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【短編小説】錆色の虚構

 せめてこれが、真っ赤な嘘ならば良かった。

     *

 開演のブザーが鳴り、舞台袖から沙月が現れる。彼女は客席に向かって一礼、前口上を述べる。
「本日は誠華高校演劇部第二十五回公演『錆色の虚構』にお越し下さり、誠にありがとうございます。開演に先立ちまして、お客様にいくつかお願いがございます。会場内での許可のない撮影はご遠慮ください。携帯電話は音のならないよう、電源を切るかマナーモードに設定をお願い致します。なお、上演時間は、二時間を予定しております……それでは間もなく開演です。ごゆっくりお楽しみください」

 舞台は、演劇部の部室。
「――舞台は、演劇部の部室。わたしはパソコンに向かっている。…………」
 わたしはキーボードを叩く手を止めた。一度読み返し、バックスペースキーを押す。ワードの画面を白紙に戻して眉根を寄せた。さっきから前口上を書いては消し、書いては消している。何も思いつかない。
「部長ー。お困りですねえ。この晴花ちゃんがネタ提供してあげようかー?」
 背後からからかうような声が聞こえた。不機嫌な顔のまま振り返ると、同級生の岡本晴花がパソコンの画面を覗き込んでにやにやと笑っている。
「言ってみたまえ」
 どうせろくなもんじゃないだろうと思いながら、わたしは応えた。
「まず、カニ型の宇宙人が襲来してくる。で、みんなで協力して戦うの」
「一応聞こうか……それから?」
「カニ鍋で大団円」
「却下」
 間髪いれずに彼女の案を取り下げる。晴花は口先を尖らせて、えー、と言った。
「夕理知らないの? カニってよく見たらすっごい気持ち悪いんだよ。美味しいだけじゃないんだよ。その二面性って、なんて言うの、あたしたちみたいな思春期の少年少女が内包するこの、美しさと醜さの暗喩として最適だと思うんだよ。ね、醜い殻に守られた美味しいカニの身こそ我らの青春」
 わたしは無視してパソコンに向き直る。
「こらー! 無視すんなー!」
 晴花が楽しげに笑うので、わたしもため息交じりに少し笑って、ノートを開き、ペンケースから愛用の万年筆を取り出した。『醜い殻に守られた美味しいカニの身こそ我らの青春』と書いてみた。すぐに二重線で消した。その線が掠れている。わたしは万年筆の軸胴部を外し、空になったカートリッジを取り出す。ペンケースの中に、予備のインクが入っている。十本あったインクは、いつの間にかあと三本になっていた。そのうちの一本を、ペン軸に取りつける。
「カニ食べたいなあ。ねえ卒業旅行は北海道にしようよ」
 晴花は呑気に英語のワークを取り出す。
「受験に受かってから言え。あと宿題すんな。発声と柔軟しろ」
 わたしは振り返らずに応える。
「冷たい。北海道の雪みたい」
「そんなに行きたきゃ仲良しの圭太くんでも誘いなさいよ」
「別に仲良くないです」
「毎日一緒に帰っといて仲良くないとかよく言うわ」
「うるさい」
 わたしと岡本晴花は、誠華高校演劇部の三年生だ。わたしが部長で、彼女は副部長だった。部員は全員で三人。わたしたちと、もうひとり、塩田沙月という同級生がいる。全員三年生だ。去年、今年と新入部員に恵まれなかった我が演劇部は、わたしたち三年生の引退をもって廃部となる。
 わたしと晴花、そして沙月は、一年生の頃からずっと同じクラス、同じ部活で苦楽を共にしてきた。親友と呼べる関係だ。
「沙月はまだ保健室かな」
 発声練習を一通り終え、晴花がぽつりと言った。眼鏡をかけ直し、わたしは応える。
「どうかな。帰ったかもね。放課後迎えに行った時はまだ寝てたし」
「そうだねえ。最近増えたね、あいつ。保健室に行くこと」
 晴花が視線を落とす。わたしは彼女が立つ窓辺に視線をやった。梅雨明け前だが、外はすっかり夏の様相だった。熱気と湿気を含んだ空気が満ちている。県予選を間近に控えた野球部の声がここまで響く。わたしは窓の外に目をやったまま、口を開いた。
「いろいろ大変なんじゃないの。受験の件とかさ。お母さん、最近一層厳しいみたいだし」
 その時、ゆっくりと部室のドアノブが回った。わたしたちはそちらに視線を向ける。ドアを開け、沙月が姿を現す。
「ごめーん、遅くなっちゃった」
 申し訳なさそうに言い、白い肌を一層青白くさせて彼女は笑った。
「大丈夫なの?」
「大丈夫。偏頭痛が酷かっただけだから」
 晴花の問いに沙月は薄く笑って頷いた。疲れている。わたしは沙月の表情を見て思う。
「ねえ」
 晴花がわたしを振り返って口を開く。わたしは首を傾げて先を促した。
「今日の部活は終わりにしよーよ」
「え、私今来たのに?」
 沙月が目を見開く。わたしは目を伏せて少し笑う。
「どうせ脚本も出来てないんだし。そうだ、マックに行こう!」
 晴花の考えていることは何となくわかった。沙月を元気づけたいのだ。ゆっくり美味しいものでも食べて話をしようとでも言いたげだ。わたしは眼鏡を上げて、
「マック行くかー」
 と言った。沙月も目尻を下げて笑い、小さく頷いた。

 マクドナルドでポテトとコーラを頼んで、わたしたちはどうでもいい話をする。話しながら、わたしは脚本のネタになればと、万年筆でノートに自分たちの会話を写し取る。
――そう言う感じでね、あたしは夕理にネタを提示してやったってわけ。
――はるちゃん何て言うかあれだね。前衛的。
――夕理がスランプ抜けられなかったらあたしが脚本書こうかな。
――それいいかも。新しい。
「ちょっとそう言うこと言うのやめてくれるー?」
 わたしは手を止め、口を尖らせて抗議する。晴花はげらげら笑って、
「冗談だってー!」
 と言う。ごめんごめん、と沙月も愉快そうにしている。わたしも笑い、また万年筆を走らせる。そこから晴花は、卒業旅行は北海道にしようとカニの話を蒸し返した。
「いいんじゃない? 北海道」
 案外沙月が乗り気で、わたしは少し困った顔になる。
「三月だよ。あっちはまだ寒いし超絶お金かかるよ」
「でも、私たちみんな志望校別々だし、最後にぱーっといい思い出作りたいじゃない」
 沙月は言う。そうだそうだ、とシェイクを吸いこみながら晴花が続く。わたしは顔をしかめたまま、ノートに万年筆で卒業旅行候補地、北海道、と書いた。
「あー。やだなあ。卒業も、受験も」
 少し冷めたポテトに手を伸ばしながら晴花が呟く。
「あんた期末テストどうだったのよ」
 わたしの言葉に、晴花は成績表持ってるよ、と鞄を開けた。じゃーん、と晴花は軽い調子で成績表を開く。わたしと沙月はそれを覗き込む。全体的にひどい。赤点だらけである。学年順位は下から数えた方が早い。
「やばいぞ晴花! 流石に三年の今の時期に赤点はやばい!」
「うわー、先生みたいなこと言っちゃってるんですけどー」
 わたしの言葉に、晴花は危機感のない様子でげらげらと笑う。
「そういう夕理はどうせミス平均点なんだろ。順位もど真ん中だろ」
「その通りだよ、悪いか。お前よりは大分上だよ」
 わたしたちのやりとりを見て愉快そうに笑っている沙月に、
「ちなみに沙月は?」
 と、晴花が尋ねた。
「私も大体いつも通りかな」
「沙月のいつも通りは大体学年一位か二位だよね。凄い」
「いやー、ところが今回四位だったんだー」
「それでも上位じゃん! 二百五十人中の四位だよ! 凄いよ!」
「そうでもないよ」
 沙月のその言葉は謙遜でも、まして嫌味でもなく、彼女は本当に困っているように目を伏せた。
「最近成績落ちてばっかりなんだ。模試でもそう。偏差値が上がらなくて。やればやるほど何だか空回りしちゃってね。駄目なの。またお母さんが口利いてくれなくなっちゃって」
 そこまで言って、沙月はしまった、というように口に手をあて目を見開いた。弱音を零したことを詫びるように、彼女は申し訳なさそうな視線を向ける。
「大丈夫だよ、沙月」
 晴花が笑って言う。沙月は目を泳がせて、微かに頷いた。わたしは少し、目を逸らした。
 沙月の両親は彼女が幼い時に離婚している。それからずっと、沙月は母親と二人で暮らしてきたそうだ。母親は美しく優しい人だが、時折酷く情緒不安定になると聞く。母親の悲しみも、怒りも、過度な愛情も、大き過ぎる期待も、この十年間全て沙月に向けられてきた。それに応えようと、彼女は努力を怠らなかった。成績は常に学年上位だったし、志望大学も難関と言われる某国立大学だ。彼女は勉学だけでなくスポーツでも音楽でも優秀な成績を残した。二年生の頃は推薦で生徒会役員を務め、クラスのまとめ役を進んで買って出るような、絵に描いたような優等生だった。それもこれも全て、一心に注がれる母親の期待に応えるためだ。彼女が無理をしていることは、側に居ればわかった。
「親は大事かもしれないけどさ、結局他人だよ。お母さんは沙月の神様なわけじゃないでしょう」
 わたしは言う。沙月は、そうだね、と応える。肯定の言葉を返しても、その目は決してわたしを見ようとはしない。何をされても母親を嫌いになれないと言う。あまりにたくさんのものを受け取ってきたから。彼女はそう言って笑う。けれど、沙月はもうぎりぎりだ。

