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黒髪を抱いて沈む

高校生の高濱夏帆が、自分には潤一郎という10歳年上の兄がいたことと、その死を知ったのは同時だった。
母親が違う兄は夏帆たち一家を避けていたからだ。

いま夏帆は葬儀会場の親族控室でひとり棺のそばにいる。棺の前の渦巻き状のお香は細い煙を漂わせている。
初めて見る兄は花に囲まれて静かに眠っているように見えた。それでも土気色の顔と色のない唇が彼が死んだと突きつける。兄は死後数日経って発見されたらしいがとてもそうは思えなかった。
「潤一郎さんはカッコイイ人だったんだね。一度ぐらいはお話したかったな」
夏帆は寂しく微笑み、棺の窓を静かに閉めた。

ホールから謎の宗教団体の信者が歌う不気味な歌がずっと聞こえてくる。そして母親と名乗る女の狂ったような金切り声と、涙声交じりの父の怒号が止まらない。女はあの子は私の神様を信じなかったから死んだだの、ナントカの祟りだの訳の分からないことを繰り返していた。潤一郎の従兄弟である喪主の静止する声は母親には聞こえないらしい。
夏帆は溜息をついた。
ふと、声が聞こえた。

「やれやれ、煩くて辟易する」

知らない男の声だった。その感情がない乾いた声は棺の中から聞こえたような気がした。
「だれ…?」
夏帆は恐る恐る棺を見る。
閉めたはずの蓋が、開いていた。
棺の中を見た夏帆は思わず悲鳴を上げた。

棺の中は長い黒髪で埋まっていた。

仰向けだったはずの兄は背をこちらに向け横向きになっていた。
閉じた瞼は開き白濁した目が虚無を見ている。
そして半開きになった色のない唇から、長く艶やかな黒髪が音もなく絶えずさらさらと吐き出されていた。
「なによこれ…」
立ち尽くした夏帆の耳に、兄の頭からあの抑揚のない声が聞こえてきた。

「君は誰だ」

夏帆は答えることができなかった。体は震え冷たい汗が背中をつたう。
しゅる、しゅる…棺からあふれた長い黒髪が落ち、床に広がり始める。
ふ、と笑う声がした。

「ああ、彼の妹か。目元が似ている」


【続く】

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