自ら考ふることに就いて #002

 ショーペンハウエル論文集(佐久間政一訳)より

 それ故に多く読むと、精神の弾力性がなくなるのは、永く重いもので圧しつけて置くと、発条の弾力が失はれると同一である。されば自由な時間さへあれば、いつでも直ちに書物を手にするのは、自己の思想を持たざるための最も適確な方法である。博識多読が、大抵の人を、その天性以上に愚鈍蒙昧ならしめ、その著述を全くの不成功ならしめる理由は、まさしく上述の方法を実行したからである。彼等は既にボープの云つた通り「いつも、読まれるためでなく、読むために」(Dunciad III 194)(自分のものが人によまれることはなく、自分は人の書を読んでばかりゐる義―訳者註)居るのである。

 学者とは、書物を読んだ人々のことで、思想家や天才や、世界の啓発者や人類の恩人は、直接に世界といふ書物を読んだ人達である。

 三

 実際、真理と生命とを有するのは、自分自身の根本思想だけである。何となれば、人が真に而して全く理解し得るのは、自己の根本思想のみだからである。われらの読んだ他人の思想は、他人の食物の残滓であり、知らない客の脱ぎ棄てた衣である。

 読んで知つた他人の思想と、われらの心のうちに浮び来つた自己の思想との関係は、石に残つた前世界の植物の印象が、春の花咲く植物に対するのと同じである。

 四

 読書は単に自己の思索の代用物たるにすぎない。読書に当つては、人は自分の思想が、他人によつて、引縄(往時幼児に歩行を教へるために用ひし縄)で導かれることを許すのである。且また多くの書籍の効能は、世にいかに多くの邪路があるかを示し、軽々しく書物に誘導されると、いかに著しく迷ふかを教へるにとどまる。然し彼の守護神によつて導かれるもの、――即ち自ら自由に且正当に思考する人は、正道を発見すべき磁針儀をもつのである。――それ故に人は、自己の思想の泉の停滞した時のみ、読書するやうにしなければならぬ。思想の流れの停滞する事は、実際最良の頭脳に於ても、十分屡々在る事である。之に反して書籍を手にせんがために、自己の思想を逐ひ払ふのは、聖霊に対する罪悪である。この場合かくの如き人は、乾醋植物標本を見るために、或は銅版彫刻の美しい風景を眺める為に、自由な自然から逃遁する輩に酷似する。

 往々人は、自分の思索と思想の聯結とによつて、非常に骨を折り且長い時を費して考へ出した或真理又は見解が、或書を開けば、既にちやんと出来てゐるのを、容易く見つけ得たであらうやうなものたる事が折々あるが、さう云ふ場合でも、該真理又は見解は、自分の思索で得たものであるから、その価値は百倍である。

 ・・・#003へ続く

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