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【掌編小説】not eternity

 廃線を歩いていた。
 わたしの少し前には、女の子が歩いている。わたしより随分年下のようにも、年上のようにも見えたけれど、そもそも自分がいくつで、一体何という名前なのかも思い出せないことにすぐに気付いた。そういえば、何にもわからない。ここがどこで、自分が誰で、彼女が誰で、わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。
 廃線はまっすぐに続いている。空を見上げると青く、微かに波打っているように見えた。
 波?
 目を凝らす。空だと思っていたものが、水であることにそこで気付いた。息を吐くと泡が浮かんでいく。
「ねえ」
 わたしは前を行く少女に声をかけた。
「水の中だわ」
 彼女は振り返ると、「そうね」と言った。その言葉が何かの合図であるように、わたしたちの周りを何匹もの魚が通り過ぎていく。どれも皆、見たことのないような姿をしていた。驚くほどに巨大な魚もいる。いかにもどう猛そうな顎を持った魚と目が合った。わたしがおののいて立ち止まっていると、
「ダンクルオステウス」
 と少女が呟く。魚はちらと少女の方を見ると、そのまま泳ぎ去っていった。
「今のは呪文?」
「いいえ、名前よ」
 魚の名前。今はもうどこにもいない魚に与えられた名前、と彼女は続けた。
「ねえ、これからどこへ行くの?」
 わたしは尋ねる。尋ねるべきことは別にあるような気がしたのだけれど、口をついて出たのはそんな質問だった。
「この線路の終わり」
 彼女は穏やかな表情をわたしに向ける。
 髪の長い女の子だった。不健康そうに見えるのは色白で痩せすぎているからだろうと思う。でも、早足でどんどん歩いていくので身体は丈夫なのかもしれない。美人とは言い難い顔つきをしている。目が細くて糸みたいだ。
 わたしは彼女のことをとてもよく知っている気がしたけれど、一体どこで会ったのか思い出せない。
「わたしたち、どこかで会ったことある?」
 先を行く背中に尋ねた。彼女はこちらを見て、少し難しそうな顔をした。「会ったこと、ねえ」とその言葉の意味を考えるように視線を泳がせてから、
「多分、会ったのはこれが初めてだと思う」
 と含みのある言い方をした。そのあとに何か言葉が続くかと思って待っていたけれど、彼女は何も言わなかったから、わたしもそれ以上は何も尋ねなかった。
 わたしたちを追い抜くように泳ぐ魚たちに目を向けると、だんだんとその姿が変わっていくことに気付く。ヒレだった部分は足になり、次第に四足歩行する生物へと変化した。わたしは目を見開いてそれを眺めていた。水の中に伸びていると思っていた廃線はいつの間にか陸に上がっていて、空は当たり前のように青く、白い雲が浮かんでいる。目の前には鬱蒼とした木々が生い茂り、伸びゆく線路はあまりにミスマッチに見えた。
 わたしの隣を、大きな爬虫類が歩いていく。わたしには目もくれずに草を食んで満足げに瞬きをした。
「それはディアデクテス」
 彼女は言う。
「もう気付いているかもしれないけれど、遠い昔に絶滅した生き物の名前よ」
 わたしは頷いた。何となく感づいてはいたのだ。さっきの魚も、この大きなトカゲも、大昔にこの星に生息していた生物なのだろうということに。
 魚に足が生えて、陸に上がる。
 この線路は、進化の過程を辿るようにできているのだろう。
「でも、なんで?」
 わたしは顔を上げる。
「なんでわたしたちは、ここにいるの?」
 現状がなんとなく理解できても、ここへ至った経緯はわからない。ここに来るまでの記憶が、わたしには一切ない。
「あなたはね、これから生まれるの」
 彼女は淡々とした口調で言った。
「生まれる?」
「そう。ここはね、新しい命が通るための道。わたしはその案内人。この線路の終点で、あなたは世界に生み落とされる」
 行きましょう、と彼女は笑った。わたしは頷く。彼女の言葉の意味がきちんと理解できたわけではないけれど、今わたしがあてにできるのは彼女だけだったし、いずれにしても先に進むしかなかったからだ。

