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【掌編小説】晩秋のサクラ

 こたつに足を入れるとき、一度中を確認する癖が抜けない。冬になると飼っていた猫がこたつの中で、端から端まで体を伸ばして眠っていることが多かったからだ。猫がこたつで丸くなっていることなんてほとんどなくて、大体どこから足を入れても「ここはわたしの寝床だ」というように噛みつかれた。だから、いつも細心の注意を払って、彼女の邪魔にならないように暖を取らなければならなかった。
 猫は今年の春に死んだから、もうこたつに入ることをためらう必要はない。しかしわたしは今も、一度こたつ布団をめくってしまう。染みついた習性というものは、なかなか消えないものだ。そしてその習性が、生活に馴染んだはずの不在を浮き彫りにしてしまうこともある。
 わたしはこたつの中に足を伸ばしながら、窓の外に見える、庭の桜の木に視線を移した。
 庭はすっかり寂しい冬の様相で、あの木を一目見ただけでは桜だとわからない。あの根本に、猫のサクラは埋まっている。
 サクラがわたしの家にやってきたのは、庭の桜が満開の季節で、だからサクラという名前をつけた。蜂蜜のような黄色い眼をした茶トラのメス猫で、母や父にはよく懐いたのに、わたしはどうも舐められているようだった。当時五歳だったわたしは子猫のサクラがとにかく可愛いかったが、サクラは全然わたしに興味がなかった。撫でても憮然とした表情でわたしの手の届かない場所へ去っていく。ただ、わたしが悲しいときと寂しいときだけ、彼女はわたしの隣にきて、蜂蜜のような瞳でわたしの顔を覗き込んだ。そんな関係性はひとつも変わらず、わたしが二十歳になるまで続いた。
 サクラがこの家を去ったのも、庭の桜が満開の季節だった。
 火葬した骨を埋める日、空は驚くほどの晴天で、桜の花びらが空いっぱいに舞い上がるのを、わたしはぼんやりと見上げていた。サクラを看取って火葬が終わったからといって心の整理がつくはずもなく、もう彼女の、蜂蜜を溶かしたような美しい瞳を見ることができないことに、やわらかな毛並みを撫でることができないことに、永遠に埋まらない空白がわたしの中にできてしまったことに、呆然としていた。青い空を、あんなに晴れ渡った空を見て、悲しいと思ったのはあれがはじめてだった。

 こたつに寝そべって追想にふけっていると、ふいに冷たい風が吹き込んでくるのを感じた。わたしは窓の方に目をやる。閉め切っていたはずなのに、少し隙間が空いていた。怪訝に思いながら、のろのろとこたつから這い出て立ち上がり、窓を閉めようと手を伸ばす。
 そのとき、一際強い風が吹き込んできた。わたしは目を細める。不思議と、冷たさや寒さは感じなかった。まるで春先の東風のような風だ。ゆっくりと目を開けると、目の前に花びらが舞うのが見えた。桜の花びらの形だが、それは薄桃色ではなく、まるで宝石のような、蜂蜜の色をしていた。
 わたしは顔を上げ、目を見開く。
 目の前の桜の木は蜂蜜色の花を満開に咲かせていた。風がやわらかくわたしの頬を撫でていく。サクラがわたしの顔を覗き込んだ、あのときの気持ちが蘇る。
「……そこにいるんだね」
 わたしは呟いた。応えるように、蜂蜜色の花びらが晩秋の空に舞った。

 気がつくと、わたしはこたつの中で眠っていた。蜂蜜色の花びらが一枚でも残っていないかと探したが、見つかるはずもなく、わたしは良い夢を見たなと思って少し笑った。立ち上がって窓を開ける。庭には、サクラが眠る桜の木が、静かに佇んでいる。


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