     *

 塩田沙月は、とても綺麗な女の子だ。
 黒くて長いまっすぐな髪に、大きな目、透きとおるように白い肌。線はほっそりとしていて、黒いセーラー服がよく似合った。他クラス、他学年の男子は沙月とすれ違うと必ず一度は振り返る。わたしが今まで出会ってきた中で、彼女は間違いなく一番綺麗な女の子だ。
 沙月と比べると、ぼさぼさの髪を後ろで無理やり束ねて野暮ったい眼鏡をかけているわたしや、痛み切った癖毛に何度もストレートパーマをあて、肌荒れに悩んでいる晴花なんかは足元にも及ばない。
 演劇部ではいつも裏方の仕事ばかりしているが、本当は沙月が一番演技が上手いのだということを、わたしも晴花もよく知っている。沙月も本当は舞台に立ちたいのだということも、よくわかっている。それを許さないのは、やはり彼女の母親だった。そもそも部活動をすることすら反対されていたのだが、少し手伝う程度、という条件で彼女は母親を説得し、どうにか許しを得たそうだ。沙月が彼女の神様たる母親に、唯一抵抗して見せたのが、この演劇部への所属だった。
 彼女がどうして、そこまで演劇部に執着したのかは、わからない。お芝居が好きだったこともあるだろう。でもそれ以上に――自惚れだと言われてしまうかもしれないが、わたしたちと過ごす放課後を、沙月は望んでいたのではないかと思う。舞台に立つことは出来なくても、彼女はここに居ることを選んだ。

 その日も、沙月は保健室から、部室に来た。遅れてごめんね、と笑った目は、やはり疲れていた。しばらくはいつも通りの談笑が続いた。でも何処かで、わたしも晴花も違和感を感じ取っていた。ふと、会話が途切れる。やわらかく差し込んでいた西日が、急に鈍い色に変わったような気がした。その時、
「ねえ、私ね」
 沙月が口を開いた。
「また、お母さんに部活を辞めろって言われたの。でもね、演劇部まで奪われるのは嫌だなって思っちゃって。本当はね、お母さんの言うこと聞かなきゃいけなかったんだけど、どうしても辞めたくないって思っちゃって。一体どうしたらいいのかわからなくて」
 彼女は一度言葉を切り、吐き出すように、苦しそうに続けた。
「だからね、うそ、ついたんだ」
「うそ?」
「退部届出してきたって言った。その時間で、先生に補習をしてもらってるからって」
 廊下で、場違いなほど楽しげな誰かの笑い声がした。じわじわじわ、と遠くで蝉の鳴く声が聞こえる。その隙間を縫うように、ごめんね、と沙月が言った。
 沙月が母親に嘘をついた、ということに、わたしは動揺を隠せなかった。
「それ、いつの話?」
「三日前」
 沙月の応えに、晴花は目を伏せた。三日前。わたしと晴花と一緒に、マクドナルドに行った日だった。
「そう、だったの」
 それきり、何も言えなかった。沙月は俯いたままだった。伏せた目が泳ぐのがわかった。沈黙を破って、彼女は再び口を開く。
「それからずっと、うそをついてしまうの」
「え?」
「自分でもね、わけわかんないんだけどね、うそをつくのがやめられないの。些細な、意味のないうそばっかりだよ。頭が痛いとか、具合が悪いとか。夕ごはん外で食べてきたから要らない、とか。もうね、よくわかんないんだけど、気付いたらそんなこと言っちゃってるんだよね。なんか、わたしおかしくなっちゃってるのかな」
 わたしと晴花はちらりと顔を見合わせた。わたしの唇はぴったりと閉じたまま開かない。
「あ、ごめん、ごめんね。こんな話して」
 沙月は笑う。晴花が沙月の方を見て、少し躊躇ってから尋ねた。
「今日、保健室に行ってたのも?」
 言ってからすぐ後悔したように、晴花は顔を歪めた。
「あれは本当……ううん、うそだったのかも。どうだったのかな。わかんないな」
 沙月はぼんやりと応えて、俯き、すすり泣きを始めた。泣き声はだんだん大きくなり、晴花が沙月の細い背中をさすった。こんなに近くに居たのに、わたしも晴花も、沙月の異変に全く気付いていなかった。そう思うと、胸が痛かった。
 塩田沙月は、とても綺麗な女の子だ。
 黒くて長いまっすぐな髪に、大きな目、透きとおるように白い肌。線はほっそりとしていて、黒いセーラー服がよく似合った。優しくて頭のいい、わたしの友達。わたしも晴花も、沙月のことが心底好きで、大切だった。

     *

 沙月の嘘は日に日にエスカレートしていった。
 沙月はわたしたちの中で一番演技が上手い。昼食を摂っていたら急に口元を押さえ、トイレに駆け込む姿も、体育の時に貧血で気を失う瞬間も、大袈裟に巻いた手首の包帯も、鞄に忍ばせた錠剤も、保健室で眠る青褪めた表情も、どれもが完璧だった。
「全部うそ」
 彼女は放課後の部室で、おかしそうに笑いながら手首の包帯を解いた。そこにはほっそりとした、まっさらな手首があった。わたしと晴花はただ、狂ったように笑う沙月を、戸惑いながら見ていることしか出来ない。
 今日も、昼休みに晴花と三人で昼食を摂っていると、沙月が急に口元を押さえて青褪めた顔をした。
「沙月? 大丈夫?」
 わたしは彼女の背に手を伸ばす。彼女の背中をさすりながらも、どうせ嘘なんだろうと言う疑念を抱いてしまう。ありがとう、ちょっとごめんね、と沙月は小さく言って席を立つ。晴花がそれに付き添う。席を立って一瞬、晴花はわたしを見た。わたしは何も言わずに二人を見送る。
 ひとり残されたわたしは、顔を上げて回りを見る。近くで弁当を広げていた女子のグループが、わたしたちの方を伺うような視線をよこす。――沙月ちゃん、最近ずっと具合悪そうだよね――うん、大丈夫なのかな。小声で話す声は、好奇心と心配を半分ずつ覗かせていた。
 何も知らない彼女たちが少し羨ましかった。わたしだってあんな風に、心から沙月を心配出来ればどんなに良かったか。でももう無理だった。わたしは、沙月の嘘を知っている。あれが嘘なのではないかと疑ってしまっている。それでもわたしは、何も知らない振りをして、体調不良の沙月を気遣う友人を演じなければならない。
 常に沙月に合わせて行動をすることに疲れているのはわたしだけではない。晴花も同じだった。沙月を保健室まで連れて行って、教室に帰ってきた晴花に、さっきの女子グループが声をかける。ねえ、沙月ちゃん大丈夫なの、という声に晴花は苛ついたような表情を浮かべた。声をかけた女子たちの表情が凍る。それを見た晴花はすぐに我に返り、
「あ、ありがとね、大丈夫。ちゃんと保健室に連れて行ったから」
 と笑って見せた。そう、なら良かった、と彼女たちは返したが、席に着く晴花を見ながら顔を寄せ合った。
――何、今の。岡本、沙月ちゃんのこと心配じゃないのかな。
――てかそもそもおかしいよね。あんなに何でも出来て超可愛い沙月が岡本や宮原と一緒に居るなんてさ。
――あいつら沙月の引き立て役って感じだよね。
――実は沙月に嫉妬してんじゃないの。女ってこわーい。
 やだ、聞こえるよ、という声に、聞こえてるよ、と返しそうになったが堪えた。
「……わたしまでとばっちりなんだけども」
 わたしは不機嫌な顔を作って囁く。
「悪い。ほんと、ごめん」
 晴花は机に肘をついて頭を抱えた。わたしは息をつき、彼女の痛んだ髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
「ココア奢ってくれるまで許してやんねーんだからな。売店行こうぜ」
「……うん。行こう」
 晴花は顔を上げ、泣きそうな顔で笑った。
 
「夕理」
 放課後。今も沙月は保健室に居る。窓の外に向かって発声練習をしていた晴花が、ふと小さな声で、わたしの名前を呼んだ。
「どうした?」
 パソコンに向かっていたわたしは、こめかみに流れた汗を拭って晴花の方に視線をやる。彼女はグラウンドで練習する野球部の方に視線を投げている。
「あたしはさあ、沙月が全くわからなくなっちゃったよ」
 外から生ぬるい風が入ってきて、晴花の痛んだ髪を揺らす。わたしは視線をパソコンに戻し、アイスココアのストローを噛んだ。
「わたしにもわからんよ」
 わたしの返答に、晴花は何も言わなかった。 
 沙月はここで告白する。自分は今日、こんな嘘をついたのだと。
 わたしはパソコンの脇に置いたノートを見返す。沙月のついた嘘を、わたしは残らずノートに記入していた。ノートに万年筆を走らせながらわたしは改めて思うのだ。沙月の嘘を見破られてはならない。わたしたちは、演じなければならない。万年筆を走らせる左手は、いつも重い。
「ねえ、夕理、あたしは、沙月が言ってることの真偽も、あいつが何考えてるのかも全く、わかんないんだけどね」
 晴花は泳がせていた視線を、わたしに向ける。彼女は目を細め、そっと口角を上げて見せる。
「でも沙月が、今日はこういう嘘をついてしまったって言ってくれるってことは、あいつはあたしたちの前では嘘をつかなくていいって思ってるってことじゃないかなって思って」
 彼女の鳶色の瞳が、濡れたように光った。
「それだけは信じたいなって思うのはさ、うぬぼれかな」
 わたしは首を振る。
「わたしだって、おんなじ気持ちだよ」
 わたしの言葉に、晴花は頷いた。沙月が、きちんと呼吸が出来るのはこの部室だけなのだとわたしは信じている。だから、どんなに重くても大丈夫だ。わたしも晴花も、沙月のことが心底好きで、大切だ。だから、大丈夫だ。わたしは自分に言い聞かせる。
「ねえ、今度さあ、三人で何処か出かけようよ。マックで話して、服見たり、雑貨屋に行ったりするの」
 へらへら笑いながら晴花が言う。わたしは頷いた。
「そりゃあいい。沙月が来たら改めて話そう」
 けれどその日、沙月は部室に来なかった。

     *

 放課後。正門の前で、晴花は人を待っている。野球部が練習を終え、ばらばらと正門に向かってくる。その中の一人に、晴花は手を振った。相手は晴花の幼馴染みの上村圭太。野球部に所属する三年生だ。晴花は毎日野球部の練習が終わるのを待って、彼と一緒に家路を辿る。

