「働いてない」と人権がないのか問題

カネカの件で思うこと。子供の小さい片働き家庭だって頻繁に引っ越しなどしたくないですよ。子供だって幼稚園や小学校を頻繁に変わるのはメンタル的にきついと思う。でも今の時代になってはじめて「共働き時代に合わない」という理由で否定できるようになった。夫の賃労働都合の引っ越しには、妻の賃労働(それも夫と同格の正社員)をぶつけないとダメなんだろうか。

賃労働をしてない人間の意見は無視されるのが当たり前なのだろうか。夫婦別姓問題にしても、妻が(名前の同一性が重要な)仕事をしているから、苗字を変えると不都合があるからという理由での主張が多い。賃労働をしてない女性だって苗字を変えたくない人もいるだろう。

昨年流行語にもなった「ワンオペ育児」という悪名高い風土がある。女性が一人で家事育児、そしてさらに仕事(いま女性の労働参加率は7割を超え8割近くになっている)を一人でオペレーションすることをいう。

ワンオペ育児という言葉は自然発生的なものなので正式な定義はないが、「仕事もしている人が」育児もひとりでやることがワンオペ育児なのだろうか。

賃労働してない主婦なら、結婚とともに夫の苗字に変えるのも、夫の仕事都合の頻繁な引っ越しも、ずーっと休みなく家事育児を一人でやるのも当然だけど、その人が賃労働しているなら(共働きなら)許されませんよね!という主張……賃労働してない人間の意見は誰も聞いてくれないの?

しかも、そういう主張をする人が引いてくるソースが全世帯における共働き・片働き率とか女性の労働参加率とか、子供はいないかすでに成人している人、短時間のパートタイムまで共働きに含めたもので、もう片働き世帯はこんなに少数派だから!といって共働きのための制度の拡充を求めるが、実際には保育園・病児保育・学童保育の充実などの夫婦フルタイム正社員で幼児〜せいぜい小学校低学年までの子持ちのための主張であることは多い。

「共働き推進」というものが、夫婦とも正社員じゃないとダメ、正社員じゃないと一人前の人として扱われないし、一旦辞めると年齢差別やブランクによって二度と正社員にはなれないから、という現状ある職業による身分差別の追認なのであれば、これは人権問題です、公的な問題ですという顔をするのはやめてほしい。

現在、日本の正社員はメンバーシップ制で一度抜けたら再度復帰するのがきわめて難しい。正社員夫婦がメンバーシップを失わないための保育園なのであれば(認可保育園はフルタイム育休明けが最優先される)税金をここまで投入するのがなぜ正当化されるのか。

専業主婦はリスキーですよ、夫が浮気したりDVだったり死んだりしたらどうするんですか、という論者のみなさんは、夫婦ともフルタイム正社員で子供を持つことによる心身の疲労やそれに由来する病気のリスクはどう考えているのだろうか。パートタイム非正規ならいつ切られるかわからないし子供は保育園に入れないので、当然フルタイム正社員でい続けろという話ですよね。私は独身のときに長時間労働の仕事でメンタルをやられたので、夫との離婚・死別リスクよりも、未就学児を2人育てている今の状況でさらに賃労働もしたらメンタルをやられるリスクの方が大きいと思っている。

それから、そういう人はいま現実に専業主婦をやっている人のことはどう思っているのだろう。夫の転勤とか保育園に入れなかったとか自分か子供の身体が弱かったとか障害があるとか色々な事情があると思う。なんのメリットもないのにリスクの高いことをやっている大バカ者だと思うのだろうか?

