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【短編小説】浮遊する最果て

1.
 重く暗い空気が、向かい合うふたりを包んでいる。
 彼女は口を固く結んだまま、決して僕の方を見ようとはしなかった。僕は戸惑い、目を泳がせた末にコーヒーカップに視線を落とす。食後に飲んでいたカフェラテはすっかり冷め、カップに膜を張っていた。
 壁に掛けた時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。規則正しく、沈黙を責めるように鳴る。その針が一周回りきる頃、
「別れて欲しいの」
 耐えられなくなったように、彼女が顔を上げた。
 張り詰めた静寂が壊れ、重たい空気は終わりの色を纏ってふたりの間に横たわった。僕は冷めたカフェラテから、視線を動かさなかった。驚くことは何もない。もう、わかりきっていたことだ。

 ここ数ヶ月僕らは「付き合っている」とは言い難い状況だった。連絡もほぼ取らず、たまにどちらかが会おうと声をかけても、都合がつかずに話は流れた。すれ違いばかりが続き、そのうちお互い誘うこともしなくなった。
三ヶ月ぶりに声をかけたのは、僕の方だった。
このままでは二度とこの関係の軌道修正ができないと思ったからだ。だが僕はどうやら考えが甘かったらしい。
 最寄り駅に着いた瞬間から、酷く居心地が悪かった。久しぶりに会ったから感覚が掴めないだけだと自分に言い聞かせて、なるべく優しい言葉と笑顔で彼女に接した。それでも途切れる会話と合わない視線に、次第に空気は重くなっていった。軌道修正なんてもう、とうの昔にできなくなっていたのだ。そして彼女は当然のように、別れて欲しいと、そう言った。
「……どうして」
 僕は形式的に、乾いた声で聞き返す。
「こんなのもう、付き合っていないのと同じでしょう」
 単調な声が返ってくる。僕は顔を上げ、彼女を見た。ようやく視線が合う。その、色素の薄い、少し垂れた優しげな目が好きだった。まだ好きなのかと問われれば、僕は肯首しただろう。彼女は苦しげな表情を浮かべている。泣きそうにも見えた。僕はただ、もう取り返しがつかないと、そう思った。
「そうだね」
 僕は再び目を伏せ、薄く笑った。
「仕方ないよ。ここのところ随分……すれ違っていたからね」
 だから、仕方がない。繰り返すように、僕は呟く。
 そして彼女は部屋を出て行った。いずれ彼女と一緒に暮らすことを見据えて借りた2DKの部屋が驚くほど広く感じられる。ダイニングの椅子に座ったまま茫然としているところに、電話の着信が入った。
 地元の市外局番に、少し怪訝な思いを抱きながら僕は通話ボタンを押した。

    *

 生まれ育った海辺の町に帰ってくるのは正月以来、半年ぶりだった。僕の住む町からここまで車で一時間程度だ。気軽な距離だが、盆と正月以外は滅多に帰ってこない。そんな道のりを、僕は昨日の夜から一往復半走っている。昨日は父が倒れたという連絡に慌てて駆けつけた。そして今日は、父の葬儀に出るために帰ってきた。
 車の窓を開け、国道から海を臨む。海はすっかり夏の様相だ。水平線の彼方では絶え間なく強い光が揺れていた。深い青が空との境でひしめきあう。風は水分を存分に含んでいて、いつもよりも潮の匂いが濃く感じられた。生まれ育ったふるさとの色と香り。父とふたりで過ごした町の、色と香りだった。

 父は、何の前触れもなく死んだ。
 病を患っていたわけでも、何か不幸な事故に巻き込まれたわけでもない。ただスイッチが落とされたように、彼の身体は機能を停止させた。突然倒れて、それっきりだったそうだ。
 僕は彼の死に目にあうことはできなかった。この町に辿り着いた時にはもう、すっかり青く冷たくなった父が病院のベッドに横たわっていた。線香の煙とシーツの白さだけが、やけに鮮明に視界に映った。
 バイパスを降りると、海は一層近くなる。海岸沿いを走る。横断歩道を渡っていく小学生はみんなよく日焼けしていて、浜辺で拾った流木を抱えている子どももいた。上空からはカモメの鳴き声が聞こえ、堤防では猫が何匹も転がってくつろいでいる。道路の脇に立ち並んだ家の窓はみんな白く汚れていた。風に乗って塩がこびりつき、膜を作るのだ。懐かしい町を、ぼんやりと眺めていく。ふいに、鞄の中の携帯が着信を告げた。斎場からだろうと思った。実家に着いたらすぐに折り返そう。古い家は、もう目の前に見える。ただいまと言う声に応える人は、いない。