「もうすぐだねえ、県予選」
 晴花は圭太の隣に並ぶ。七時半を回った空は、ようやく夜の気配を漂わせ始めていた。
「そうだなー」
 圭太は鞄を持ち直しながら応える。
「どう、今年は」
「甲子園行きたいなあ、今年こそ」
「まあ、圭太はベンチなわけなんですが」
「それを言うんじゃない」
 圭太の不機嫌な表情を見て、晴花は愉快そうに笑う。
「ずーっと頑張ってきた圭太は偉いと思うよ」
「なに急に」
「こーんなちっちゃい頃からずっと野球ばっかりしてたじゃん。いつも補欠だったけど」
「下手の横好きだからな」
「でも偉いと思う」
「そりゃーどうも」
 圭太の短く切った黒髪と、日に焼けて少し赤くなった頬を見て、目を細めた。
 晴花は、圭太のことが好きだった。もう数年越しの片思いだ。圭太は、彼女の思いを知らない。彼女は素直に好意を伝えられないでいた。理由はいくつかある。
 圭太に対して、晴花が明確な恋心を抱き始めたのは中学生の時だった。今更のように芽生えた感情に彼女自身戸惑っていたこともあったし、その感情を伝えて、圭太との関係がぎくしゃくとしてしまうのにも躊躇いがあった。
 もうひとつは、圭太が晴花のことを恋愛対象として見ていないということだった。圭太は好きな人が出来るたび、晴花に相談を持ちかけた。圭太に今まで恋人が出来ることはなかったが、晴花は心中穏やかではなかった。そして毎度思い知った。自分は圭太にとって、仲の良い女友達にすぎないのだと。そんな晴花の思いを、圭太は知らない。
 駐輪場で、各々自転車の鍵を外す。少し離れた場所から、圭太が晴花に声をかけた。
「晴花さー、先に帰ってもいいんだぜ」
「うん?」
「演劇部の練習終わるの六時だろ。俺たちはどんなに早くても七時半までは練習なんだから」
「別にいいよ。図書室で勉強してるし。なになに? 一緒に帰るの恥ずかしいとか?」
「何を今更」
 晴花の言葉に圭太は呆れたように笑って自転車を漕ぎだす。
「俺とお前がなあんにも関係ないただの幼馴染みだってことは周囲の全ての人間が知ってるだろ」
「まあ……」
 晴花も自転車のペダルに足をかけた。下り坂を走る。風を切りながら、晴花は前から流れてくる圭太の声に耳を澄ます。
「最近大変なんじゃねえの」
「え?」
「お前の友達。何て言ったっけ、あの美人」
「ああ、沙月のこと?」
「そうそう。今日も保健室に行ってただろ」
「ああ、うん」
「お前、友達なんだからさ、俺より沙月ちゃんに構ってやれよ。一緒に帰ったりとかさ」
 たまにしてるよ、と晴花は応える。呟くような大きさの声は、圭太には届いていなかった。この前は一緒にマックに行ったんだよ。でも、それから沙月おかしくなっちゃったんだ。嘘つくんだよ。あたしたちそれに付き合ってるんだ。でもいいの。沙月大変だから。頑張ってるから。部室でちゃんと全部話してくれるから。でも沙月、今日は部室に来なかったよ。
 晴花は続ける。
 ねえ、何で圭太が沙月の体調不良を知ってるの。なんで。
「何か言ったか?」
 圭太が振り返る。
「なんでもなーい。ていうかさ、圭太、沙月のこと気になるの? 仲人してあげようか?」
 晴花はにやにやと笑って見せる。わざと明るく出したその声が少し震えていたことにも、その頬が引きつっていることにも、圭太は気付かない。
「あ、そうしてよ。あとで沙月ちゃんのライン教えて」
 圭太は軽い口調で応える。晴花は唇を噛んだ。
――あいつら沙月の引き立て役って感じだよね。
――実は沙月に嫉妬してんじゃないの。
 前を向く圭太には、彼女の傷付いた表情は見えない。
 あたしはこの後にやにや笑って、圭太に沙月の連絡先を教えるんだ。
 せり上がる不快感を拭うように、晴花はしっかりとペダルを踏み込んだ。いくらしっかり漕いでも、圭太の隣に並ぶことは出来なかった。

     *

「夕理、起きなさい」
 日曜日の朝、母の声で目が覚めた。寝起きの悪いわたしは重いまぶたを開け、母の方を睨んだ。
「なに」
「なにって、行くよ。おばあちゃんのところ」
 母は平然と言い、部屋から姿を消す。わたしは身体を起こし、うんざりとため息をついて寝癖のついた頭を掻いた。

 母親の運転する車に乗って、祖母が暮らす老人ホームへと向かう。数年前、認知症の症状が出始めた祖母は、ひとりで生活することもままならなくなり、老人ホームへ入った。毎週日曜日の訪問は、その頃からずっと続いている決まりごとだった。
「ねえ、わたし一応受験生なんだ」
「そうね」
 わたしの言葉に、母は短く返す。わたしは早口で続けた。
「受験生のわたしが時間を割いてまで付き合う必要ってあるの」
「日曜の朝はずっと寝てるじゃない」
 苛々としながら言うわたしを、母は適当に受け流す。しばらくして信号待ちの時にふと、
「おばあちゃんは、あんたに会いたいのよ」
 と呟くように言った。わたしは吐き捨てるように呟く。
「……知らないよ、そんなの」

 幼い頃からおばあちゃん子だった、と、親族に会うたび決まりごとのように言われる。両親が共働きだったこともあって、小学生の低学年の頃はほとんど直接家には帰らず近所の祖父母の家を訪ねていた。祖父はわたしが七歳の時に亡くなり、それからの約三年間は、祖母と共に過ごしていた。だからといって、わたしが祖母のことを好きだったのかと問われれば、それはよくわからない。ただ、学校帰りに祖母の家に行くのは決まりごとだった。それだけだった。
 祖母は決まって、父と母と父方の祖父母の悪口をわたしに吹き込んだ。認知症にかかる前から、祖母は妄想癖の気があり、父や母、父の両親を悪者に仕立て上げていた。
 父は冷たく、性格の悪い人間だから職場でも嫌われている。と、祖母は言った。わたしに結婚式のビデオを見せながら、
「ほら、お父さんの関係者はこんなに少ない。人望のない人間だったんだよ」
 と笑う。こんな、人に嫌われてばかりいるような人間に父親が務まるわけがない。だから、お父さんの言うことは聞いてはいけないよ。祖母はわたしにそう言い聞かせた。
 父方の祖父母の場合はこんな風だった。あちらのご両親は母のことを嫌っている。だから、お母さんに良く似た夕理のことも可愛いわけがない。可愛がってくれているように見えても全部嘘だよ。騙されてはいけないよ。祖母は何度も同じことを繰り返した。
 彼女の攻撃は、赤の他人である父や祖父母に対してだけではなく、実の娘である母親にまで及んだ。
「お母さんのこと好きかい?」
 だいすき、と素直に答えるわたしを見て、祖母は嫌な顔をした。
「お父さんみたいな男に騙されるお前のお母さんはね、馬鹿な出来損ないだよ。あいつは恥だよ。私の恥だ」
 幼いわたしはそれを全て鵜呑みにした。家族がみんな、嫌いになった。
 祖母の言うことが全て間違いであったとは言えないかもしれない。だが、その八割は祖母が仕立て上げた作り話である、と、今は思っている。わたしも成長して、祖母が悪意からあんな発言をしていたということもわかるようになった。それでもわたしは、未だにまともに両親の顔が見られない。すべて、祖母のせいだった。
 小学校高学年に上がり、それから中学生を卒業するまで、祖母の家に顔を出すことは滅多になかった。わたしが高校生になった頃、足を悪くしてから祖母の症状は急速に進み、ホームに入ることになった。
 わたしはずっと、祖母を憎んでいる。
 しかし母は、わたしが何を言っても、どんなに拒否しても必ず日曜日にホームにわたしを連れて行くようになった。それはもう執念と言ってもいい。母と祖母はもともと仲の悪い母子だったし、祖母がわたしに家族の悪口を吹き込んでいることを知ってからは、極力わたしと祖母を会わせないようにしていたのに、祖母が老人ホームに入ってから母の態度は急変した。何が母をそうさせているのか、わたしにはよくわからない。

 祖母の部屋に着くと、母はにこやかに笑って、夕理を連れてきたよ、と祖母の耳元で囁いた。祖母はまるで母が見えていないように、まっすぐわたしだけを見ていた。
「ゆうりちゃん、久しぶりだね」
 わたしの名前を呼んだ。わたしは嫌な気持ちになる。反吐が出そうだった。
「遠いのにわざわざありがとう」
 祖母は優しい声で言う。
「心配かけちゃってごめんね」
 目を逸らしたまま、わたしはその声を聞き流す。
「今日は、どうしたの?」
 不思議そうな顔で尋ねる。わたしは何も答えない。
「ゆうりちゃん?」
 祖母は不安げな表情を作って、首を傾げた。そうかと思えば、にこにこと笑い、
「ゆうりちゃん、大きくなったねえ」
 と、言った。
「ランドセルは気に入った?」
 祖母は何度もわたしの名前を呼んだ。幼いわたしに話しかけるように、今のわたしに縋るように、ゆうり、ゆうり、と何度も呼んだ。今も過去も未来も現実も虚構もわからなくなった世界で、まるでそれだけが真理であるかのように祖母はわたしの名前を呼んだ。
 わたしはここに来るたび、神様にお願いした。この人をわたしの前から消して下さい。殺して下さい。早く。今日も、何度も願った。この手で、殺してやれるならどんなにいいだろうか。そんなことも思った。
 疎ましい。
 その時ふと、沙月の顔が頭に浮かんでわたしは自分の顔から血の気が引くのを感じた。
 このところ、ずっと目を逸らしていた感情だった。疎ましい。面倒くさい。大事な友達に対してそんなことを思ってはいけないと思っていた。けれど、今、目の前の祖母と沙月が二重写しのように見えて仕方がなかった。

