を注ぎ、
そのお茶がもつ味や香りを引き立て、
実際に味わってもらう。

お茶ができあがる過程を
すべて見てもらってから飲む一杯。

そこには、
ただ単に「お茶を飲む」という行為を
超えた体験価値があると思っている。

お茶淹れはある意味で
パフォーマンスとしても大事な要素。

納棺師も同じだとのこと。
旅立ちの準備、その過程をご遺族の前で行う。
“作業”としては誰がやっても同じことができる。

でも腕のある納棺師がやると
ご遺族の表情がまったく違うものになるんだとか。
その違いは、込めているものが違うから。

同じだと思った。
お茶も同じ。

そこに込めているものがあるからこそ、
淹れ手が変われば
お茶を通じて伝わるものも変わる。

中国茶と納棺師はまったく違う世界。

でもお互い理解し合える感覚があって、
それを共有できたのがとてもうれしかった。

なにより自信になった。

私の道はこっちで間違ってない。
このままもっと進んでいきたい。

その想いは確信に変わった。

お茶があるから大丈夫


と同時に、いい意味で吹っ切れた。

不妊治療、なんか、もう、どうでもいいや。

結果に固執するのはやめよう。
ただ続ければいい。

年齢や資金など物理的な限界が来るまで
不妊治療を続ける覚悟ができた。
気持ちではもう折れない。

もちろん今まで通り最大限の
努力をしながら治療は続ける。

でも毎月の結果に一喜一憂したり
陰性判定に焦ったりする必要は、
もはやないような気がした。

不妊治療に私のすべてを支配される必要はない。

治療にフルコミットするのは体だけでいい。
心だけは、メンタルだけはしっかり切り離そう。

淡々と続けよう。それでいい。

子供を授かるという望みが叶わなくても、
私はお茶を続けていくことはできる。

最悪夫から見放されることになったとしても、
それでも私はお茶を続けていける。

モヤモヤがはれた。
気持ちよく腹をくくれた感覚。

恐れるものがなくなった。
私はもはや無敵の人だ。


つづく↓



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