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たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
これも随分前の本だけど、すごく面白い。読み終えた後にはほんの少し世界や社会の見方が変わるかもしれない。

原題は「The Drunkard’s Walk」。ドランカーズウォークとは、「空間を動き回る分子がたえず他の分子と衝突したり衝突されたりしながらたどる経緯のような、ランダムな動きを表現する数学用語」とのこと。これを「たまたま」と訳したのは素晴らしいなと思う。

そう、この世の中には「たまたま」がたくさん潜んでいる。あらゆる場所や物事に「たまたま」があるのに、人はそれを「たまたま」とは思わない。それを自身の実力や能力と勘違いしたり、「たまたま」の確率を計算して、それが途方もない確率であることを知り、これは奇跡だと考えたり。あるいは、必然を「たまたま」だと取り違えたりする。

本書は、そんな日常に潜む偶然─「たまたま」を解き明かす。本書を読めば、いかに人間の直感があてにならないか、いかに人間は状況や結果を都合よく解釈する生き物かということを思い知らされるだろう。そして統計や確率の魅力を垣間見る。

本書では、人が陥るそういう誤謬や誤解は仕方ないものだと言う。しかし、僕らの解釈や判断や認識は、常に、思い違いや過信や誤謬にさらされている。そのことは知っておくべきだ、と著者は言う。と書くと、多少教条的な臭のする本かと思うかもしれないけれど、全編を通じてユーモアに溢れていて、とにかく愉しめる本だ。

僕らは、「結果」からならいくらでもその状況の原因や要因を導き出すことができる。その「結果」が必然であったような説得力あるストーリーやプロセスを描き出す。でもそこであげられた「原因」や「要因」は、それが起きたとき、それが発見されたときには、無数のその他の条件やら、要素やらの1つとして立ち現れてくるにすぎない。その中の1つを「原因」や「要因」とするのは、あくまでも「結果」によるものなのだ。そう「未来は起こってからしか理解できない」のだ。

数学者、ジョージ・スペンサー=ブラウンはこんなことを言っている。

0と1がランダムに10の100万乗個並んだ数列には、0が連続して100万個並んでいる個所が、少なくとも10か所は存在するはずだ

私たちは「たまたま」この0が100万個並んでいる個所に出くわしているだけで、より俯瞰的な「ランダム」の中にいるに過ぎないのに、これをランダムとは認識することはできない。ランダムに意味を見出しランダムから必然を導き出してしまう。

14年連続でその年の株式市場が上向きか下向きかを当て続けた男(ビル・ミラー)は、実力でそれを成し遂げたのだろうか。偶然だけで14年連続成功する確率は37万分の1などと言われたらしいが、この確率は果たして正しいのだろうか。

37万分の1のなどという数字を言われると、これは決して偶然でも、たまたまでもなく、この男に備わった何かしらの能力によるたまものなのだろうと思い込みがちだ。しかし、実際の確率は、このような途方もない数値とはかけ離れた数値となる。それは、4分の3、75パーセントだと、著者は言う。

本書では、このような確率や統計的誤診を実にわかりやすく解き明かしてくれる。本書のテーマの確信的な部分でもあるので長くなるけれどもその種明かしを引用してみる。

実際、もし<とくに>1991年のはじめに、<とくに>ビル・ミラーという人物だけを選び、選んだその<特定の人物>が<正確につぎの15年間>純粋の偶然で市場を打ち負かす確率を計算してたら、その確率は天文学的に低かったろう。それは、あなたが、一年に一度、15年間コインを投げ、その都度コインのオモテが出ることを目標にした場合と同じ確率だ。

しかしロジャー・マリスのホームランの分析で見たように、それは適切な確率ではない。なぜなら、数千(現在は6000以上)のミューチュアル・ファンド・マネジャーが存在するから、連続記録という偉業が達成されていたかもしれない「15年の期間」が、多数存在するからだ。だから、適切な確率は、数千の人間が年に1度コインを投げ、それを何十年とつづけた場合、そのうちの一人が15年間すべてオモテを出す確率はいくらか、である。