     *

 月曜日、沙月は学校を休んだ。放課後、部活に向かおうとするわたしと晴花を、担任の先生が引きとめた。わたしたちは顔を見合わせる。沙月のことだろう。何かあったのだろうか。職員室まで呼ばれ、わたしたちは黙って、先生の後を追った。
「塩田のことなんだけどな」
 案の定、沙月の話だった。先生は職員室の一番奥のソファに腰掛け、その向かいにわたしたちを座らせた。少し言いにくそうにする先生に向かって、何ですか、と晴花が先を促す。晴花は少し、思い詰めたような顔をしていた。嫌な予感がするのだろう。わたしも同じだった。先生は意を決したように、わたしたちの顔を見た。
「塩田のお母さんから、連絡があってな。沙月が、学校でいじめられていると。……塩田が演劇部を辞めると言いだしたら、岡本と宮原が態度を変え、陰湿ないじめをしてくるようになった、と」
 わたしは目を見開いた。先生の言ってることが、上手く頭に入って来ない。今、いじめられていると言ったか? 沙月が、わたしと晴花に? 
「それは、沙月が、そう話したと、いうことですか」
 わたしは尋ねた。かすれた声が出た。先生は頷く。しばらく沈黙が流れた。わたしは晴花を見る。晴花もわたしを見た。わたしの青い顔を見て、晴花は顔を歪めた。鳶色の瞳が歪む。
「わたしたち、そんなことしてません」
 晴花が言う。今にも泣きだしそうな声だった。先生は目を伏せる。
「お前たちのこと信じてやりたいんだけどな。三人が仲良かったことも知ってるし、最近塩田は受験のストレスで疲弊しているから、些細なことでも傷付いたり、誤解したりしているんじゃないかと、思わないでもない。だが塩田本人がいじめられていると言っている以上、それを否定することも出来ない。指導しないわけにはいかないと思って」
 先生は申し訳なさそうに言う。
「夏休みが明けるまで、演劇部は活動を停止するように」
 晴花が、堪え切れなくなったように泣きだした。わたしは晴花の手を取って立ち上がり、ドアを叩きつけるように開けて職員室を出た。
 どうしてだ、と思った。沙月はわたしたちの前でだけ、きちんと呼吸が出来るのではなかったのか。ここが、彼女の居場所ではなかったのか。廊下を行き過ぎる生徒が、しゃがみこんで泣く晴花を怪訝そうに振り返る。わたしは彼女に手を差し出した。自分の手が震えていることに、その時ようやく気がついた。

 次の日も、その次の日も、沙月は学校に来なかった。クラスには、わたしと晴花が沙月をいじめていたという噂が瞬く間に広まった。沙月の保健室通いも、手首の包帯も、原因は全てわたしたちだと彼らは噂した。
――ほら、やっぱりね。おかしいと思ってたんだ。
――自分たちでいじめといて心配してる振りしてたんだ。最低だね。
 クラスに居場所を失って、演劇部まで取り上げられて、わたしたちにはもう何処にも逃げ場がなかった。校庭で蝉が喚き散らす声に、頭がぼんやりとして涙が零れた。どうして。その疑問符には行き場がない。何度も沙月に連絡を入れたが、一度も返事は来なかった。わたしと晴花は二人で身を寄せ合い、なるべく誰の目にもとまらぬように生活した。

     *

 金曜日の夜、晴花が泣きながら電話をかけてきた。もう駄目かもしれない、と言う彼女をなだめ、わたしは彼女の家まで自転車を走らせた。何があったのかと尋ねるわたしに、晴花は泣きはらした目で、今日の帰りに圭太に言われたことを話した。
 晴花はいつも通り、野球部が練習を終える時間まで図書館で勉強し、圭太と一緒に帰った。誠華高校野球部は県大会の第一試合を勝ち進み、来週次の試合を控えていた。
「頑張ってるね」
「うん」
「この前の試合、最後に代打で出たって、あたし今日知ってさあ」
「うん」
「凄いよ、次も勝つと良いね。絶対勝てると思うよ。ほんとに甲子園行けちゃうかもね」
「うん」
 圭太は生返事を返しながら、彼は少し先を歩き足元ばかりを見ていた。懸命に話を続けようとしていた晴花の声も次第に小さくなる。そのうち彼女は立ち止まった。
「どうか、したの?」
 不自然な笑みが貼りついた晴花の顔を、圭太は振り返った。汚いものでも見るかのような瞳に晴花は戸惑う。
「お前さ、沙月ちゃんのこと、いじめてるのか?」
 晴花の表情が、ぐにゃりと歪んだ。彼女の脳裏に、もっとも起きて欲しくなかった事態が鮮明に浮かぶ。沙月が泣きながら圭太に電話をかける、その姿が。
――晴花にいじめられているの、もう耐えられなくて圭太くんに電話したの。
――ごめんね、圭太くんの大事な幼馴染みなのに。でも、どうしても耐えられなくて。話聞いてくれてありがとう。楽になったよ。
 電話を切り、堪え切れなくなったように沙月は笑う。けたけたと、壊れたように笑う。
「違う」
 晴花は必死に首を振った。
「何が違うんだよ」
「違うの、それは、沙月が」
「沙月ちゃん本人から聞いたんだよ」
「嘘ついてるの! 全部、沙月の嘘なの」
 あたしのこと信じてよ、と震える声で言う晴花に、圭太は軽蔑したような視線を投げ、吐き捨てるように言った。
「最低だな、お前。いじめといてまだそんな言い逃れすんの」
「ちが……」
「お前みたいなやつと何年も友達やってたかと思うと反吐が出るわ」
 堪え切れずに泣きだした晴花を見下ろし、圭太はその場を去ろうとする。晴花は嗚咽を飲みこんで、顔を上げ、圭太を見た。
「圭太は、あたしより、沙月を信じるの?」
 晴花の言葉に、圭太はうんざりしたようにため息をつく。
「当たり前だろ。もう俺に付き纏うのもやめてくれ。お前、見た目だけじゃなくて性格もブスだったんだな。じゃあな」
 それだけ言って、圭太は歩き出した。二度と、晴花の方を振り返ることはなかった。

 泣き疲れてぐったりとしている晴花に、わたしはどんな言葉をかけていいのか分からなかった。圭太も相当クズだと思うが、そんなことを言っても晴花は慰められないだろう。
「沙月のこと、許せない。殺したいくらい」
 いつまでも何も言わないわたしに、晴花はぽつりとそう言った。
 許せないのはわたしも同じだ。誰よりも美しく、演技の上手い沙月。悲劇のヒロインを演じ続け、憐憫と労わりの視線を一身に浴びようとしている我らが看板女優。その舞台上で、わたしたちは裏切られ、罵られ、何もかも奪われる端役だった。
 沙月と二重写しに、殺したいほど憎い祖母の姿が浮かんだ。その瞬間、祖母にぶつけたかった怒りも、殺意も、全て沙月に向いた。同じだ。あいつらがやったことは同じ。
 この手で制裁を加えてやる。沙月の芝居を、ぶち壊してやる。
「明日、沙月に会ってくる」
 わたしは静かな声で言った。
「え?」
 少し驚いた様子で、晴花はわたしを見る。
「わたしに任せて。沙月の嘘、本当にしてやろう」

     *

 眩暈がするような、猛暑日だった。坂道に沿って綺麗な新しい家が並んでいた。わたしはその間を歩く。こめかみを汗が伝う。ハンカチを取り出そうと鞄を開けた。内ポケットからハンカチを取り出す時、同じ場所に入れていた万年筆が視界に入った。わたしはそれに触れようとして、やめた。今日、これを使うことはないだろう。住宅地の中程に、二階建ての新しいアパートがある。沙月はここで、母親と二人で暮らしている。二〇三号室のチャイムを鳴らした。沙月の母親が出てきたらどうしようかと一瞬身構えたが、
「はい」
 とインターホン越しに応えたのは沙月だった。
「夕理だよ」
 わたしは言う。戸惑うような間が一瞬空き、
「すぐ開けるね」
 と、沙月は応えた。
 沙月がドアを開けて、床に手をついて許しを請うたら、どうしようかとわたしは思った。泣きながら謝る彼女を、わたしは許すだろうか。カーディガンのポケットに、一度手を入れた。ガチャリとドアが開く。わたしは顔を上げた。
「いらっしゃい」
 涼しい笑顔で、沙月は言った。
「暑かったでしょう。入って」
 わたしも笑顔を作った。口角を上げたまま、奥歯を噛んだ。
 そうか。わたしは思う存分、あんたを嫌っていいのか。
「おじゃまします」
 わたしの笑顔が歪んだことに、沙月は気付いただろうか。

 沙月の母親は今日も仕事だと言う。
「ゆうりちゃん、久しぶりだね」
「うん」
「遠いのにわざわざありがとう」
「いいよ。心配してたんだ、ずっと」
「心配かけちゃってごめんね」
 わたしは目を伏せたまま首を振った。
「今日は、どうしたの?」
 彼女は不思議そうな顔で尋ねる。わたしは少し間を置く。落ち着きなく、カーディガンのポケットに手を入れる。
「ゆうりちゃん?」
 沙月は不安げな表情を作って、首を傾げた。
「沙月に、聞きたいことがあって」
 わたしは顔を上げた。
「なに?」
「どうして嘘、ついたの?」
「え?」
「なんで、わたしや晴花にいじめられてるって、嘘、吐いたの」
 わたしの言葉に、沙月はすうっと目を細めた。
「なんだあ、そんなことかあ」
 彼女はおかしそうに笑う。今までの不安げな表情は、全て消えた。背筋が寒くなった。
「この前塾で模試があったんだけど、やっぱり全然駄目でさ、お母さんに怒られちゃったんだよね。このままじゃまずいな、どうにかしなくちゃって思って、いじめられてることにしちゃおうって」
 そう話す沙月は、愉快そうですらあった。少し前、嘘をついてしまったと言って泣き崩れていた彼女の姿は、もう何処にもなかった。
「来週からはまた学校に行くからさ、そしたらまた仲良くしようよ。一緒にいたらみんな、ああ仲直りしたんだなって思ってくれるよ」
 わたしは沙月の言葉に応えず、もうひとつ問いかけた。
「圭太くんにまで嘘吐いたのは、どうして?」
「え? それ誰だっけ?」
 沙月は怪訝そうな顔をしてから、ああ、はるちゃんの幼馴染みね、と笑った。
「あの子、私のこと好きみたいだから。何だかね、可笑しくなっちゃって。うそついたらみんな心配してくれるでしょ? いじめられてるって、結構いろんな人に言ったんだけどね、みんなの反応、嬉しかったな。私みんなから好かれてるんだって思えて。圭太くんなんて最高だったよ。十年以上仲良くしてたはるちゃんと、縁切るなんて言いだしちゃって」
 わたしは目を伏せて沙月の言葉を聞く。唇を噛みしめた。
「よく、わかったよ」
 もう十分。十分だった。わたしはカーディガンのポケットに忍ばせていた、音声レコーダーのスイッチを切った。