 二十年ぶりの葬式で、初めて喪主を務める。親戚もほぼいないに等しい中、僕は右も左もわからぬまま慌ただしく葬儀を進行した。葬儀社や寺院との事務的な手続き、会場設営、ほとんど見知らぬ父の関係者からの弔電や弔辞の確認、弔問受付まで、これで大丈夫なのかと不安に思いながらも取り仕切っていく。
 花環と鯨幕が現実味もなく別れを演出している。弔問客は、悲しむよりもまず戸惑いを隠せない様子で、呆然としている人も多い。
「突然のことで何と申し上げていいか……」
「まだお若いのに、お気の毒に」
 みんな口をそろえて言う。無理もないことだ。父は亡くなるにはあまりに若く、そしてその死はあまりに唐突だった。僕は丁重に挨拶を返し、頭を下げる。
 気疲れと緊張で悲しみに暮れる余裕はほとんど与えられなかった。だがそれを差し引いても、僕は父の死にあまり衝撃を受けていないようだった。茫然自失とすることもなく、死因を深く探ろうという気も湧かなかった。予感があったというわけではない。ただ、父の早すぎる死を、僕は何処かで仕方がないと思っている。
 理由は明確だった。父方の家系は、短命なのだ。
 いつからそうなのかは知らないが、祖母は父を産んで間もなく亡くなったし、僕が小学校に上がる前には、祖父も亡くなった。ふたりとも突然に、静かに人生の幕を閉じたと聞く。祖父が冷たくなって眠っていたのと同じ霊安室で父が眠っているのを見た時、ふと、これは決められていたことなのかもしれないと僕は思った。こんなことになるとわかっていれば、もっと頻繁に帰ってきたのに、とも思った。そして、常盤千歳なんていう、いかにも長く生きそうな名前を持つ僕も、いずれは父と同じようにある日唐突に短い天寿を全うするのかもしれない。
 戸惑いに包まれた会場で、葬儀はぎこちなく、しかし粛々と進められていく。
 離婚して出て行った母とは、最後まで連絡がつかなかった。何処に連絡したらいいのかすら、僕にはわからなかった。母が僕と父のもとから離れて十五年以上経つし、その間、僕が彼女に会ったのはたったの二回で、当時僕はまだ小学生になったばかりだった。あのとき母は僕に連絡先を教えようとはしなかった。幼い僕は僕で、彼女の住んでいる場所や新しい電話番号なんてものを極力考えないようにしていた。それはあまりに下手で意味のない現実逃避だった。
 母はもう、父のことなど忘れてしまっているかもしれない。
 もしかしたら、僕のことも。

    *

 父が亡くなったのは水曜日の夜で、葬儀は金曜日に執り行われた。事後処理のために、僕は土曜と日曜も海辺の町に残った。土曜日は雨で、僕は父の傘を差して挨拶回りに向かう。
 帰ってきて玄関に傘を置くと、綺麗に並べられた父の革靴が視界に入った。傘も靴も、持ち主がいなくなったことを感じさせない。部屋の中も父がいた時の状態のままだ。何処かにまだ父の姿があるようにも思える。
 これからは頻繁に帰ってきて、父の遺品を整理しなければならない。そう考えて改めて、僕はたったひとりの肉親を亡くしたのだと、実感した。祖母と祖父を見送り、母が出て行き、父までいなくなった。主を失った家は、やけにしらじらしく、広く感じられる。ふと、自分が住むアパートの一室を思い出した。出て行った恋人との未来が欠け、驚くほど広くなった僕の部屋。
 僕はひとり残されていた。周りにはもう誰もいない。家族も、家族になりたかった人も。何の寄る辺もない。僕はそのまま、しばらく座り込んでいた。

