灰猫のクオリア

「きみは灰猫。曇り空に似た灰猫だ」

 わたしは落とした視線を、思い切って上げてみる。
 あれからずっと、晴れ間は見えない。
 今にも雨が降り出しそうな、重い灰色が広がっていた。

    *

 ぱっとしない天気が続いている。ここしばらく太陽を見ていない。今日も見上げる限り分厚い雲が垂れ込めている。
 大学の構内を、あなたと並んで歩く。左隣のあなたは、ぼんやりと眠そうな目をしている。生ぬるい風に遊ばれるやわらかい髪と、白い肌。しなやかな指先。わたしはその指を掴もうとして手を伸ばしかけ、少しためらってから、やめる。
 行き場をなくした手を後ろで組んで、ねえ、と笑う。なに、と柔らかく笑ってあなたは応える。
「ねえ、あの人は?」
 わたしが示した先には、一眼レフカメラを構える学生がいる。わたしの問いに、あなたは目を凝らし、
「黒ぶち。牛みたいなやつ」
 と言う。わたしは笑い、あたりを見渡す。
「あそこにいる人は?」
「キジトラ」
「今すれ違った人はは?」
「ミケ」
「あっちの人」
「ミケ」
「……じゃあ、あの子は?」
「ミケ」
「女の子ミケばっかりじゃない」
「ミケの九割はメスって言うし」
 あなたは朗らかにそう言う。それ関係あるかなあ、とわたしは首を傾げる。次の誰かを探すわたしより先に、あなたは目の前を過ぎさった影を指す。
「今のは茶トラ」
「それは猫だよ」
 わたしが苦笑すると、あなたはそうかあ、と変わらず笑って、空を仰いだ。
「晴れないね」
 わたしも彼に倣った。
 そうだね、と応えるあなたは、垂れ込めた空を、まるで晴天を見上げるように眩しそうに眺める。

 あなたは、人と猫の区別がつかない。

 教授と猫を見間違えたり、全く違う顔立ちの二人の顔を「柄が似ているから」とか言って見間違える。わたしの頭を撫で、あごの下に触れる手は、あなたが大学に住み着いた野良猫に触れる時の手と全く同じだ。
「違いはひとつ。言葉が、通じるかどうか」
 あなたの猫と人の見分け方はいたってシンプルだ。
「通じない方が本物の猫なんだね」
「そういうことだね」
 並んで話すわたしたちの側に、野良猫が寄ってくる。にゃーん、と猫はあなたにすり寄り、あなたはよしよしと笑って、その喉を撫でる。
 周りの人間がみんな猫に見えるという感覚は、わたしにはよくわからない。わたしはこうして、あなたに会うときは早起きして髪を巻いてみたり、お気に入りのワンピースを着てみたりするのだけど、きっとあなたの目には、そんなものは映っていない。
 あなたは人間としてのわたしの顔なんて知らない。
 自分のとなりを並んで歩く、灰色の猫。それが、あなたにとってのわたし。
「自分は? 自分はどう見えてるの?」
 わたしははたと思い立って尋ねる。あなたはすこしぼんやりしてから、
「猫ではない」
 と言った。自分の両手を開いて見つめ、それからわたしの頭を少し撫でた。

「たぶん、きみがみているのと同じ僕だ」

 軽い口調だった。それでもわたしは目を見開く。
 想像してみる。わたしは人間の姿のまま、周りの人間がみんな猫になってる世界を。
 それは、つまり、
「あなたはひとりぼっちということ?」
 わたしの問いに、あなたは涼しい声で「そうかもね」と言った。足もとの野良猫はごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らす。あなたは優しい目で、猫を見ている。
「僕は、みんなと自分は違う生き物だと思っているよ」
 一瞬だけこちらを見た、あなたの表情は穏やかだった。
 わたしは、わたしの手のひらを見下ろす。大きさが違っても、少し形が違っても、あなたの手とわたしの手は同じものに見える。合わせれば重なるだろう。五本の指を組むことだってできるだろう。でも、あなたには伝わらない。
「さみしくないの」
 わたしはそっと自分の手を握りしめて尋ねる。
「猫は好きだ。あたたかくてやわらかい」
「そうじゃなくて」
「それでいい」
 あなたは目を細める。満足したように、野良猫が去って行く。その後姿を見送りながら、
「それで、じゅうぶんだよ」
 あなたは、言い聞かせるように呟く。

    *

 想像することと、理解することは全く違う。
 知った気になることさえできず、わたしはいつも途方に暮れる。手を伸ばそうとして、諦めるのだ。こんな、何の役にも立たない手をあなたに伸ばして、いったい何の意味があるというのか。わたしに何が、できるというのか。

「あなたの世界がどうなっているのか、わからないのがわたしは苦しい」

 時々そんなことを、あなたに言ってみたりする。ベンチに座って、あなたはわたしの喉を撫でる。喉を鳴らすことさえ、わたしには能わない。あなたは穏やかに笑って言う。

「僕は別に、誰にわかってもらえなくてもいいよ」

 あなたの応えは、いつも同じだ。
 それがわたしは、いちばん苦しい。
 わかってもらえなくていい、という言葉は、深くわたしを突き刺すのだ。
 あなたはそんなに優しい顔で、こんなに痛いことを言う。
「そんなの、さみしいでしょう?」
 あなたはただ笑うだけだ。それを見て、わたしは泣く。
「曇り空から雨が降るみたいだ」
 なんて、あなたは呑気なことを言う。

   *

 わたしがあなたの世界の、たったひとりの人間だったら、と時々考える。
 わたしはあなたのさみしさに、寄り添うことはできただろうか。

 いや、それは、違う。

 そうなって満たされたいのは結局わたしだ。
 特別になって、ただ必要とされたいだけだ。
 たとえ、あなたにとってわたしが人間だったとして、それでもわたしは何もわからないだろう。あなたの目で、世界を見ることはできないのだから。
 「わかってもらえなくていい」と、あなたはやっぱり笑うのだろう。そしてわたしは、この手を伸ばせないままなのだろう。

    *

 猫しかいないあなたの世界は、ある日突然終わってしまった。
 子猫をかばって、車にはねられた。それきりだった。
 「猫をかばうなんて」と囁く人もいたが、あなたをよく知る人はみんな、目を伏せるばかりだ。

――きみは灰猫。曇り空に似た灰猫だ。

 わたしは落とした視線を、思い切って上げてみる。
 あれからずっと、晴れ間は見えない。
 今にも雨が降り出しそうな、重い灰色が広がっていた。

 わたしと重なりあっていた灰色の猫も、あなたと一緒に消えてしまった。自分の一部が消えてしまったような気がした。見えない世界だったはずなのに。わからなかったはずなのに。どうしてこんなに、痛いのだろう。
 今になって、思うことがある。

――違いはひとつ。言葉が、通じるかどうか。

 あなたに灰猫の目の色を、聞いておけばよかった。
 わたしがどんな色の目で、あなたを見てたのか、聞いておけばよかった。
 わからない世界を、わからないまま、大事に思えたらよかった。
 あなたにはこの曇り空が、どんな風に見えるのか聞いておけばよかった。
 あなたの話を聞いて、あなたのことが好きだと、言えばよかった。

 伸ばせなかった無意味な両手をわたしは握りしめる。
 見上げる空からは溢れるように、大粒の雨が降り始めた。


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