     *

 日曜日の朝、わたしは祖母の部屋へと連れて来られていた。わたしは祖母の声に一切反応せず、部屋の端に立って、ベッドに座る祖母と、すぐ側で椅子に座る母の姿をぼんやりと眺めていた。
 母は時折祖母に話しかけるが、祖母はそれに一切反応しない。反応しない祖母に話しかける母。反応しないわたしに話しかける祖母。傍から見ると異様な光景だ。
 わたしは視線を母に向けた。この人は何故こんなに献身的に、ここへ通うのだろう。
 母は、にこやかに祖母に話しかける。一体どうやって、彼女は今までのことを水に流したのだろうか。母は桃の皮を剥く。小さく切って祖母に差し出す。祖母はそれに見向きもしない。母はゆっくりと、わたしに視線を移した。わたしはそれも無視した。

     *

 月曜日、予告していた通り沙月は学校に来た。本当に登校してくるか半信半疑だったが、彼女は青褪めた顔で教室のドアをくぐり、自分の席についた。わたしの前の席で晴花が動揺した表情を見せる。
「晴花」
「わかってる」
 土曜日、沙月がわたしに話したことは、全て晴花に聞かせてあった。沙月の方に目をやる。彼女はクラスメイトの女子たちに囲まれて、大丈夫、ありがとう、と繰り返している。手首に巻いてあった包帯はこれ見よがしに手の甲まで広がっている。あそこに居る女子全員、あの下には痛々しい切り傷があると信じている。彼女たちはちらりと、軽蔑するような目をわたしと晴花に向けた。わたしは目を逸らし、窓の外に目をやった。空は嫌味なほどに青かった。

 わたしたちの担任は世界史の担当で、毎回視聴覚室で適当な歴史関係のDVDを見せて授業にしている。真面目に映像を見ている生徒はほとんどいない。みんな自分の受験科目を復習したり、居眠りをしたりしている。わたしもジャンヌ・ダルクの生涯の音声だけを聞きながら、単語カードを捲っていた。
 時計を確認し、もうすぐ授業が終わる頃になると、ペンケースの中に入れた音声レコーダーを手に取った。火あぶりの刑に処せられたジャンヌが、イエスの名前を叫ぶ。物悲しいモノローグの後、スタッフロールが流れ始め、先生が再生機の電源を落とす。
「じゃあ、今日の授業はここまで」
 彼がそう言った瞬間に、晴花が立ち上がる。
「待って下さい」
 教室がざわつき、クラスメイトが少し驚いた表情で晴花の顔を見る。
「おい、何を」
「授業は終わったんですよね」
 先生の言葉をさえぎってわたしも立ち上がり、教壇に備え付けられたスピーカーにレコーダーを接続した。
「先生もみんなも、あたしと宮原夕理が塩田沙月をいじめていると思っていますが、それは嘘です」
 視聴覚室がまたどっとざわめいた。沙月の方に目をやった。口元を押さえ、目を泳がせている。わたしたちが何をしようとしているのか、わかっているようだった。
 ざまあ見ろ。
 わたしは少し笑って、再生ボタンを押した。ざーっというノイズの後、くぐもった声が聞こえる。――ゆうりちゃん? ――沙月に、聞きたいことがあって。
少し聞きづらいが、言っている言葉も、そこで話をしているのがわたしと沙月ということもはっきりとわかる。
「やめて!」
 沙月が悲鳴のような声を上げて立ち上がった。クラスメイトはみんな唖然としている。
「ゆうりちゃん、はるちゃん、もうやめて……」
「嫌だね」
 彼女の悲鳴で掻き消されないように、わたしは音声のヴォリュームを上げる。
――なんだあ、そんなことかあ。
「嫌……!」
 沙月は頭を抱えてしゃがみこむ。それを晴花が冷たい目で見ている。
――この前塾で模試があったんだけど、やっぱり全然駄目でさ、お母さんに怒られちゃったんだよね。このままじゃまずいな、どうにかしなくちゃって思って、いじめられてることにしちゃおうって。
 わたしは青褪めた先生の顔と動揺するクラスメイトを眺め、もうやめて、と泣きながら繰り返す沙月に視線を移した。
――うそついたらみんな心配してくれるでしょ? いじめられてるって、結構いろんな人に言ったんだけどね、みんなの反応、嬉しかったな。私みんなから好かれてるんだって思えて。圭太くんなんて最高だったよ。十年以上仲良くしてたはるちゃんと、縁切るなんて言いだしちゃって。
 よく、わかったよ、というわたしの声を最後に録音が切れた。わたしはスピーカーの電源を落とす。
「これが証拠です。すみません、以上です」
 わたしはそう言って、席に戻った。丁度その時、チャイムが鳴った。鳴り終わっても、誰も動けずにいた。
「授業は終わりなんですよね?」
 晴花が問う。
「あ、ああ」
 先生は頷いた。わたしは机の上の荷物をまとめ視聴覚室を出た。晴花が隣に並ぶ。
「あとは何してもいいよ、晴花」
 わたしは言う。晴花は頷き、へらっと笑って見せた。

 その次の時間から、沙月は保健室に行った。クラスの雰囲気はしばらく凍ったようだったが、次第にみんな、わたしと晴花に謝罪をしてくるようになった。わたしたちは彼らを笑って許し、
「沙月のこと、どうか責めないであげてね」
 と言うのを忘れなかった。沙月に制裁を加えるのは、わたしと晴花だ。
「あの子の家、厳しいみたいなんだ。それで追い詰められてたんだと思うの」
「あたしたちもあんなことしたくなかったんだけどね、でも、こうでもしないと……」
 そう言うと、みんな真剣な顔で頷いてくれた。あんなことあっても、やっぱり友達なんだね、と言われる。当たり前だよ、と返す。胸の奥はぐるぐると渦巻く。笑顔を保つのがかったるい。辛くも悲しくもなかったが、ただ猛烈にかったるかった。

 放課後、わたしと晴花は沙月のいる保健室に向かった。ベッドにはカーテンが掛けられ、沙月はまだ眠っているようだった。が、晴花は容赦なくカーテンを開ける。シーツは眩しいほどに白かった。清潔そのものだ。この古い保健室の中で、その色はまるで現実味がなかった。沙月が眠っていないことは分かっていた。布団を被った沙月に、わたしは囁くように言った。
「演劇部、活動再開出来るから部室で待ってるね。もし来なかったら、あの音声あんたのお母さんに聞かせるから」
 布団の中の沙月が、びくりと震えるのがわかった。
「全部あんたが悪いんだよ」
 おかしそうに晴花が言う。
 わたしたちは保健室を後にして、一週間振りに部室に入った。
「これからどうすんのかな、あたしたち」
 晴花が言う。
「どうもしない。公演もしない。演劇部は終わったんだ」
 わたしの言葉に、晴花は然して感情を出すこともなく頷いた。彼女は窓を開け、ああ今日も暑いねえ、と呑気なことを言う。そうしていると、二週間前の晴花と変わらないように見える。わたしに、卒業旅行は北海道にしようよ、と言った彼女と。
「まあ、いいよ」
 けれど、もう違う。
「ここは、沙月をいじめるためだけに使う」
 そうだね。わたしはそう言って目を伏せた。

 三十分が経った頃、部室のドアがゆっくりと開いた。わたしはそちらに目をやる。
「遅かったね、沙月」
 わたしの言葉に、沙月は睨みつけるような視線を返した。晴花は椅子から立ち上がり、部室の鍵を閉めてから沙月に向き直った。
「ねえ、何かあたしたちに言うことがあるんじゃないの」
 入口で俯いたまま立ち尽くす沙月の顔を覗き込む。沙月は俯いたまま視線を逸らす。にやにやと笑っていた晴花の表情がすぐに消え、彼女は右手で沙月の頬を殴った。
「謝れって言ってんだよ」
 沙月は頬を押え、目を見開いて晴花を見た。
「土下座して謝れ」
 晴花は沙月を見下す。沙月は泣き出しそうに表情を歪め、そのままゆっくりと床に手をついた。震える声で、ごめんなさい、と言う。晴花はその背中を、足で押さえつけた。
 パソコンの前でその様子を眺めていたわたしに、晴花が言う。
「夕理、こいつもあたしたちと同じことするかもしれないから、持ち物全部調べて」
「わかった」
 わたしは立ち上がり、沙月のスカートのポケットと鞄の中を探る。音声レコーダーのようなものは見つからなかったが、鞄の内ポケットの中から携帯電話が出てきた。わたしはそれを晴花に渡す。
「これはあんたが持っておいたら?」
 そうだね、と晴花は愉快そうに笑う。
「やめて……」
 震えた声で沙月は言うが、晴花はげらげらと笑いながら沙月の背を押えつけていた足を頭に移した。
「そんなことが言える立場かよ!」
 土下座したままの沙月の頭を、晴花は踏み付ける。沙月が呻き声を上げるのを聞きながら、わたしはまだ、彼女の鞄の中を探っていた。
「財布は?」
「現金だけもらっとこうかな」
 晴花の言う通りに、わたしは沙月の財布から現金を抜く。
「苦しい? 痛い?」
 優しい声で晴花は言う。足の力を緩めることはない。何も答えない沙月を睨みつけ、彼女はその右耳を思い切り蹴った。沙月が呻き声を上げてうずくまる。
「痕が残らないようにやれよ」
 わたしはそう言って、椅子に座った。
「難しいこと言うねー」
 晴花は笑う。わたしはそれを無視して、自分の鞄からノートと万年筆を取り出す。顔を上げた瞬間、眩暈がした。酸素が薄い。空気が重い。わたしは思い切り息を吸いこんで吐くが、まるで呼吸をした気にならない。
「ずっと続くからね」
 晴花は言った。
 わたしは彼女を一瞥して、ノートを開く。びっしりと並んだ自分の文字がこちらを見ている。ページを埋め尽くす、沙月の虚言。わたしは万年筆のキャップを取り、新しいページにこの部屋の描写を始める。
――壊れてしまった。
 閉め切った部屋は蒸し風呂のように暑かった。晴花だけが涼しい顔をしている。沙月の顔は汗と涙でぐちゃぐちゃだった。太陽は西に傾き始めているが、まだ随分高く強い光を注いでいる。二回戦で敗退した野球部が新体制で練習を始めている。その中に、圭太の姿はもう無い。
「許すつもりはないから」
 公演はもう出来ない。新しい脚本を書く必要もない。左手は今も、重い。
 だがわたしは万年筆を走らせ続けた。意味はない。何の意味もない。けれど書いておこうと思った。わたしたちの終わり方を。