 雨上がりの日曜日、寺院への謝礼を終え、少し町を歩く。町は僕が子どもの頃から発展も退廃もしていない。海以外に特別なものなんて何もないのだ。漁業が盛んである。特産物は魚介類である。夏は海水浴場が少しにぎわう。それだけ。
 初夏の午後の日差しはもう、真夏のそれとあまり変わらなかった。漂白するような強さで僕を焼く。アスファルトに映し出された影は染みつくように黒い。
 僕は町が一望できる海辺の展望台へ向かった。切り立った崖に作られた自然の展望台だ。階段を淡々とのぼっていく。海鳴り。カモメの鳴き声。潮の香りが微かに届く。
 幼い頃、父に手を引かれてこの階段をのぼっていたことを思い出した。
 父と母の関係が駄目になった頃だ。父はいつも、頂上を見据えていた。目を細め、眩しそうな表情を浮かべて。その顔は笑うようにも泣くようにも見えた気がする。何を見ているの、と尋ねたことは一度もなかった。今になって、尋ねてみたいと思った。父さんは、あのとき何を見ていたんだ。
その問いかけが父に届くことは、決してない。
 ふいに胸を締め付けるような痛みを感じた。視界が揺らいで、鼻の奥がつんと痛んだ。僕は一度立ち止まり、あの頃父に握ってもらっていた右手を、ひとりで握りしめた。当時の父のように頂上を見据えて、次の段に足をかける。遥かに広がる空と海が、上から下へ徐々に広がっていく。
 青く開けていく視界、そして――

 そして、矢庭に現れたその姿に、僕は、小さく息を飲んだ。

 はじめに映ったのは、透けるほど白い肌と折れそうに細い手足だった。肩まで伸びた黒い髪は緩やかなウェーブを描き、風が吹くたびに白いワンピースが膨らんだ。彼女は木製の手すりに沿って歩く。目前に広がる海も相まって、まるで水の中をたゆたっているようにも見えた。彼女の周りだけ、重力が失われてしまったような、そんな軽やかな歩調だった。存分に水気を含んだ風が、ふいに冷たく感じられた。薄い雲が太陽を覆い、日差しがわずかに翳る。視界に広がる青の明度が落ちた。潮の流れのように、柔らかな水の風がもう一陣。雲が千切れ、光が揺れた。水面の反射光を思い出す。海鳴りはずっと耳の奥で響いている。僕は少し息を吐いた。吐いた息が泡になって、水上にのぼっていく様を幻視する。その向こうで、彼女は漂うように歩く。
 苦しい、と思った。
 溺れる、と思った。
 彼女はふわりと立ち止まり、手すりに両手を置いて海を見据える。微かに吹いていた風が、ふいに止まった。その時だった。突然、彼女の身体が、ぐらりと傾いだ。棒立ちになっていた僕は現実に引き戻され、慌てて駆け出す。彼女の細い腕を掴んだ。その手は柔らかく、冷たかった。彼女は、はっと目を見開いて僕を見た。「大丈夫ですか」と、僕は彼女をすぐ側のベンチに座らせながら尋ねる。
「すみません。少し立ち眩んだだけです……ありがとうございます」
 彼女は僕を見上げ、小さく笑った。透けるほどに白い肌。大きな瞳は黒く潤み、薄い唇の鮮やかな紅色が際立って見えた。あどけなさの残る少女のような顔立ちをしている。僕と同じくらいの年齢か、もしかしたら、少し年下かもしれなかった。
「熱中症かもしれません。ここで待っていてください」
 僕は彼女にそう言うと、少し離れたところにある自動販売機に向かった。スポーツ飲料を買って彼女に手渡す。彼女は「ご親切にありがとうございます」と、はにかむように笑った。

 日曜日の展望台には、僕ら以外に人の姿はなかった。
「このあたりに住んでらっしゃるんですか」
 僕の問いに彼女は小さく首を振った。肩のあたりで黒髪が揺れる。彼女は海とは逆側の、高台の方角を指さした。
「あのあたりです。ここまで、時々歩いてくるんです」
「歩いて? それは随分な距離になるんじゃないですか」
「慣れてしまえばどうってことはないんです。でも今日はちょっと油断しました。こんなに日差しが強いだなんて、思っていなかったから」
 そう言って彼女は、眩しそうに目を細めた。彼女の視線の先には海がある。僕も倣って、まっすぐに海を見た。一本の途切れのない水平線。穏やかに見えるその表面をよく見れば、幾重にも折り重なった波が揺れ、さざめきあっている。焼け付くような日差しを受けて、震えるように、閃くように。
 厚い雲に太陽が隠されるのを待って、僕は立ち上がった。
「一緒に行きましょう。僕の家はすぐ近くなんです。車でお送りしますよ」
 僕の申し出に、彼女はその大きな目を見開いた。
「そんな、そこまでお世話になるわけには……」
 彼女は首を振ったが、自分の気が収まらないから、と僕は食い下がった。これは親切などではなく、お節介の類いであるかもしれない。少なくとも、僕は純粋な親切心だけで申し出たわけではなかった。ひとりで来た道をひとりで歩いて帰るのが寂しいと思ってしまったから。そして、彼女のことを、もう少し知りたいと思ったからだ。