その確率は、単純に連続15回オモテを出す確率よりはるかに高い。
このことを具体的に説明してみよう。仮に1000人のファンド・マネジャーが──これは間違いなく控えめな数字だ──1991年から毎年1度コインを投げたとしよう(ミラーの連続記録が始まったのも1991年)。すると、1年後、全体の約半分がオモテを出し、二年後には全体の四分の一が二度目のオモテを出し、三年後には全体のハ分の一が三度目のオモテを出し・・・ などとなっただろう。そのころまでにはウラを出してゲームを捨てる人間も出はじめていただろうが、彼らはすでに失敗していたのだから、そのことが分析に影響することはない。15年後、<特定の一人が>すべてオモテを出した確率は、3万2768分の1だ。しかし、1991年にコインを投げはじめた<1000人のうちの誰か>がすべてオモテを出した確率はずっと高くなり、およそ3パーセントだ。

さらにもう1つ、 1991年にコイン投げを開始した人間だけを考える理由はない。ファンド・マネジャーは1990年にでも、1970年にでも、現代的ミューチュアル・ファンドの時代のいずれの年にでもはじめることができた。

(略)

私は、過去40年の中で<あるマネジャーが>偶然だけで<15年間>毎年市場を打ち負かす確率を計算した。この幅が、先の確率をふたたび押し上げ、ほとんど四分の三にもなる。だからわれわれはミラーの連続記録に驚くというより、もし誰一人ミラーのような記録を達成しなかったら、あのような高給取りのマネジャーがそろいもそろって、偶然にまかせるよりも悪い仕事をしていたと、理路整然と文句を言うことができただろう。

ここで書かれたような勘違い、思い違いを私たちはいたるところでしている。

「もし株を眺め、勝ち馬を選ぼうとしている人間が一万人いるとすれば、一万人のうちの一人は偶然だけで成功する。それが起きていることのすべてだ。それはゲームであり、それは偶然の作用であり、人びとは何か意図的なことをしていると考えているが、じつはそうではない」(ノーベル賞受賞経済学者マートン・ミラー)

だが、こういった話を極端に考えると、成功だろうが失敗だろうが、それは全体から見たら「たまたま」に過ぎないのだから、僕らは努力してもしなくても一緒だというような短絡的な厭世観みたいなものに帰着してしまうかもしれない。しかし、それも間違いだろう。当たり前だけれども、そういう努力は無駄ではない。

重要なのは「過去」からある原因やら要因をそれらしく導き出すことは容易にできてしまうわけだから、それを鵜呑みにして、それがその人のすべての能力であるかのように思い込んでしまうことは危険だということだ。
「スコアボードを見るよりも能力を分析して人間を判断するほうが信頼できる」「結果をもとに人の行動を賞賛すべきではない」ということ。きちんと人を見よ、その人の人間的性質に目を向けよう。

過去を説明する話を考え出したり、将来に対する曖昧なストーリーに確信をもつようになったりすることは簡単だ。また、そうした努力に落とし穴があるということは、われわれはそれを企てるべきではないということを意味しない。

しかし、われわれは直感的誤診に陥らないようにすることができる。われわれは、解釈も予言も、懐疑心をもって見るようになれる。われわれは出来事を予言する能力に頼るのではなく、出来事に対応する能力に、柔軟性、自信、勇気、忍耐のような人間的性質に、注意を向けることができる。そしてわれわれは、人のこれ見よがしな過去の業績よりも、直接的印象に、より多くの重要性を置くことができる。そしてこのようにすれば、われわれは、自動的な決定論的枠組みの中で判断するのを食い止めることができる。


また、本書内では、「偶然」を数学的に、統計的に解釈しようと挑んできた歴代の天才数学者や科学者たちの話から、著者自身が遭遇した日常に潜んだ確率的誤謬がもたらした喜劇など。とても興味深くて面白い話が数多く挿入されている。どれか一つでも知っていれば、人に自慢したくなること請け合いだ。メモもかねていくつかピックアップしてみよう。

モンティ・ホール問題

ニュース雑誌「パレード」の人気コラム「マリリンに聞け」で全米で議論を巻き起こしたモンティ・ホール問題。
テレビのゲーム番組で、競技者が三つのドアの選択権を与えられているとします。一つのドアの後ろには車が、残りのドアの後ろにはヤギがいます。競技者が一つのドアを選択したあと、すべてのドアの後ろに何があるかを知っている司会者が、選ばれなかった二つのドアのうちの一つを開けます。そして競技者にこう言います。「開いていないもう一つのドアに選択を変えますか?」 選択を変更することは競技者にとって得策でしょうか?

