
「レッテル貼り」という近道を利用する
すぐにレッテル貼りする人をどう思うだろうか?
それは「浅はか」であったり、「一面的」であったり、悪い場合は「差別的」であるかもしれない。
だけど僕は社会人になりたての頃、そのレッテル貼りを早くして欲しかった。「あいつはああだから笑」と言われてしまうことを、自ら望んでいた。そして、そうなるように働きかける努力をし続けたのだった。
元々の発端は、学生の頃の恩師の言葉に遡る。
その時、広告制作会社にデザイナーとして就職が決まっていた僕は、先生と話している時につい不安を口にしてしまったのだった。
「あの会社に行って、僕のやりたいことはできるでしょうか..?」
当時の僕はとにかく良いグラフィックデザインを作りたくて、実は広告にはさほど興味を持っていなかったのだけれど(美大の広告系の授業もほとんど取っていなかった)、ストレートなグラフィックデザイン表現ができるポスターを作る仕事がしたかった。そしてそんなポスターを作ることができる業界が広告以外に思いつかなかったために、とりあえず広告代理店や広告会社を、募集が出た順番に受けていた。
つまりは、良いグラフィックを作るための勉強や実践経験が、その会社で積めるかどうかが気がかりだったのだ。
その時に先生はハッキリ仰った。
「電通に行こうが博報堂に行こうが、やりたいことなんてできないんです。やりたいことは、やるんです」と。
それで目が覚めた。
僕は知らず知らずのうちに、環境に依存しようとしていたのかもしれない。結局はどこに行こうが、やりたいことがすんなり通る環境などないのに。自分が何者であるかは、自分で証明していくしかない。
当時、別の某教授が「社会でお前たちが何者であるかを決めるのは、自分じゃない、他人だ。いくら自分はデザイナーだと言い張ったとしても、イラストの依頼しか来なければそいつはイラストレーターなんだ」と言ってたことに対して、僕は(自分が何者かくらい自分で決めさせてくれ..!)と反発心を持っていたことも付け加えておく。
社会に出てまず決心したことは、「どんなに言われても、自分が本当に良いと思うグラフィック案を必ず滑り込ませる」ということだった。それがクライアントの意向に沿っていなくても、荒唐無稽と笑われてもいい。自分が良いと思っていればそれでOKとした。そうでなければこの仕事をする意味がない。
自分はデザイナーになりたいがためにデザイナーとして就職したのではない。やりたいことをやるためにデザイナーになったのだ。それは目的ではなく、手段でしかない。
そうやって作り続ければ、「あいつはそういうものを作るやつだ」とレッテルを貼られるに違いない。それは、何よりも強い自己紹介ツールだ。
そういうわけで、当初は実力不足だったり、時には先輩にも笑われたりしながらも、確実に案を積み重ねた。そのうちに、なんだかあいつはグラフィックデザインが好きそうだ。という印象になっていったに違いない。
ある日の仕事中、デザインの部門長に声をかけられた。
「お前の案は、無難なクライアントには採用されにくかったりするけど、デザイナーからすると良いものを作ってる。今度のロゴコンペ、お前には指示をしないから感覚的に良いと思う案を作ってきてくれ」と。
この判断が会社的にいいかどうかは知らない笑
だが僕はこの時、部門長に感謝をしたし、心の中で小さくガッツポーズをした。コツコツとちゃんと作ってきた「C案」がやっと日の目を見たような気がして。
そしてそれからは、なんとなくビジュアルを作る仕事を任せてもらうことも多くなってきた。(ほどなくして、一人でもやれる自信をつけて辞めてしまうのだけれど 笑)
あの頃は反発もしたが、社会に出て冷静に考えると、某教授が言っていたことも間違ってはいないと思う。「自分が何者であるか決めるのは、他人である」と。でも、その他人を動かすのは、紛れもなく自分の日々の意思と行動であると、僕は信じている。
社会とは満員電車のようで、油断してるとつい人混みに押し込まれて身動きが取れなくなってしまう。
だから、常に肩肘を張ってパーソナルスペースを作る努力をし続けなければならない。目まぐるしく移り変わる人々の中でそれを繰り返しているうちに、そのスペースが自分の居場所になる。そういった絶え間のない「主張」が、自分の内外から、自分を作る。
十把一絡げになって戸棚に並んでしまうのならば、ちょっと頑張ってみて、ラベルを貼られてみてはどうだろう?
レッテル貼りは、素早く自分を知ってもらうための近道だ。
「あいつはこういうやつ」、それが知れ渡ると「そういうやつを探していたんだ」という人間と、必ず出会えるものだ。
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