    *

 コウノミツキ。それが彼女の名前だ。彼女の家は父の家から車で十五分程度の高台にある。「お茶でも飲んでいきませんか」と彼女は僕を招き入れた。
 家の作りは父の家とよく似た日本家屋で、築年数は五十年を超えていそうだった。平屋で、四つほど部屋がある。客室の大きな窓からは、遠くに海を臨むことができた。
「ひとりで暮らしていらっしゃるんですか」
 不躾かと思いながらも、僕は尋ねた。この家が父の家に似ていると思ったのは、その造りに限ったことではない。広すぎる家を持て余しているような、そんな雰囲気が二つの家に共通していた。そしてその点に関しては、僕のアパートの部屋ともよく似ていた。
 玄関には、彼女のものと見られる靴しかなかったし、台所の食器類も家族で暮らしているとは思えないほどに少なく、部屋もいくつか物置にされているような印象だった。彼女は紅茶のカップを僕の前に置きながら、小さく頷いた。
「そうなんです。広すぎて困ってしまいます。もう慣れましたけど」
 彼女はそれ以上のことは何も言わなかった。僕もそれ以上は追求することなく、カップに手をつける。林檎の香りがするお茶を飲みながら、僕らはとりとめのない話をした。彼女はずっとこの町に住んでいること。僕はこの町で生まれて、今は市外で生活をしていること。
「それでは、普段はこちらにはいらっしゃらないんですね」
 彼女はカップを持ち上げる。取っ手に触れる爪先が、微かに桜色をしていることに気づく。濡れた紅色の唇が艶やかに光っていた。
「よく帰ってこられるんですか?」
 首を傾げて問う彼女に、僕は曖昧に首を振った。
「いえ、ほとんど……でも、これからは、たびたび帰ってこようと思っています」
 僕の答えに、彼女は少し首を傾げた。彼女の背後でレースのカーテンが揺れる。網戸越しに海と、町の景色が広がっていた。見知った風景だ。でももう、僕の帰りを待つ人はひとりもいない。僕は目を伏せ、父が先日亡くなったことと、遺品整理のために頻繁に実家を訪れるつもりであることを彼女に話した。彼女は目を伏せたまま僕の話を聞き、時折頷いた。
「ひとり残されるのは寂しいですね」
 彼女は消え入るような声で言う。僕は顔を上げ、彼女の顔を見た。そこにあったのは穏やかな微笑だった。けれどその目の深い黒色は、どうしようもない寂寥を湛えているように見えた。ミツキは一度ゆっくりとまばたきをしてから、改めて僕の顔を見た。
「もし、千歳さんさえ良ければいつでも遊びにいらしてください。わたしは概ね、家にいますから」
 彼女の申し出に、僕は大きく目を見開く。それから顔を伏せて少し笑い、
「それは、とても嬉しいです」
 と、応えた。

2.
 それから月に二度、僕は海辺の町に帰り、彼女に会いに行った。初夏が過ぎ、梅雨を迎え、その梅雨も明けた。夏が盛りを迎えていた。晴れ渡った空の青の色は一層濃く、深みを増している。この季節になるとこの町が一層懐かしく感じられる。幼い頃の、夏休みを思い出すからだ。