     *

 沙月が巻いた包帯の下には、傷一つない綺麗な手首があると、皆思っている。あんなことがあっても彼女はまだ、嘘をついているのだと皆思っている。本当は、包帯の下にいくつも切り傷がある。制服の下には青痣が広がっている。
 彼らは嘘が本当になったことを知らない。わたしはパソコンに向かい、キーボードを叩く。傍らに置いた花柄のノートに視線を移す。わたしの字が、克明に状況を伝えている。沙月の言葉。晴花の行為。わたしの傍観。終わりに向かう全て。

 放課後の部室で、床に座り込む沙月を晴花が見下ろしている。白いブラウスや床に、沙月の長い黒髪がばらばらと散っていた。晴花はハサミを握ったまま、
「似合ってるよ」
 と、笑った。髪を短くまばらに切られた沙月は、力なく晴花を見上げる。
「満足した?」
 疲れた声で沙月は尋ねた。その言葉に晴花は苛立ったように顔を歪めた。
「満足? 何それ」
 うつろな表情のまま、沙月は晴花を見ている。晴花は何かを言おうとして、何も言えず、握っていたハサミを床に叩きつけた。高い音が鳴った。
「言ったでしょ。ずっと続くって」
 震えた声で晴花は言った。その目は、ひどく疲れていた。
「許せないんだよ、あたしは」
 沙月は目を伏せた。わたしは何も言わなかった。
 沙月は、一切の抵抗を見せなかった。晴花が脱げと言えば、固定したビデオカメラの前で彼女は服を脱いだ。剃刀で手首を切れと言われれば切った。死ねと言われたら、彼女は死んだかもしれない。
 
「夕理?」
 部屋をノックする音。母の声にわたしは、なに、と小さく応える。
「また起きてるの? 明日もおばあちゃんのところに行くんだから、早く寝なさいよ」
 わたしは祖母に笑いかける母の笑みを思い出す。母はどうして、あんな風に笑うのだろう。疑問が、再び頭の中を埋め尽くした。わたしは立ち上がり、ドアを開けた。
「ちょっといい? 話があるんだけど」
 母を招き入れる。どうしたの、と尋ねる彼女を、わたしは振り返る。
「母さんは、おばあちゃんのこと嫌いだよね」
 母の表情が曇る。わたしは目を逸らして続ける。
「ずっと聞こうと思ってたんだよ。何であんなに甲斐甲斐しく、わたしまで連れてホームに通うのか。だってそれまで何年間も、お盆と年始のあいさつくらいしか顔合わせてなかったでしょ。どんな理由があるの」
 母は一瞬酷く狼狽したような表情を見せた。それから青い顔で、わたしの顔を見た。自分によく似た娘の顔を見て、彼女は一瞬何かに耐えるように表情を歪め、口を開いた。
「あの人、認知症にかかる前からおかしかったでしょう」
 母は、一瞬見せた動揺と思い詰めた表情を消し、静かな声で言った。それは、母から初めて聞く、彼女と祖母の確執の始まりだった。
「あの人にとってわたしは、思い通りにならない娘だった。あの人は娘には音楽をさせたいと思っていたけれど、わたしは小さな頃からスポーツの方が好きだったし、あの人が受けさせたかった中学受験も受けなかったし、高校も、大学も、就職も、あの人の言葉はみんな無視して選んだ。極めつけは結婚相手ね。あの人は、最後まであんたのお父さんと結婚するのを、反対していた」
 母はわたしを見る。
「わたしはあの人のことが嫌いだったし、あの人もわたしを可愛くない娘だと思っていたんでしょうね。あんたが生まれてからは、わたしにさせたかったことを全部あんたにさせようとしてた。全部拒否したけどね。その頃はまだ良かったの。おかしくなったのは、おじいちゃんが亡くなってから。あの人はあんな性格だから味方なんて自分の夫くらいしかいなかった。その人を亡くして、気付けば回りはみんな敵。そこで目をつけたのが、夕理、あんただった」
 わたしは頷いた。それからは、わたしの記憶にも鮮明に残っている。
「あの人は幼いあんたに縋ろうとしていたのね。周りを一切排除して、自分だけを向くように」
「……それでこんなに嫌われるんだから、馬鹿な話だよね」
 冷たく言い放ったわたしに、母は力なく、そうね、と応えた。
「夕理が中学を卒業する頃、一度しっかり話をしようと思ったの。あの人はその頃からまだら呆けが出るようになっていたし、いずれは同居しなきゃいけないかもしれないって思ってた。……この何十年間を水に流すことは出来ないかもしれない。でも、ちゃんと向き合って話したことって今まで一度もなかったから。何があっても、親子だし、きっと話せばわかり合えるって思ってたの……でも駄目だった」
 母はそこまで言って口を噤む。わたしはちらりと彼女の方を向いた。母は唇を噛み、ゆっくりと一度瞬きをしてから、意を決したように、続きを話し始めた。
「結局言い合いになった。あの人は、思い通りにならない出来損ないの娘なんか要らないって言った。わたしはあの人にとって人形と大差なかった。悲しかった。何処かで、きちんと愛情を向けてもらえるって信じてた。でも、思い違いだった。わたしは逆上してて――自分が何を言ったのかは覚えてないけど、多分あの人の癪に障るようなことを言ったんだと思う。わたしたちは二階の父さんの部屋で話をしてたんだけど、怒ったあの人は部屋を出て階段を降りようとした。わたしはそのあとを追って……その背中を見て、殺してやろうって思った」
 わたしは小さく、え、と呟いた。
「階段から突き落として、殺してやろうって。その時本気で思ったの。躊躇う間もなく、わたしの手はあの人の背中を突き飛ばしていた。あの人が転がり落ちる音で我に帰った。その途端に恐ろしくなった。わたしは、人を、」
 淡々と話していた母だったが、当時のことを思い出したのか、両手で顔を覆った。
「わたしは人を、殺そうとしていたんだって」
 母は言う。
「罪滅ぼしなのよ、夕理。わたしの罪滅ぼしに、あんたを使っているだけなのよ。あの人はわたしが突き飛ばしたことを知ってた。わかってた。でも何も言わなかった。あの人のことだから、すぐに警察に通報すると思ってた。でもしなかった。何でだと思う?」
「……それは、母さんのためじゃ」
 母は首を振った。
「あんたのためよ、夕理。あんたを犯罪者の娘なんかにしたくなかったからよ」
 わたしは母の目を見た。こうしてきちんと母の目を見るのは、何年振りかわからなかった。止めておけば良かった。疲れたその目の色を、わたしはここのところ何度も見た。晴花と同じだ。みんな同じだ。取り返しのつかない悲しみと憎しみを湛えた目だ。
「救急車を待つ間、あの人はわたしに言ったの。折れた足の痛みに顔を歪めながら、わたしを睨みつけて言った」
 わたしは目を、逸らすことが出来ない。
「あんたなんか、生まれてこなければ良かった」

     *

 祖母の部屋で、わたしたちはまた、交わらない視線を送り続ける。わたしは今日も母の罪滅ぼしに付き合い、祖母を一層嫌いになっていく。この人は、わたしのことも愛してなどいないだろう。わたしを見て優しい目で笑う祖母を、視線の端で捉える。
「ゆうりちゃん、大きくなったわねえ」
 そこには誰もいない。
「ランドセルは気に入ったかしら」
 この人が大事なのは、もういないあの頃のわたしだ。この人は今、誰にも愛されていないかもしれない。それはもちろん哀れだと思うが、それ以上に哀れなのは、この人が愛している人間も、もう何処にもいないことだ。
 哀れだ、なんて。
「母さん」
 母が祖母を呼ぶ。
「ほら、桃が剥けたわよ」
 わたしは母の顔を見た。何の感情も見えない。まるで今初めて渡された脚本を読んでいるようだった。

