移住者はパラグアイにどう貢献したのか〜地球の裏側の「日本」で学んだこと【パラグアイ🇵🇾】20/54ヶ国目 | 世界一周ふりかえり
世界一周を初めてちょうど半年ほど。
たどり着いたのは、地球の裏側にある「日本」だった。
19世紀末〜20世紀初頭にかけて始まった南米への日本人移住の歴史。
パラグアイも多くの日本人が移住した国の一つで、
今も日系の方が多く、日本人移住地が残っている。
今回滞在した首都のアスンシオンとイグアス移住地では、
日本人宿(民宿らぱちょとペンション園田)にお世話になり、
それはそれはもう、日本の田舎の夏休みというようなまったりゆっくりな時間を過ごさせていただいた。
3食日本食を食べ、日本語で会話し、漫画を読み、ほぼ一時帰国のような10日間だった。
◇首都アスンシオン:民宿らぱちょにて
アスンシオンに辿り着いた時、街並みをみて、どことなく東南アジアみを感じたのを覚えている。背の低く古びた四角い道端の商店に、ごちゃごちゃになったマーケット、モーターバイク。
なんとなく他の南米の国とは少し違う街の様子を感じ、懐かしいような気持ちになった。
訪れた2月はとにかく暑く、民宿らぱちょで扇風機の風を浴びながら、ダラダラと漫画を読んで時間を潰した。
夕方になると近所のアイスクリーム屋で安いアイスを買って食べ、夕飯はタクヤ弁当のカツ丼を頼み、目の前のスーパーでビールを買って、同じように長旅の疲れを日本人宿に癒しにきた日本人旅人と夜まで語らう。
後ろのテレビに流れるNHK番組を横目に、宿の犬のハナちゃんを愛でる。
せっかくの貴重な旅の時間を、と思うかもしれないが、
地球の裏側に、こうした時間が流れていることを体で感じながらゆっくりと過ごすのは、この上ない至福だった。
◇イグアス移住地:ペンション園田にて
イグアス移住地は、パラグアイの中で最も日本人移住者の多い移住地だ。
ペンション園田と、民宿小林という二つの日本人宿があり、どちらか一方に滞在する旅人もいれば、その2つを行き来きする人もいる。
どちらも、おにぎりが食べられたり、すき焼きを出してくれたり、おじいちゃんおばあちゃんの家に帰るような、日本の懐かしい空気が流れている。
さすが移住者の多い地だけあって、周辺には、とんかつやら冷やし中華やら焼き鳥やら、いろんな日本食料理や屋台がある。
農協と呼ばれるスーパーがあり、カルピスだったり、地元の方手作りの納豆やあんぱんなど、日本の品が勢揃いしていた。
野球場では2世や3世の若い人たちが練習に励んでいて、一緒にバッティングさせてもらったり、ペンション園田のオーナーの園田さんのパークゴルフについて行く人もいたり(私はついていかなかったが・・・)、とにかく日本の田舎の夏休みがそこにあった。
あまりに居心地が良くて長居していたら、ちょうど結婚一周年の記念日を迎えるタイミングになり、園田さんと娘さんのマキさん、旦那さんのジミーさんがアサド(南米式焼肉)パーティーを開いてくれて、ケーキまで用意してくれたりした。同じ期間にペン園に滞在していた旅人たちも祝ってくれて、本当に幸せな思い出になった。
◇移住した日本人がパラグアイに与えた影響
今はこうして旅人に癒しを与える空間を提供しながらゆっくりとした時間を過ごしている園田さんはじめ日本人移住1世の皆さんだが、移住してきた当初は、相当過酷な時代だったという。
60年ほど前、鹿児島の農家の子供だった園田さん(当時12歳)はお兄さんたちと共に、神戸から船で1ヶ月半ほどかけて南米大陸に渡った。
当時の謳い文句は「パラグアイの土地は良くて広い。30年間無肥料で農業ができる」といったもので、それに乗って高知、岩手、北海道などの農家から多くの人が移り住んだ。
しかしどうだろう、実はパラグアイは東側は肥沃な土地である一方、国土の西側6割は乾燥したサバンナのような地帯で、全く農業に向いていない。
移住者たちは、良い土地が与えられるわけでもなく、原生林をゼロから開墾していくところからスタートしなければならなかったそうだ。
病気になったりもするし、過酷な環境下で、なんとか皆助け合って農作物を育てていった。
その中でも、日本人が大きな功績を残したのが大豆の栽培。
現在パラグアイの大豆輸出量は過去世界第4位(2022年時点では6位)になるほど主要な産業になっているが、日本人が不耕起栽培という農業技術を持ち込んだ結果、ここまでパラグアイの大豆産業に貢献することになったという。