最近の子育て専業主婦は、メディアを見ているだけで、「私は働く女性の味方です」「保育園に預けても発達には問題ありません、むしろ同世代の子供と過ごせて発達によい影響があります」「共働き社会を目指すべき」等々、「あなたが子供を預けて賃労働をせず、毎日子供と一緒にいて世話を焼いていることにはなんの意味もありませんよ」というメッセージを日々受け取っている。じゃあ今すぐ保育園に入れられるかというと待機児童問題があるような自治体ではそれも難しい。

こういう現状で子供が部屋中のおもちゃをひっくり返して遊び、外で泥んこになった服を洗い、イヤイヤ期や子供(複数)のナンデナンデ攻撃に一日中対応しているとほんとうに自己肯定感が下がる。それでも(少なくとも末子が幼稚園に入るまでは)働かないと決めるなら、こういう「メジャーな社会の声」に対するスタンスをしっかり持っておく必要がある。

加えて、いまの子育て専業主婦は孤独だ。私も上の子が1歳半で夫の転勤のため東京に引っ越してきて、2年後に幼稚園に入れるまで、近所のママ友がひとりもできなかった。これが10年前なら公園デビューとかあったのだろうか。今どき公園デビューしてもほかの親子なんてほとんどいない。いるのは保育園から来た先生に引率された何十人もの子供たちで、母親と子供で来ているのは自分たちともう1組くらい、それも一期一会で続けて何度も会うことはない。

私が子供のころは、幼稚園の頃から親抜きで近所の子と遊んでいたし、近所の同世代の子とその兄弟や両親の顔も知っているのが当たり前だったのだが、上の子が5歳になったいまでも、幼稚園つながり以外の、子供たちと同世代の近所の知り合いなどひとりもいない。

上の子の入園前のことだが、近所の大きめの幼稚園が閉園のため上の子の学年から新規入園を停止した。同じ頃にもう一つ別の近所の幼稚園は保育園に変わった。それ以外の園はプレからでないと入れないところばかりだったのを知らず、下の子妊娠・出産もあったためプレには行かなくてもいいやと思っていたら、入れる幼稚園がもうないことがわかり、結局幼稚園に入れるために引っ越したのだが、近所の同世代のつながりを作り幼稚園の情報収集のために少人数の習い事や幼児教室に行っておけばよかったとあとから思った。

そういうのに対して、「加熱する幼児教育ブームですが、早期教育には意味はありませんよ」などというのは意味がない。そこの先生以外に、子供の成長を継続的に見てくれてアドバイスしてくれる人はだれもいないのだ。就労して保育園に預けていれば保育士さんがその役目を果たしてくれるし、持病や発達の遅れがあれば専門家に継続的に見てもらうこともできるだろうが。

以前、「働かないママ」の味方はどこにいるのかという文章を書いたらはてブで一番スターが多かったのが「「働かないママ」という表現に違和感。「働くママ」からみても、専業ママの家事育児は立派な労働。こういう言い方で「働くママ」との無用な対立を煽る(以下略)」という意見で、ほかにも同趣旨の批判がtwitterなどでもあったと記憶している。

わたしは「働く」というのは一般的には賃労働をさすと思うし、だから賃労働をしていないという意味で自分を「働いていない」と定義してもべつにかまわないし、この文章の論旨とは違うところで言葉遣いで批判されて不本意だったのだが、以前の「無職の専業主婦」騒動の反応を見ていて納得がいった。ケア労働をしている子育て専業主婦を「無職」とか「働かない」とか呼ぶこと自体に、ものすごい反発を持つ人たちがいるのだ。

ブレイディみかこさんの『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』という本に以下のようにある。

日本の貧困者があんな風に、もはや一人前の人間ではなくなったかのように力なくぽっきりと折れてしまうのは、日本人の尊厳が、つまるところ「アフォードできること(支払い能力があること)」だからではないか。それは結局、欧州のように、「人間はみな生まれながらにして等しく厳かなものを持っており、それを冒されない権利を持っている」というヒューマニティの形を取ることはなかったのだ。「どんな人間も尊厳を(神から) 与えられている」というキリスト教的レトリックは日本人にはわかりづらい。
国民は義務を果たすことで権利を買うのであり、アフォード(税金を支払う能力がある) できなければ、権利は要求してはならず、そんなことをする人間は恥知らずだと判断される(このような社会では、国家は様々な権利を国民に販売する小売店ぐらいの役割しか果たさない)。例えば英国では「権利」といえば普通は国民の側にあるものを指し、「義務」は国家が持つものだが、日本ではその両方を持つのは国民で、国家と国民の役割分担がなされていない。
日本では「アフォードできない(支払い能力がない) 人々」には尊厳はない。何よりも 禍々しいのは、周囲の人々ではなく、「払えない」本人が誰より強くそう思っている