 わたしは部室のパソコンに向かって、脚本を書いている。クラスの用事で晴花が遅れているため、沙月と二人だった。沙月は何も言わない。そのまま、しばらく経った。ふと集中力が切れ、わたしは汗を拭って沙月を振り返った。彼女は椅子に座ることもせず、ずっと入口に立っている。
「今日は晴花、来ないかもしれないよ」
 わたしは言う。
「そう」
 沙月は短く応える。
「逃げないんだね」
 声が震えたことに少し驚いて、わたしは一度口を閉じた。喉の奥が熱かった。涙がこみ上げた。唇を噛む。違うだろう。そうじゃないだろう。わたしは、こいつを殺したいほど憎んでいたんじゃなかったのか。祖母と同じくらいに。
 一度呼吸を整え、わたしは再び口を開く。
「怖いから? お母さんに嘘がばれるのが。もう、うそなんて何処にもないけど」
「……そうだね」
 沙月は黙った。彼女は顔を伏せ、それから肩を震わせ始めた。泣いているのだと思っていた。しかし沙月は次第に腹を抱え、声を上げておかしそうに笑いだした。
「沙月……?」
 背筋が凍った。風通しの悪い蒸し風呂のような部室の温度が、下がった気がした。
「ねえ、ゆうりちゃん」
 歪んだ笑みで、沙月はわたしの方へ歩いてくる。わたしは思わず椅子から立ち上がり、後ずさる。
「本当のこと、教えてあげるよ」
 沙月は言った。
「ずっとねえ、待ってたんだ。こうなるのを」
 笑みは泣き顔のようになり、笑い声は悲鳴のように聞こえた。
「全部嘘だよ」
 にい、と口角を上げ、沙月はわたしの目を覗き込む。
「点数が上がらなくてお母さんが口を利いてくれないだなんて嘘。部活を辞めろって言われただなんて嘘」
 彼女の言葉に、わたしは目を見開く。
「あの人は、私のことなんて何ひとつ見てなかったんだよ」
「どういう……」
「はじめから全部嘘。演技だったんだよ。こうやって、いじめの対象になるのがそもそもの私の目的だったの」
 彼女が何を言っているのか、わたしには理解出来なかった。
「お母さんはね、最初から私に何の興味もなかったの。お父さんと離婚してからずっと。何度も彼氏を替えて遊ぶばっかり。私はその間ずっとひとりだった。寂しくて悲しくて、何でもやったよ。いい子にしてたし、いつも一番を取った。でもお母さんは何も見てくれなかった」
 お母さんにまた怒られて、と困った顔をしていた沙月を思い出す。今まであまりにたくさんのものを受け取ってしまったから、何をされても嫌いになれないと、言っていた、あれは――
「高校生になった時に、今度こそはって思った。今度こそお母さんに見てもらうんだって。そう思って演劇部に入った。でもねえ、駄目だったよ。高校生の演劇を見に行くくらいなら好きな人とプロの芝居を見る方がいいって言われたよ。そんなこと言われたら舞台に立つ意味なんかないじゃない。だから反対されてる振りしてずっと裏方やってた。お母さんが観に来てくれる時、初めて舞台に立とうって思ってた。でもそんな日は来なかったよ」
――あれは、全部、嘘だったと言うのか。
 沙月は笑う。
「何しても駄目だった。どんなに頑張っても見てもらえない。他の方法を考えるしかなかったよ。それがね、これだった。いじめに遭えばいいんだって思った。私が毎日痛めつけられて帰ったら、お母さんはきっと私の方を見てくれる。今度こそ見てくれる。そう思ったんだよ」
 笑い転げる沙月を、わたしは呆然として見下ろしていた。ここまでが、沙月の書いたシナリオだったのか。
「ちょっと落ち着いた声で話したら、先生、わたしのことお母さんだって信じちゃって。演劇部の二人に娘がいじめられてるって言ったらすぐ動いてくれたんだよね。圭太くんのことは想定外だったけどラッキーだったよ。もちろん、ゆうりちゃんが録音機を部屋に持ちこんだことも気付いてた。世界史の時間に流すこともわかってた。全部、全部私の考えた通りだった。はるちゃんもゆうりちゃんも派手に痛めつけてくれたよね。これで、今度こそ上手くいくって思ったんだよ」
 寒気がする。鳥肌が立つ。彼女の目を見てわたしは思った。そこにあるのは、狂おしいほどの執着と、寂寞だ。
「だからさあ、やめられないんだよ。私は」
 沙月の表情が崩れる。
「ねえ殴ってよ。もっとめちゃくちゃに殴ってよ」
 縋りつくような彼女を、わたしは突き飛ばした。恐怖に思わず呼吸が荒くなる。沙月は泣きじゃくりながら言った。
「お願いだよう、ゆうりちゃん。おねがい。こうしないと、こうでもしないと、愛してもらえないんだ、私。ひとりぼっちなんだよ。寂しいんだよ」
 奥歯を噛む。絞り出すように、わたしは言った。
「馬鹿だよ」
 もう、よくわからなかった。
「わたしたちは、ずっと側に居たのに」
 このシナリオを、わたしはどうやって終わらせればいいんだ。
「もう、戻れないよ」
 わたしはパソコンからデータを抜き、鞄を引っ掴んだ。逃げるように沙月の脇を通り抜け、部室を出た。
「夕理……?」
 そこに、晴花がいた。
「何、泣いてんの?」
「最悪だよ」
 わたしは眼鏡を外し、歪んだ視界をシャツで拭って、言った。
「何もかも全部最悪だ」
 そう言って膝を折るわたしを、晴花が笑った。
「何を今更。わかってるよ。最悪だよ。あたしも、あんたも、沙月も、何もかも全部最悪だよ。でも、」
 晴花はわたしを見下ろした。
「戻れないんだよ、もう二度と」
 苦痛に耐えるような表情で彼女はそう言って、部室のドアを開けた。それがゆっくりと閉まって行くのをわたしはただ、見ていた。

     *

 ぱん、と沙月が手を打った。
「はい、ここまで」
「え、ここで二時間?」
 晴花が時計に視線を移しながら言う。
「うん。前口上からここまででジャスト二時間」
 沙月が頷いた。
「うわー、マジか。あと三場くらいあるのに」
 わたしは膝を折っていた体勢から、そのまま床に座り込んだ。
「あーあ、出ちゃったよ、宮原夕理脚本の悪い癖。公演予定時間を大幅に過ぎる」
「いやー、今回はやばいかなーって思ってたんだけど」
「だったら通しの前に何とかしとけよ」
 晴花が呆れたように言う。沙月は机の上に置いた脚本を見返して、
「今は暗転のタイミングを適当に取ってるから、実際の公演になるともっと余裕ないかもね」
 と苦笑を洩らした。彼女の隣から脚本を覗き込み、わたしは眉間に皺を寄せる。
「止むを得ん。削るか」
「何処削る?」
「一人二役きついんですけど」
「そこは削りません」
「えー」
「そんな顔しても駄目。沙月だって二役なんだから我慢して!」
「はるちゃん良かったよ! 超良かった! 大丈夫大丈夫! できるできる!」
「沙月凄い! 全然気持ちがこもってない!」
 晴花は沙月の称賛にげらげらと笑いながら、ジュースに口をつける。勝手に休憩に入る晴花を放って、わたしと沙月は一場から脚本を見直す。書き込みでいっぱいになったページを、一枚一枚捲っていく。
「あのさ、ここのシーンなんだけど、ゆうりちゃんの独白だけにしたらどうかな……」
「あー、なるほどね。似たようなシーン多いしな」
「ねえねえ! ふたりとも!」
 声を上げる晴花を、わたしと沙月は振り返る。
「何だよ」
「ねえ、その続きマックでやろうよ」
 へらへらと笑いながら晴花は言う。わたしはため息をつく。
「お前はそうやってすぐにマックに行きたがる」
「えー、だってさあ、どうせ今日脚本の修正で終わっちゃうでしょ? だったらマック行ってやろうよー。あたしも手伝うからさー」
 わたしは眉間に皺を寄せたまま眼鏡を上げ、沙月の方を見た。どうする、と無言で尋ねると、彼女は目尻を下げて笑いながら、
「いいんじゃないの? 行こうよ、マック」
 と言った。勝ち誇った表情を浮かべる晴花に、わたしは大きくため息をついてから眼鏡を上げ、緩く笑った。
「わかったよ。でもついでだから、最後まで通してからにしよう」
「よし! 任せろ!」
 晴花は脚本を確認し、にっと笑って頷いた。
「そう言うわけで沙月、よろしく」
「はーい」
 沙月は腕時計で時間を確認する。
「じゃあ、次のシーンからね。よーい、はじめ!」

     *

 わたしは、一心不乱にキーボードを叩いていた手を、止めた。造り上げていた世界が現実に溶けて消えていく。ここに居る自分の輪郭がはっきりするにつれて、わたしは思った。こんなシーンは、要らない。キーを押し、消えていく文字を追う。まだこんなにも鮮明に、あの頃の自分たちが描けることに少し驚いていた。どうしてだか喧嘩腰になってしまうわたしと晴花。それを楽しそうに見ている沙月。それさえも嘘だったのだろうか。わたしたちはずっと、虚構の中で笑ったり泣いたりしていたのだろうか。
 ぱん、と手を叩けばこの虚構が終わって、やれやれ、お疲れさまでした、と顔を見合わせて笑えないだろうか。そんな幻想に縋るほど、わたしはもう疲れていた。
 わたしは頭を抱える。その時、携帯が鳴った。晴花からだった。わたしは通話ボタンを押し、もしもし、と小さく言った。
「夕理? 起きてた?」
「うん」
「ちょっと、話がしたくなって」
「どうした?」
「あたし、もう嫌だ……沙月のこと、許せないのが嫌だ」
「……そっか」
「本当はもう、いいんだ、あたし。最初はね、沙月のこと殺したいくらい嫌いだって思ったし、酷いことならなんだってしたかった。でも、自分の感情を沙月にぶつけるたびに、自分がどんどん最悪になって、もう、辛いんだよ。でもどうやってやめていいかわからない。どうしたらいいんだろうって、思って」
「……うん」
「なんで、こんなことになっちゃったんだろうって」
「わたしも今、同じこと考えてた」
 電話口の向こうで。晴花は鼻をすすった。勝手なものだった。わたしも彼女も、沙月も。
「どうしたらいい?」
「もうやめよう、全部」
 わたしは静かな声で言った。
「明日三人で顔を合わせて、それでもう全部終わりにしよう。沙月はもうもとに戻らないし、わたしたちも戻らない。でも、これ以上は、もう、やめよう」
「……うん。そうだね」
 絞り出すように、晴花は言った。それから少し笑って、彼女は続けた。
「さっき、夢を見たよ。沙月が手を叩くんだ。はい、ここまでって。あたしたちは演技をやめて、あんたが書いた脚本を覗き込むの。夕理の脚本には、あたしと沙月が一緒に買った万年筆でたくさん書き込みがしてある。ココア色だって、沙月が言い張ってたあのインク」
 わたしは、花柄のノートにびっしりと並んだ自分の字を見下ろす。

 思い出すのは、去年の四月。
 わたしの十七歳の誕生日のことだった。
――夕理ちゃん、誕生日おめでとう! これねえ、はるちゃんと一緒に買ったんだ。ね?
――奮発したんだから大事に使えよ。
 沙月に手渡された箱を開くと、黒い万年筆と、十本の予備のインクが入っていた。わたしはキャップを開け、ノートに線を引く。
――凄い色だな、これ。
――わ、ほんとだ。
――晴花お前……知らなかったのかよ。
――インクの色は沙月に任せたんだよ。
 沙月はインクの色を見て、にこにこと笑った。
――ココア色だよ。夕理ちゃんココア好きだから。
――ココアと言うか……。
――錆色だなあ。
 それはどう見ても赤茶けた、錆の色だった。
――ココアだよう。
 わたしと晴花の言葉に沙月は口を尖らす。わたしはそれを見て笑った。
――でも、嬉しい。ありがとう。大事に使う。