ペンション園田のオーナー園田さんは、日本人移住資料館を設立し自身で館長を務めていて、イグアス移住地に訪れるとその資料館で園田さんから直接移住の歴史を教えてもらうことができる。
最初は圧倒されながら聞いていたれど、段々と、この方すごすぎるな・・・というか、一つの時代を作った人であり、今こうしてその歴史を伝えて、70歳を超えた今でも、日本人移住者コミュニティとパラグアイ政府に対して貢献をしつづけているその生き様が、ものすごくかっこよく感じられた。
◇パラグアイ独自の文化、国の特徴
ここまで、パラグアイにおける日本的な要素ばかり振り返ってきたが、もちろんパラグアイの特徴や魅力はそれだけではない。
一番印象に残っていることとしては、「マテ茶ポット持参」文化。笑
パラグアイでは、マテ茶をみんな飲むのだが、パラグアイ人は街中で、大きなポットを持ち歩いている。
日本で麦茶がペットボトルで売ってるとか、水筒に入れてるとか、そういう感じではなく、大きなマイポットと、マイマテ茶カップとストローを、カバンのように持って歩いているのだ。
機能性軽量化に優れた水筒などが存在するこの時代に、家のポットサイズのものを持ち歩いているのが個人的にツボすぎて、とても記憶に残っている。
ポットには冷たい水だけ入っていて、茶葉をマイカップに入れて漉して飲むのが、マテ茶を楽しむベストウェイなようで。
お店屋さんにも、デザインの可愛いポットとカップが売っていて、私も欲しくなった。
もう一つパラグアイの特徴としては、実は国内の電力の100%を水力発電でまかなっているというということ。
パラグアイとブラジルの国境にはイタイプダムという世界第二位の水力発電用ダムがあり、その電力は2カ国で半分ずつ分け合っているが、パラグアイはその全てを国内で使い切らないので、余った電力をブラジルに輸出しているという。
アスンシオンに降り立った時東南アジアのようだったと前述したとおり、パラグアイの街並みは発展しているとはいえないようなレベル感で、整っていない部分が多い。
しかしこのイタイプダムの敷地内だけは驚くほどに綺麗に整備されており、さぞ潤っているのだろうなと感じられる様相であった。
パラグアイは、1989年まで長く独裁政権だった。民主化へ動き出したのは最近であるため、まだまだ不安定な部分が多く、腐敗・汚職もあるという。
大規模な水力発電で輸出できるほど電力を確保できているのにも関わらず、イグアス移住地では大雨が降ると毎晩停電になった。インフラがちゃんとしていないことを物語っている。
水力発電所の利益は一体どこにいってしまっているのか・・・。国家の不安定さや闇深さは、こういうところから感じられたりする。
◇日本とパラグアイの約100年間に何が見えるか
パラグアイ移住が始まったのは1936年。その後第二次世界大戦後の混乱の中も、服役軍人などの余剰人口に対して仕事の量が枯渇していた日本は、国外移住を押し進め、パラグアイへも多くの日本人が再び移り住んだ。
しかし、その後日本に高度経済成長期が訪れ、移住者はめっきり減った。
その後60年程の月日が過ぎる間に、民主主義の定着と資本主義的成長の波に乗った日本と、権威主義的統治を経て不安定な政権が続くパラグアイに二分したとも捉えられる。
当時移住した人や2世の人などは、その様子をどのように見て、どのように感じてきたのだろうか。
移住に縁もなく日本に生まれ育った側からすると、一見、日本の安定を誇らしく思うかもしれない。
しかし実はパラグアイで大豆農家をしている移住者の稼ぎは、日本で会社員をやっていても辿り着けないほどすごいらしい。
そう聞くと、見方・感じ方が変わったりもするのではないだろうか。
私がこれらの話を聞いて感じたことは、日本であろうとパラグアイであろうと、苦難の時をなんとか努力をして、汗水垂らして、今の状況まで築き上げてくれた人がいることには変わりは無いということだ。
戦後〜高度経済成長を支えた日本の労働者も、原生林を開墾して大豆産業を牽引したパラグアイの移住者も、彼らの努力があって、それぞれの今がある。
地球の裏側の「日本」で、大きな学びを得た、束の間の”夏休み”だった。
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