 車で海沿いを走りながら、祖父のことを思い出す。
彼が亡くなる前、夏場はよく一緒に海に出かけた。祖父の趣味は絵を描くことで、彼のスケッチブックにはこの町の海の絵が何ページにも渡って描かれていた。
 祖父は時折筆を置き、岸にしゃがみ込んで右手を海に浸す癖があった。「何をしているの」と尋ねると、祖父は僕を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「おまえのおばあさんに挨拶をしているんだよ。会いに来たよって」
 祖父は答える。僕は目を大きく開いて、深い青緑色をした海底に視線を向けた。
「おばあちゃん、ここにいるの?」
 祖父の皺だらけの手が、波に遊ばれて揺らいでいる。水流にたゆたう彼の手は、優しく開かれていた。
「彼女はここからきたんだ。だからきっと、ここに帰ってきている」
 祖父は僕の問いに、呟くように答えた。その意味を分かりかねた僕は、困った顔で首を傾げる。祖父は笑っていた。おいで、と僕を隣に座らせる。僕も右手をそっと、海に浸した。
「おばあちゃんに会わせてやりたかったよ」
 呟くように祖父は言った。僕の右手を包み込む柔らかな波は、微笑むように光っていた。ふと、僕の目が岸辺に揺れるものを認める。
「クラゲだよ、おじいちゃん」
 ぱっと顔を上げて僕は言う。祖父はくしゃりと顔を歪めて笑い、頷いた。
「おまえは、ずっとここにいるんだよな」
 祖父は独り言のように呟くと、濡れた右手をシャツで拭い、絵筆を手に取る。柔らかな波間に祖父は、浮遊するクラゲの姿を描き加えていた。

    *

「お隣さんから花をもらっちゃったんだけど」
 高台の家を訪ね、僕は実家でもらった百合の花を彼女に差し出した。純白の百合だ。リボンもついていない無粋な花束だが、白い可憐な花は涼しげで美しかった。
「あら、いいの? わたしがもらってしまって」
 彼女は大きく目を見開いて、花と僕を交互に見る。僕は眉を下げて頷いた。
「もう墓にも仏壇にも新しい花を供えてしまって……悪くなってしまうともったいないから」
 そう言うと彼女は安堵したように目を細めて花を受け取った。僕は彼女に促されるままに玄関を上がり、居間へと向かった。彼女は棚から花瓶を持ってきて、
「百合は夏の花ですもんね」
 と言う。僕はそうなのか、と頷いた。
「よく知ってるね」
「好きな花だもの。百年、百合が咲くのを待っていた男の話を知ってる?」
「夢十夜」
 そうよ、と彼女は目を細めた。

 青い花瓶に活けられた百合の花は、海を臨むこの家にとてもよく馴染んだ。僕がぼんやりと花を見ていると、
「お待たせしました」
 と、彼女がそうめんのざるを僕の前に置く。丸く溶けた氷につやつやと光る白い麺が絡んでいる。
「薬味はねぎと生姜で良かったかしら」
「十分だよ、ありがとう」
 僕はガラスの器にめんつゆを注ぎながら笑みを返す。ねぎとおろし生姜を器に入れた。空調の効いた部屋でも、麦茶を注いだグラスはすぐに結露して水滴をしたたらせる。彼女は付け合わせに、と鶏のささみとトマトときゅうりを和えたサラダを並べた。ごまとマヨネーズを和えたソースは、微かにわさびの香りがした。
「夏だね」
 僕は窓の外に視線をやりながら言う。
「夏は好き?」
「好きだよ。この町で生まれ育ったから」
 僕の答えに、彼女は満足したように頷いた。
「わたしも夏が好きよ。夏の海は特別だから」
「海が好きなんだね」
「ええ。海の月って書くの、わたしの名前」
 海月。僕はその字面を思い浮かべて頷いた。紅野海月というのが、彼女の名前のようだ。
 彼女と会うのはこれで四回目になるが、僕はあまり彼女のことを知らない。踏み込んで尋ねることができないのは、僕らの曖昧な関係性にある。友人、と呼ぶのが正しいのだろうが、その言葉にはめることのできない感情が僕の中にありすぎる。藍色の袖無しブラウスから覗く白い二の腕を、僕は落ち着かない気持ちで見ていた。すぐに窓の外に目をやる。窓ガラス越しに海が見える。海原に射す日差しはあまりに強く、金色に反射する光の波は身悶えする姿のようで、狂おしい気持ちになった。
 しばらく、黙々とそうめんをすすった。めんつゆを注いだ器もそのうち結露を始め、テーブルに丸く水の輪を作った。
「ねえ、場所を変えましょう」
 海月がおもむろに言った。え、と僕は顔を上げる。彼女はつるつると残りのそうめんをすすってから、
「隣の部屋の方が、海がよく見えるから」
 上目づかいに僕を見て、少し微笑んだ。
「良かったら」
 僕は頷いた。それは何か、特別な合図であるような気がしたのだ。彼女ははにかむように「行きましょう」と言って、席を立った。
 招かれたのは六畳の寝室だった。
 大きな窓ガラスは微かに青く染められている。町並みの向こう側に、空と海が遠く広がっていた。
「毎日ここで、海を見るの」
 ベッドに腰掛けて彼女は言った。僕はその隣に座る。ぴったりと、彼女は肌を寄せてきた。こんなに暑いのに、その素肌には全く熱が籠もっていない。しっとりと柔らかな白い肌。対する僕の身体は内側から熱を帯びていた。心臓が早鐘を打つ。窓からは白い日差しが差し込んでいた。彼女は立ち上がりカーテンを閉める。白いカーテンは、窓から差し込む青い光を微かに光を通し、光は波のように揺らいだ。僕は顔を上げる。彼女は僕の顔を見て微笑んで見せる。覆い被さるように体重を預けてきた彼女を受け入れ、僕は艶やかな髪をそっと撫でる。彼女は頷いた。僕はみずみずしい紅色の唇に、自分の唇を重ねた。

