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舌の記憶  ル・ゴロワのケーキ

いなくなった人をあなたは何で記憶しているのだろう。

それは十二月のある晴れた週末のこと。
その日の夜、私とマユミさんは渋谷のNHKホールに行くことになっていた。マユミさんは同い歳で、三十過ぎてから引っ越した地方都市で初めてできた友だちで、大学時代を東京で過ごしたのも同じ、音楽やアートの趣味もわりと似通っていた。

子どもは夫に預けて、久しぶりに東京に繰り出そう。

矢野顕子のコンサートがあるんだよね、年末に、と言った私に、マユミさんはたたみかけるようにそう返してきた。私も彼女も矢野顕子が大好きだった。

東京。原宿。表参道。
地方に引っ込んでからも家族連れで行ったことはあるにはあった。
でも、やっぱり家族抜きで行きたい。母親とか妻とか、そんな面倒な役割から自由になって、ただのマユミやユウコとして行きたいよね。往きは節約して在来線に乗ろう、だけど帰りは遅くなるから新幹線で。そう言い合って立てた計画だった。

私がコンサートのチケットを二枚取ると、マユミさんはお昼を食べる店を予約してくれた。

日常の役割から解放され、ただの女として歩く表参道はいったい何年ぶりだったろう。
いまはどうか知らないけれど、私たちが大学生だったころ、地方から東京に出てきた子がまず行ってみたいと思うのは原宿だったように思う。当時はインターネットも、ましてやスマートフォンもなかったから、地方に暮らす女の子は、本や雑誌をむさぼり読んでキラキラした都会の情報に触れていた。東京に出てきたばかりのもっさりした十代の子にとって、青山や原宿や表参道といった地名はとてつもなくマジカルな光を放っていたものだった。

テラス席のあるカフェ、有名デザイナーのお店、古めかしいけれど趣のある同潤会アパート。一見してモデルとわかる小枝のように細長い手足の外国人女性。お上りさんにとって表参道は都会の華やかさが凝縮された夢の大通り、最初のころは見るものすべてが華やかで、キョロキョロしながら街角を歩きまわっていた。それが大学二年になり、三年になり、後輩から「先輩」と呼ばれるようになると、まるで、ずうっと前からこの街を知ってるよ、といわんばかりのそぶりで舗道を闊歩するようになる。

二十歳をはさんで十年ほどのあいだ、女の子は輝くものに向かおうとする勢いがきわめて強くなる。そして、少なくとも外見は大きく変貌する。とくに地方から大都市に出てきた女の子は、化粧や服装や髪型や持ち物を猛スピードで更新しながら都会に順応しようとする。みんながみんなそうではないだろうけれど、少なくとも私はそうだった。マユミさんもやはりそうだったと言った。ン十年前のユウコやマユミやミナやチカやサユリやなんやかやは、そうして表参道をあっというまに勝手知ったる庭もどきに、表向きはしていたのだ。

それから時は流れた。
四十かそこらのただの女としてそぞろ歩いた表参道はどうだったか。
きれいでおしゃれでエネルギーに満ち満ちているのは昔もいまも変わらない。だけど、なんだかよそよそしい。かつては物怖じせずにすっと溶け込めていけた街に、いくら歩いてみても近づくことができない。なんだか話の通じにくい相手と向き合って食事しているときのような違和感やいたたまれなさがあって、もはや地方の四十女にはどうにも扱いきれない相手という気がした。
呼吸が合わない、私はここに所属していない、という感じだ。

ところが参道から脇道に折れ、一本裏の細い通りに入ると、ふっと体の力が抜ける。人の数がぐんと減り、マンションや一軒家が建ち並ぶなかに、ところどころひっそりと小さな店がある。一本裏道に入っただけでこんなにも静かなのが不思議だった。あたりの空気の温度や密度がふつうに戻った気がして、ほっとひと息つける。街と自分とが遊離していず、しっくりとかみ合った感覚になる。歩いている道にちゃんと足が着いている感じがする。それが自分にちょうどいい街のサイズだ。

その通りに〈ル・ゴロワ〉はあった。
四人掛けのテーブル席がひとつ、あとは七、八人座れば一杯になりそうなカウンター席だけの小さなフレンチレストランだ。山本容子が内装を手がけたとかで、壁には彼女の版画が掛かっていた。マユミさんも私も山本容子が大好きで、たまたまこの店が新聞で紹介されているのを見つけたマユミさんが予約を入れてくれたのだった。

都心の裏通りのレストランらしいセンスのいい店だったけれど、つんと気取ったところがなくて、訪れた客を温かく受け止めてくれる雰囲気があったのは、どことなく漂うシェフや従業員の人柄のせいだったのだろうか。もちろん料理も文句なしにおいしかった。

この店で私は伯母の苺ショートに再会した。

私が高校生のときに亡くなった伯母は料理の先生だった。世界にはほんとにいろんな料理があること、いろんな味があることを、私は伯母の料理教室でおぼえた。おいしい料理をつまみ食いできるし、いろんなお姉さんにかわいがってもらえるものだから、私は十歳頃まで、料理の授業が始まる夕方五時以降は伯母の教室に入りびたっていた。

好きなメニューはビーフシチューとスコッチエッグ。それでもやはり魅力的なのはデザートだった。カスタードシュークリームに苺の泡雪羹、焼きリンゴにミントゼリー、それから「しんれんどうふ」。さっぱりと甘いシロップの中に白くてつるんとした菱形の寒天とフルーツを浮かべた中華デザートを、私は物心ついたときから「しんれんどうふ」と呼んできた。世の中の人がそれを杏仁(あんにん)豆腐と呼ぶのを知ったのは、大学に入り東京に出てきたあとのことだった。

だけど、苺ショートやクリスマスケーキはちょっと苦手だった。スポンジの部分がふわっとしていなかったからだ。いまのケーキはスポンジがとろけるようにふわふわで、私なら軽く二、三個食べられそうな気がするけれど、伯母のショートケーキはスポンジの密度が高くて空気をあまり含んでいない、食べ応えのあるものだった。材料はいったい何だったのだろう。バターをたくさん入れていたのだろうか。そう、クリームもまたこってりと重たいバタークリームだった。とにかく、作りたてでもかなりどっしりした食感だったから、いくら甘い物が好きな子どもでも一切れ食べたらもうお腹一杯で、私はいつも一切れ食べおおせないままに終わっていた。残りを翌日に食べようとしたら、スポンジ部分がパサパサになっていて、ますます食べる気が失せたものだった。

その苺ショートがデザートに出てきたのだ。外見も、味も、食感も、子どものころに食べたのとほとんど同じものが。

私はそのケーキを残したか。
残さない。すべてきれいに食べた。
本当に、ほんとうに、おいしかったから。
大好きだった伯母に数十年ぶりに再会したような気がして、ひとくちひとくち大切に口に運びながら泣きそうになった。
舌があの味や食感を憶えていたことにも泣きそうになった。
懐かしさに泣くこともあると私はそのとき初めて知った。

いまはもういない人を思い出すときは、言葉やしぐさや表情など目や耳に残る記憶をたどることが多いように思うけれど、舌にもまた過去の記憶は宿っている。

何年かまえ、またあのケーキを食べに行こうかと思い立ち、〈ル・ゴロワ〉を検索したけれど、店はもう表参道にはなく、はるか北に移転してしまったあとだった。

こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。