答え:選択は変更したほうがいい。

多くの数学者は、この答えは間違いだと指摘した。普通に考えれば2つの選択肢で1つを選べば勝ち、1つを選べば負けという状況で確率は50%。選択肢を変更するも変更しないも確率は変わらないと考えられるだろう。
さて、答えは、この答えの理由は本書を参照してもらいたい。

誕生日問題

あるグループにおいて二人の誕生日が一致する確率が50パーセント以上であるには、そのグループに何人いなければならないか(ただし、すべての誕生日は蓋然性が等しいと仮定する)?
答え:わずか23人。つまり、僕らの時代とかなら小学校の頃は1学級40人ぐらいいたけど、この人数ならこの中に誕生日が一致する人はかなりの確率で存在することになる。そんな賭けがあれば、「同一の人がいる」に賭けていれば勝てる。
(前職の京都事務所に30人ぐらいのスタッフいた時、誕生日が一致する人がいた)

統計学的有意性をもったワールドカップの試合数

平均して3試合に2試合は勝つような優れたチームでも、約5回に1回は劣ったチームが7試合制ワールドシリーズに勝利する。
統計学的有意性をもって、つまり、弱いチームが優勝する確率が5パーセント以下になるように、勝者を決定するには、最低でも23試合制のワールドシリーズにしなければならない。

潔白な選手でもドーピング検査にひっかかる確率

ドーピング検査での偽陽性率が1パーセントであった場合、僕たちは99パーセントがクロであると考えてしまいがちだが、これも確率統計誤謬の典型。
検査によってドーピング違反が暴き出される確率が50パーセントの場合、検査された選手1000人ごとに100人がクロになるはずだが、実際にはそのうちの50人だけが検査でクロとされる。
一方、偽陽性率は1パーセントだから、潔白である900人のうち9人がクロとされる。したがって、このドーピング検査の場合、その人物がクロである確率は99パーセントではなくて、84.7パーセント。
つまり、15.3パーセントはクロではない可能性があるということ。「偽陽性率1パーセント」という言葉からイメージするクロの確率とは大きい違いが生まれてしまう。

いかさまを見破る、ポアンカレ予測

ポワンカレは、広告で1000グラムとされているパンが平均で950グラムしかないことに気づいた。パンに作為がなければ、1000グラムより重いパンと1000グラムより軽いパンの数は、誤差法則のベル曲線にしたがって減っていくはずだが、1年間毎日、パンの重さを計ったポワンカレは、重いパンがほとんどなく軽いパンが多いことに気づいた。誤差法則とは、いわゆる正規分布のこと。変な言い方だが「正確な」誤差は、正規分布をとる。
この誤差法則の研究は、さまざまなな悪行の証拠をつかむために使われている。例えば、会社がストックオプションの日付を実際より前にずらしていたことを示す統計学的研究など。

iPodのランダム・シャッフリングの問題

真のランダムネスはときどき繰り返しを生み出す。iPodで最初に採用したランダム・シャッフリングの方法では、その問題にぶち当たった。同じ歌が同じアーティストによって繰り返し演奏されるのを聴いたiPodユーザーが、シャッフルはランダムではないと思った。そこで、「もっとランダムな感じにするために少しランダムではなくした」。

どうだろう、こういった事例をいくつかあげるだけでも本書の内容に興味がそそられないだろうか。この手のトリビア的な話が好きな人にもぜひ手にとってもらいたいオススメの一冊だ。

(この記事は、2010年3月に自身のブログに投稿したエントリーをnoteに再編集して移行させたものです)

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