 海月の白い肌に、カーテンから漏れた青い光が射す。くねる彼女の身体は、水中を漂っているように見えた。口の中に溢れる潮の香り、寄せては返す波のような彼女の冷たい指先。荒い息の漏れる紅色の唇――。誰かと身体を重ねるのは、これが初めてではない。けれど今までと何もかもが違う。そんな気がしていた。
 しっかりと熱を宿して硬化した身体の芯に、僕は避妊具をつけようとする。それを、海月の手が制した。
「そのままでいい」
 彼女は潤んだ瞳でそう言った。僕は驚き、それは駄目だと応える。彼女は青く染まるベッドの上で、まるで水流にたゆたうような穏やかな表情を浮かべ、首を振った。
「子どもはできないの」
「……え?」
「子どもは、できない身体なの」
 だから、そのままでいい。海月は滲んだ声で言う。僕は何も言えず、封を切った避妊具をそのまま置いて彼女の汗ばんだ頬を撫でた。彼女は微笑み、
「そんな顔をしないで、千歳」
 さざ波のような優しさで、僕の瞼に触れた。僕はその手を握り、甲に口づけする。くすぐったそうに海月が笑った。彼女の細い手が、僕の中心を愛撫する。それをそのまま、彼女の湿った深みへと誘った。
 彼女の奥へ奥へと入っていきながら、僕は胸が締め付けられるような感覚に戸惑っていた。理由は解らない。彼女の言葉に、心が乱されているだけでは決してない。もっと、僕の深い場所をえぐるような感覚だった。
――懐かしさによく似ていた。
 母の胎内にいた頃は、おそらくこんな気持ちだったのだろう。全て包まれ、守られ、誰かと繋がっていた安心感。しかしそれは遠く失われた過去であり、そんな場所には二度と戻れない。これが一時の錯覚だということも、僕は理解していた。
 僕は必死になって海月の一番深い部分に触れようとした。このまま何処までも彼女の中へ沈んでいきたかった。彼女と一つになって彼女の身体の流れに身を任せて、ずっと浮遊していたかった。けれど、そんなことが叶うはずもない。何度その奥を突いても、それはふたりの距離の限界を示すばかりだ。この行為はふたりの距離を零にするものかもしれないけれど、ふたりが一と一であることを突きつける行為でもある。
 その、海の匂いがする深い場所は世界で一番近い最果てだった。
 泣き出しそうなほどの欠落感と快感がせめぎ合う頭の中で、あるイメージが像を結ぶ。海辺に並んで座る、ふたりの女性。全く同じ顔を持ったふたりのうち、ひとりが立ち上がって去っていく。鮮明な映像だった。振り返ることなく歩いていく毅然とした女性も、去っていく背中を見つめ泣き崩れる女性も、海月と同じ顔をしている。置いて行かないでと残される彼女は泣く。その声はいつしか、僕の声と重なっていた。振り返らない母。倒れた祖父。見たことのない祖母。横たわる父、そして僕を置き去りにした恋人。
 彼らは振り返ることなく、遠ざかっていく。
 置いて行かないで。
 僕と海月の、ふたりの声が重なり、僕は彼女の中に注ぎ込む。白濁に、赤が混じっている。彼女の血だと、すぐに気づいた。
 顔を上げると、彼女の泣き顔があった。千歳、と彼女は揺らいだ声で僕を呼ぶ。彼女の頬にぽたりと滴が落ちた。僕の涙だった。