賃労働だけを「働いている」と定義すると「働かない」(ケア労働はしている)お母さんには社会の一員である人としての尊厳がなくなってしまうのだ。「賃労働とケア労働の両方をしているお母さんもケア労働だけしているお母さんもみんな同じく働いていてエラい!分断してはダメ!」と言わなければならないのだ。

子供を育てたって一円も得しないが(各種手当があっても出費の方が多い)、次世代を育てる大事な仕事なので、賃労働と同じく「働く」にカウントしましょう(杉田水脈風に言えば「生産性」があるし!)ということか。

ケア労働も「働く」と呼ぶことにしても別にいいと思うけど、その理由が「『働かない』人には尊厳がないから」ならば、その心理は怖い。

これもはてブを集めた 専業主婦じゃない無職の人妻は何と名乗ればいいのか問題 という文章があるが、私もメンタルやられて結婚し、もう大丈夫かなと思い子供を持つことを決意して出産するまで、けっこう長い間この人と同じ状態だった。特に結婚してまもないころはうつ状態で家事はまったくまともにできなかった。なにをどう考えても、言葉のあらゆる意味で働いてはいない。それでも人としての尊厳がないとは、どうか考えないでほしいと思う。誰かに訊かれたら専業主婦だと言っておけばいい。こんな厳しい世間に正直になる必要はない、テキトーにそれっぽい名乗りをしておけばいいのだ。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
171
子どもが寝ているあいだに書いています。ときどき考えをまとめて文章化したくなる病気のようです。

こちらでもピックアップされています

#育児 記事まとめ
#育児 記事まとめ
  • 870本

妊娠から出産、子育て、教育についてなど、noteに投稿された育児系の記事をまとめていきます。

コメント (3)
しばらく稼がない主夫してたので、いろいろ同感です。主夫してた身としては、こんなに多様性だの働き方改革だのいいながら、多くの人がフルタイムな会社勤めしてるほうが変だと思ってますし、稼がない選択もあっていい、と思います。
共働き兼業シュフ男性(パートナーも共働き兼業シュフ)です。
私は利害関係上は、
『フルタイム共働き兼業シュフs』のカテゴリーに入ってしまいますが、
主張に同感します。

自由にフルタイム賃金労働と、ノー賃金労働を行き来できるのが理想です。
本当に、資本家かフルタイム賃金労働者でないと人権なしというのはひどすぎます。
支払い能力がなくても、人権のある社会を私も望みます。
私の考えは、現状の婚姻制度自体が女性が決定権を諦める構造になっていると思います。キーワードは扶養。大事の決定権や経済といった主体性を責任委譲するかわりに、奥回りの世話役サービスを提供する。それが婚姻契約の主旨だとおもっています。扶養=主体的権限なし。そのかわり主婦になっとけば国の弱者として制度上優遇されます。遺族年金なるものもあるくらいw。ゆえにわたしは稼がない主婦でもぜんぜん声をあげていいと思います。そのかわり、いま甘受している弱者優遇は全部返上すればの話です。弱者としてのメリットも甘受したいけど社会的権限もほしいは矛盾していませんか。婚姻時に主体性を放棄した自覚はなかったのですか?どっちも欲しいというのはただの自称弱者ビジネスだとおもうんですがどうでしょう。主導権や主体性を持つということにはそれ相応の責任もつきまといますので、主婦の意見もきけー!という主張には条件付きでしか賛同することは正直できないです。脱扶養、弱者保護の優遇制度、返上できますか?しないでしょ?なんか矛盾してるなーっておもうんですよね。最近主婦のこういう主張多いんですが、矛盾が見えるからどうしてもクレクレに見えます
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。