 歩いていく先々で、様々な生き物を見かけた。大きな肉食恐竜が草食恐竜を食らい、信じられないほど大きな昆虫が群れを成して飛んでいくのを見送った。木陰で少し休むと、
「その木の名前はニルソニア」
 と彼女が名前を教えてくれた。そばの木陰にいた生き物が出産したばかりの赤ん坊を舐めているのが見えた。名前はエオマイアというらしかった。
「エオマイアは、一番はじめの有胎盤哺乳類」
 彼女はネズミのような姿をした生き物の赤ん坊を見て微笑む。
「ここから、わたしたち哺乳類の歴史は始まった」
 あたりは、見たことのない植物と生物で満ちている。彼らはわたしたちが見えているのかいないのか、こちらには全く興味を示さずに思い思いの行動をしている。穏やかなものもどう猛なものもいる。小さなものも、大きなものも。
 わたしは空を見上げる。巨大な鳥が飛び立つ姿が見える。あの鳥は? と聞くと、
「アーケオプテリクス」
 と彼女は答える。
 いつの間にか、あたりに恐竜の姿はもう一匹も見えなかった。ああ、絶滅してしまったのだなと悟った。この世界は彼らのものだったのに、もうどこにもいないことを不思議に思う。巨大な生物たちを失った空は、少し、高くなったような気がした。
 恐竜たちがいなくなった代わりに、たくさんの哺乳類が姿を現す。四足歩行の生き物たち、空を行く鳥。何かがいなくなっても、世界は続いていく。
「あの動物の名前はね――」
 彼女からたくさんの生き物の名前を聞いたけれど、不思議なことにわたしはその名前を順番に忘れていく。世界ではじめに自分のお腹から子供を産んだネズミのような生き物の名前を、わたしはあっという間に忘れてしまった。何度か彼女に、あの生き物の名前は何だっけ、と尋ねたはずなのに、しばらくすると思い出せなくなる。新しく聞く名前に上書きされて、古い名前は記憶から消されていく。
 四つ足の牛のような生き物が海の方へまっすぐ歩いていくのとすれ違い、わたしは立ち止まった。夕焼けの沈む方へ消えていく動物を眺めていると、彼女は細い目をさらに細めて、
「あれは、海に帰るところ」
 と言った。
「海に帰る?」
「そう。みんな海から来たけれど、陸から海へ帰っていったものもいるの。形を変えて」
 わたしはしばらく四つの足を持ったやわらかそうな生き物の背中を見ていた。彼は、彼のままでは海で生きていけないのだろう。消えていくのだ、あの姿の彼は。あの生き物の名前も、もちろん聞いたはずだ。でも、どこにも残っていない。
「進化をどう思う?」
 彼女はわたしに問いかけた。わたしは首を傾げる。
「どうって?」
「みんな、本当に変わりたかったのかしら」
 わたしはその問いかけに、上手く答えることができなかった。海へ帰っていくあの生き物は、陸で生きることの何が辛かったのだろうと思った。陸にいたことを、きっと彼は二度と思い出さないのだろう。その記憶は忘れられていくのだろう。わたしが彼の名前を忘れたように。その善し悪しを、わたしが判断することはできない。
 ただ、思い出せなくなることを、寂しいとわたしは思う。

 しばらく歩いていくと、いよいよ人の姿が見え始めた。彼らは二足歩行をし、道具を使い、火を扱った。絵を描き、会話を交わし、建物を建築する。めまぐるしい速度で、歴史は進んでいく。戦争でたくさんの血が流れる様子を、わたしはやけに冷静に眺めていた。見た先から、忘れていくからだ。苦しみも悲しみも。
 忘却は救いだろうか。
 わたしは彼女に尋ねようとしてやめた。目の前で、小さな女の子が死んだのだ。
 まだ十分に発達していない文明に、わたしの歩いていく線路は相変わらず場違いだった。いつか、この線路に電車が通っていたことはあるのだろうかとふと思う。なんとなく、この線路は生まれたときから廃線だったのではないかと想像した。理由は解らないけれど、本来の役割を知らないままずっとここにあったんじゃないだろうか。生まれていないものは、忘れられることもない。今のわたしみたいに。
「エントロピーという概念を知ってる?」
 不意に彼女が尋ねる。わたしは首を振った。エントロピー。聞き慣れない言葉だ。
「例えば熱いお湯に氷を投げ入れたら、氷は溶けてお湯の温度は少し下がるでしょう。でも、その反対はあり得ない。ぬるま湯は氷と熱湯に戻れない。これを、エントロピーの増加というの」
 わたしは頷く。彼女は歌うように続けた。
「そうやって、世界は溶け合って乱雑な方へ進んでいく。生まれたものは必ず死に、塵と化し、さいごに残るのは、何もない世界。すべてが飽和した世界。そこへ向かうことがね、時間が進むってことなんだって、誰かが言っていたわ」
 彼女の隣に立った。彼女はゆっくりと瞬きをした。
「何かを忘れるときに、エントロピーは増加するんですって」
 そう続ける。わたしは、一度だけ後ろを振り返った。そこにあった出来事を、一瞬前に見ていた誰かの表情を、瞬間的に忘れていく。
「忘れることが、世界を前に進める」
 行きましょう、と彼女はわたしの手を取った。その手は、驚くほどに冷たかった。

 いくつもの国と、人と、血のにおいと、文明を通り抜けて、線路がさいごに行き着いたのは、何もない場所だった。あれだけ華やかで賑やかだった世界はだだっ広い空白に満たされ、無ばかりがひしめきあっている。何の音も聞こえない。わたしはすべてを通り抜けて、そして、何も思い出せなくなっていた。今まで何を見て、何を聞いて、何を感じてきたのだろう。
「ここから先は、あなたの世界」
 彼女は言った。わたしは、向かい合うようにして彼女の目の前に立つ。
「お別れね」
 と言った彼女の小さな瞳に、自分の姿を見た。そこに映っていたのは、髪の長い女の子だった。不健康そうな、色白で痩せすぎた体躯。美人とは言い難い顔つきをしている。目が細くて糸みたいだ。
 彼女と全く同じ姿が、そこに映っている。わたしは自分の両手を見下ろした。
「わたしはね、一つ前の世界のあなた」
 彼女は言う。なぜ気付かなかったのだろう。彼女の声は、わたしの声そのものだということに。
「あなたの新しい世界が、幸せでありますように。さようなら、わたし」
 彼女は言った。まばゆい光が、辺りを包む。
 みんな本当に変わりたかったのかしらと言った、彼女の言葉だけが不意に思い出された。
 姿を変えて、すべてを忘れて、いずれ終わりゆく世界で生きることを、彼女はどう思っていたのだろう。その答えは、いずれ出るのだろうか。
 そう思ったことも、わたしはきっと忘れてしまう。
 前へ、進まなければならないから。




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