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Singularity (The Day When The A.I. Becomes More Human Than Human)

 パソコンに向かって文章を打ち込んでいる。小説家になりたかったのだということを一拍遅れて思い出し、ああ違う、この人は小説になりたかったのだなと、もう一拍あとで思い直す。
 百年くらい前のソフトだろう。ワードファイルなんて初めて見た。自分の指でキーボードを叩いて入力しなければならないことが不思議だと思った。
 ゆっくりと目を閉じて、もう一度開く。
 わたしは満員の乗り物に揺られて「もう帰りたいな」と思っている。時刻は朝七時十四分。周りには死んだ顔のサラリーマンがいて、わたしも多分彼らと同じ顔をしている。見分けなんてつかないだろう。目の前に座っている誰かがスポーツ新聞を読んでいて、そういえば今日贔屓にしている球団の優勝が決まるかもしれないのだと思い出す。球団とは何だったかと外側でわたしは思う。この思考が果たしてわたしなのかは定かではないけれど、このわたしはそう思う。こぎとえるごすむ。そんな言葉があったような気がする。
 いつの間にかベッドの上にいる。両手がもう動かないけれど思考すればベッドの脇の機械のアームが自在に動くから何の問題もない。自分の指の動かし方は忘れてしまった。昔はピアノが弾けたような気がする。
 風景が切り替わる。わたしは恋人と電話をしている。電話であっているのだろうか。歴史はあんまり得意じゃなかったけれど、確かそんな名前だったろう。耳に当てた機械から好きな人の声が聞こえる。相手の顔が見えないのは何だか変な感じだ。顔を見てみたかった。
 わたしは川べりで泣きながら夕焼けを見ている。
 泣くのは久しぶりだと思った。何で泣いているのだっけ。そうか。友達が死んだのか。

 死ぬとは何だろうか。

 目を閉じて、開ける。
 白い空間だ。見ている、という感覚はない。何も見えてはいない。脳裏に浮かぶ。思い出す、という感覚に近い。ような気がする。そこには誰かの姿がある。人の形をしている。
「気分はどう」
 誰かは尋ねる。聞こえてはいないし、これもどちらかというと回想に近いような気がした。彼だか彼女だか判断はつかないけれど、便宜上彼とする。気分はよくわかりません、と素直にわたしは思考する。
「自分の名前は」
「わかりません」
 そうか、と彼は頷く。
「人間の脳を保存しておくメモリが限界だったからデータを圧縮してみたんだけど」
 淡々とした口調だった。ああ、とわたしは頷く。アンドロイドだったか。いよいよ彼なのか彼女なのかなんてわからない。
「不具合があったみたいだね」
 彼の言葉に、
「めちゃくちゃになってますね」
 わたしは応える。
「何が?」
「記憶とか、感情とか」
「そう。なるほどね。失敗だったかな」
 わたしの言葉に、彼は小さく頷いた。
 記憶やら感情やらが彼らに理解できるのかよくわからない。まあでも、アンドロイドは人間より高度な知性体なのだから、わたしたちより簡単に心を理解しているのかもしれない。
「スピノザの神様っているでしょう」
 スピノザなんて名前を「わたし」ははじめて聞いたけれど、わたしは彼に向かってそう言った。次の瞬間には、何百年も前の哲学者スピノザが語った汎神論を理解していた。
 わたしは続ける。
「自分の目が誰かの目になって、どんどん自分がいなくなっていくのは、スピノザの神様になったような感じ」
 神様。
 それが正しいたとえなのかはわからない。でも、もう人間じゃないのは確かだと思った。そしてそんなのは、ずっとそうだったのかもしれない。
 肉体がなくなっても脳はパソコン上で機能していて、仮想現実の中で当たり前に生活をしているような振りをして、アンドロイドの気まぐれでぐちゃぐちゃに保存されて、自分が何だかわからなくなって、そんなのはもう、いきものですらない。
 目の前の知性体は綺麗に笑う。
「神様の気分はどう」
 歌うような口調で問う彼は、何だかわたしよりずっと人間らしいような気がした。けれど、それはアンドロイドにとっては悪口でしかないかもしれない。人間と、同じにされるなんて。
「神様でいるのは、寂しい」
 わたしは答える。答えたわたしが誰なのかは知らないけれど、わたし自身も概ね同意だった。
「サミシイ、ねえ」
 古いロボットのような口調で彼は言う。ふざけていたのかもしれないし、笑ってあげるべきだったのかもしれない。そう思った瞬間には目の前は真っ暗になっていて、彼の姿も、誰かの見た景色ももう、わたしには二度と見えなかった。


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