 こんなことになっても、この万年筆だけは手放せなかった。わたしが二人を好きだった証だ。二人がわたしを好きだった証だ。楽しかった記憶も、これからの約束も、全てこの錆色のインクで書いてきたのに。
「真っ赤な嘘なら良かった。全部」
 晴花は言った。わたしは何も言わなかった。晴花は、ふ、と息を吐き、少し明るい口調で言った。
「ごめん。ありがとう。また明日ね」
 おやすみ、と言って電話を切った。
 これで良い。これで良いのだ。わたしは目を伏せ、手元にあった万年筆を握りしめた。

     *

「明後日から夏休みだね」
 放課後の部室。蒸し風呂のような室温。パソコンに向かうわたしの背中を、晴花が眺めている。夏休み何処に行く? なんて、言い出しそうな晴花の口調。
「うん。丁度良かったな」
 わたしは振り返る。うまく笑えている気は、しなかった。わたしたちに、一緒に過ごす夏休みなんて来ない。
「あたし、謝る気はないよ」
「それでいいと思うよ」
「ただ、終わりだって」
「そう。さよならって言うためだけに」
 わたしたちは会話を止めた。ドアノブが回るのが見えた。ごめーん、遅くなっちゃった。そう言って目尻を下げて笑う沙月を思い出した。ゆっくりとドアが開く。わたしと晴花はそちらを見ていた。ふらつくような足取りで、沙月は部室に入ってくる。沙月は赤い目をわたしたちに向けた。彼女は鞄を開ける。
「沙月、話が、」
 言いかけた晴花が、言葉を止めた。立ち上がり、後ずさる。沙月が鞄から出した、不自然な銀色を目の当たりにしたからだった。
「沙月?」
 悲鳴のような声で晴花が沙月の名前を呼ぶ。沙月は包丁の柄を握りしめている。
 一瞬だった。悲鳴を上げる暇もないほど。沙月は刃を向けたまま、晴花の胸に飛び込んだ。
「何、で」
 目を見開く晴花。一瞬遅れて悲鳴が聞こえた。自分の声だった。晴花は崩れ落ちる。
「さ、つき」
 沙月の白いシャツが赤く染まる。沙月は晴花の胸に刺さったナイフを抜く。びゃっと血しぶきが散った。返り血を浴びた沙月がわたしを見る。からん、と音がして沙月の手から包丁が滑り落ちた。血だまりの中で銀色がてらてらと光った。
 沙月が、晴花を。
 晴花が――。
 吐き気がした。わたしは床に座り込み、両手で必死に口元を押さえる。涙が滲んで指先が震えた。
「……ゆうりちゃん」
 沙月に名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。彼女は晴花を見下ろした。
「私、人殺しだねえ」
 何で笑うんだ。わたしは嗚咽を洩らしながら、歪んだ視界に沙月の笑顔を認めた。息が、出来ない。
「ねえ、お母さんね、赤ちゃんが、出来たんだって。だから、結婚するんだって」
 過呼吸を起こすわたしに、静かな声で沙月は語る。
「そんなの許せなくってさ」
 晴花を見た。彼女は目を見開いたまま、血だまりの中で動かなくなっていた。
「だから、私が枷になってやるの。人殺しの母親にしてやる。そしたらもう、お母さんは何処にも行かないでしょ。ずっと私に囚われて生きなきゃいけない」
 沙月は堪え切れなくなったように、笑い声を上げる。
「ちが……う」
「え?」
 沙月は笑うのをやめて、わたしを見下ろした。
「ちが、うよ、沙月……」
 止まらない過呼吸に喘ぎながら、わたしは言葉を絞り出す。
「あんたのことを……あんたのことを、愛してくれたお母さんはね、もう、この世界の、何処にもいない。だから……何をしても、無駄だよ。その人は、あんたを置いて、何処へでも、行くよ」
――ゆうりちゃん、大きくなったねえ。
「あんたは、もう、何処にもいない人に……縋りついてる、だけだよ」
――ランドセルは気に入った?
 沙月の表情が、消える。わたしは黙って、呼吸を落ち着ける。言わなくては、事実を言わなくては。言葉を、彼女に。わたしは大きく、息を吸った。
「もうやめなよ。もう、全部遅いけどさあ、もうやめなよ。そんなの。あんたもう愛されてないんだよ。十年以上前に捨てられてんだよ。そんなんわかってたじゃん。最初から、わかってたでしょ。なのにそんなものに縋ってさ、馬鹿だよ。馬鹿だ。あんたは馬鹿だ!」
 悲鳴のような声でわたしは言った。目の前がざっと砂嵐に覆われる。耳鳴りと眩暈に耐えながら、顔を上げる。沙月は呆然とした表情のまま、わたしを見ていた。その目から、つう、と涙が落ちる。揺らいだ黒目がわたしを捉える。
「わたしたちは側に居たのに!」
 頭に血が上っていた。わたしも刺し殺されるかもしれない。けれど震えは止まり、恐怖心も無かった。
「ずっと側に居たのに……なんで、こんな風になっちゃったんだ。なんで……。晴花はもう、あんたに酷いことしたくないって言ってたんだよ。いっそ全部嘘なら良かったって。真っ赤な嘘なら良いって言ってたのに! なんで! なんでこんなことしたんだよ!」
 涙が零れた。
「そっちを殺せよ。あんたの頭の中に居る、あんたを愛してくれる優しい母親を殺せよ。もうそんな人何処にもいないんだからさあ!」
 傾き始めた太陽が、部室を照らす。晴花はくたびれた錆色の中に身を沈めている。
「できるわけ、ないじゃない」
 震える声で沙月は言った。
「私に出来るわけ、ないじゃない」
 沙月はそう言って、血だまりに落ちた包丁を取った。わたしは沙月をまっすぐに見ていた。沙月はわたしに向けていた刃を、自分の方に向ける。包丁の柄を、わたしに差し出す。
「ゆうりちゃん、殺してよ」
 沙月は言う。そんなに言うなら、殺してよ。
「私ごと、私の中のお母さん、殺してよ」
 わたしは差し出された包丁に手を伸ばす。その柄に手が触れるか触れないかで、手はがくりと落ちた。カラン、と目の前に包丁が落ちる。
「ごめんね」
 沙月はわたしの方を見て、言った。
「嘘だよ」
 彼女はそう言って笑った。嘘をついた。沙月はふらふらと歩き、窓を開けた。夏の湿気を含んだ空気が、部屋の中へ入り込む。空はまだ青かった。ほのかに金色が混じっていた。沙月は窓に足を掛ける。
「さつき!」
 ここは四階だ。下はアスファルト。落ちたら助からない。わたしは手をついて立ち上がる。
「ねえ、ゆうりちゃん」
 もつれる足で、窓の方へ必死で進む。もう少し。わたしは手を伸ばす。沙月の身体が傾く。
「私、生まれてこなければよかったな」
 わたしの手は、空を切った。

     *

 祖母の部屋を訪ねた。ベッドに座った祖母は、わたしを見て目を細めた。わたしの後ろには、母がいる。
「いらっしゃい。ゆうりちゃん」
 彼女はわたしの目を見て言った。
「今日はいい天気ねえ」
 そこにわたしは居るだろうか。このわたしは、彼女の目の中に居るだろうか。
「ゆうりちゃん、大きくなったねえ」
「……うん」
「ランドセルは気に入った?」
「……うん」
 わたしはほとんど泣きながら、何度も頷いた。
「そう、良かった」
 祖母はそう言って、母の方を見た。祖母と視線を合わせた母は、目を見開いていた。
「陽子」
「なあに、母さん」
 母の顔が、泣きそうに歪む。
「ゆうりちゃん」
「なに?」
「許してくれなくて、いいのよ」
 その言葉に、わたしは膝をつく。しゃがみこむわたしの頭に、祖母は手を置いた。
「なんて、ね」
「え?」
 わたしは顔を上げる。
「……さつき」
 沙月はわたしの頭からそっと手を離す。
「ごめんね、ゆうりちゃん」
 視界が歪む。涙が落ちる。
「なに泣いてんだか」
 呆れたような声に、わたしは振り返る。さっきまで母がいた場所に、晴花がもたれかかっていた。
「はる、か」
 嘘だ。これは全部、わたしの造り上げた虚構だ。
「ほら、ココア奢ってやるから元気出せ、夕理」
「マックも行くんでしょ?」
 晴花の言葉に、沙月が苦笑いを零す。
「沙月」
「うん?」
「わたしは、どうすれば良かった?」
 沙月は困った顔で首を振った。
「もう、いいのよ」
「ほらほら、うだうだ言ってないでマック行こ。卒業旅行の計画も立てよ」
 晴花の言葉に、沙月が楽しそうに頷く。
「ねえ、沙月、晴花」
 わたしは言う。二人は少し首を傾げる。
「買ってもらったインク、あったじゃない。あの、万年筆の。あれさ、もうすぐなくなりそうなんだ。だから、また買ってよ、次の誕生日に」
「もちろんだよ」
 沙月はしっかりと頷いた。
「また錆色な」
 晴花もにやにやと笑う。
「その頃にはわたしたち、大学生だね」
 沙月が晴花の方を見た。二人は顔を見合わせ、泣きそうな目をして、笑った。
「ねえ」
 沙月は晴花の方を見て、口を開く。
「生まれてこなければよかったなんて、嘘よ」
 ずっと続けば良かった。ずっと。あんな酷いことは全部、あの錆色のインクが書いた、勝手な虚構だったことにして、脚本にしてしまいたかった。タイトルは、そうだ、錆色の虚構。晴花は陰気な話だと笑い、沙月は難しいねと眉間に皺を寄せてくれただろう。でも、そんなことは出来ない。現実はこっちだ。もう終わらせなくちゃいけない。こんな虚構は。
 わたしは胸の前で手を広げる。そして大きく、ぱん、と鳴らした。
                                    暗転、幕


                            

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