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それは無駄なことなのか? ルールや情報共有や調整で自主性を損ねないように

前職の部下が木村石鹸にジョインして2週間。彼がこんなシーンに遭遇したらしい。

彼は前日、営業車のプリウスを洗車してる営業マンAの姿を見かけて声をかけたらしい。「なにしてるんですか?」「汚くなってるんで洗車してるんです」「誰かから指示されて?」「いや、自分がよく使うので自主的に」みたいなやり取りがあって、ほー、自主的に営業車の洗車も自分たちでやってるんだ、すごいなぁ、と思ったそうだ。

が、次の日、今度はまた別の営業マンBが、昨日Aが洗車してたのと同じプリウスを洗車してたそうだ。「あれ、プリウスは昨日、Aさんが洗車してましたよ」「え、まじで?」という反応で、営業マンBも自主的に、GWの連休前だしということで洗車してくれてたそうで、営業Aが洗車したばかりということを知らずに洗車してたらしい。

そもそも昨日洗車したばかりのクルマなんだから、営業Bもよく見たらキレイだってことわかるんじゃないかと思う人も多いだろう。確かに。しかし、このプリウス。走行距離も20万キロを越えて、車体もかなり年季が入った感じにはなっている。洗車したばかりでも、くたびれた感じは抜けない。なので、営業Bも、まぁまぁキレイだとは思ってたけど、GW前だしということでサクッとやっとくかぐらいの感覚で洗車に取り掛かってくれたのかもしれない。その辺はよくわからない。

さて、同じクルマを2人の営業マンが2日連続で洗車するというのは、無駄なことなんだろうか。

営業Bがやったことは意味ない無駄な行為だろうか。営業Aは洗車したことを他のスタッフと共有しておくべきだったろうか? こんなことが起きないように会社として、洗車についての担当やルールやらを決めておくべきなんだろうか?

僕は、こういう「無駄」については許容すべきだと思ってる。

仮にこういうことを無くすべきと、情報共有や手続きや調整やらを加えたら、今度は、自主的に自分たちが使うクルマを洗車するなんて気持ちが損なわれてしまうかもしれない。ルールを作ることは簡単だけど、何かルールを作ると、ルールで判断する癖がつく。そうすると、何か例外のことが出てきたときに、また判断できなくて、そこに新しいルールが生まれる。

例えば、一ヶ月に一人で、持ち回りで洗車する人を決めておいて、順番に回ってくるようにしたとする。こういうルールを作った時点で、自主性は損なわれてしまうんじゃないだろうか。人によってはやりたくないけど、ルールで決まってるので仕方ないと考えるかもしれない。順番になると、今度は、やれ誰の担当の時は全然キレイになってないとか、掃除ならここまですべきだとか、そういうところで揉めたりすることもでてくるだろう。そこでまたルールを作らないといけなくなったり。

あるいは、クルマの汚れた方なんて、使用場所や時期や頻度によっても影響があるので、例えば、夏場に田舎での走行が多かったら、虫の死骸などが沢山ついてて、洗車が大変だとか、あるいは春は黄砂が、すごいので下処理が大変だとか、不公平だとか、そういうしょーむないことで揉めることもあるかもしれない。

ルールもうまく作ればこんなことにはならないのかもしれないけど、そこに頭を使うなら、僕は、ある程度な無駄は許容しつつ、むしろ、今回の営業マン2人の自主性を評価したい。

2人の営業マンが自主的に洗車する、そういう気持ちや行動がスタッフから出てくることが会社の強みの一つなんじゃないかと。

たまたま同じクルマで被ってしまったけど、そんなこと大したことじゃないじゃないかと思う。

ちなみにこの場面に遭遇した前職の部下の反応は、2人とも自主的に洗車するなんて、なんて良い会社だ、というものだったらしい。

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