    *

 彼女と身体を重ねる時、僕は遣る瀬ないほどの寂寥を感じながら、同じ白昼夢を見た。それは短い映画のようだった。悲劇だ。疑う余地もなく。
 そこには海月と同じ顔をしたひとりの女性がいる。大切に育てられた彼女は、大人になった時、まるで呪いにでもかかったように二つの身体に分かれる。一方は短い命の代わりに子を成す機能を持ち、他方はその機能と引き替えに若返りを繰り返す命を受け取る。老いて死にゆく彼女は、やがて恋に落ちて恋人のもとへ向かい、永遠の生を受けた彼女は、一人残される。

 不思議で理不尽な物語だった。彼女は二つに分かれることなど望んでなどいなかったし、死ねない彼女は行って欲しくないと思っていた。それでも死んでゆく彼女は恋人のもとへ行くのだ。死ねない彼女をひとり置いて。
 彼女は、別段罰を受けるようなことはしていないのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。思い浮かぶ言葉は「仕方がなかった」と、ただそれだけだった。それは決められていたことで、流されるように受け止めることしか彼女にはできなかっただろう。悲しみも寂しさも、誰のせいにもできない。
 僕も同じだ。遠ざかる背中を見ながら、いつも思う。仕方がなかったのだ。
 もう、何度繰り返したかわからない。
 彼女を彼女と証明するものは、彼女の中に残る記憶だけだった。彼女だった塊は見る見るうちに溶けて種になる。根を張り、茎を伸ばし、茎の先には花が咲く。頭をもたげた、大きな百合の花だ。純白の花から滴が落ちるように、彼女は少女に還っていく。いつかの傷跡も跡形もない。その身体は、何も知らない。それでも彼女は、覚えているのだ。そこに傷があったこと。悲しい傷があったこと。老いて死ぬことを選んだ、自分と同じ顔をした女がいたこと。二度と声も届かない、遠いカタワレ。
 記憶の中で遠ざかる背中を見送り、少女は小さく「寂しいよ」と、呟いていた。涙ばかりが落ちる。
 彼女は何も終われないまま、何も忘れられないまま、ここにひとりで居続ける。

 窓から光が射す。青く染まる視界。
「君と身体を重ねている間、不思議な夢を見る」
 僕はベッドに横たわったまま、隣でうずくまる海月に言った。彼女は顔を上げ、
「どんな?」
 と微かに笑った。僕は、
「君が出てくるんだ」
 そう言って、僕は見ていた白昼夢の内容を話して聞かせる。海月の、水のように冷たく柔らかな指が僕の指に触れた。
「ベニクラゲみたいね」
「ベニクラゲ?」
「そう。死なないクラゲがいるのよ」
 彼女の唇が、小さく震えた。ベニクラゲ。紅海月。
「君の名前だね」
 僕は言う。彼女の黒目がちな瞳が僕をとらえた。そこには、僕の顔が映し出されている。深い海の底にいるように見える。二つの目をそっと閉じ、
「そうよ」
 静かな声で応えて、彼女は僕の胸に頭を預けた。彼女を抱く。温度の消えた素肌。重さはほとんど感じられない。
 酷く寂しい、と僕は思った。
 寂しさは、浮遊に似ている。何処にも寄る辺がない。支えがない。手を伸ばしても何にも、誰にも届かない。上下左右の感覚を失う。不安と諦めの中、流れに身を任せる以外にできることはなかった。
「ねえ……人間は昔、今とは別の姿をしていたのよ」
 海月は顔を上げてそう言った。僕の頬をそっと撫で、続ける。
「かつて人間には、頭が二つ、手足が四本あってね、彼らは強大な力を持っていたの。やがて人間の力を恐れた神様は、人間を真っ二つに裂いてしまった。それ以来人間は、自分のカタワレを探し続けているの。もうひとりの自分に会った時、芽生える感情が愛なんだって」
 古代ギリシアの哲学者の愛の概念だ。そう言うと、海月は微笑んで頷く。
「わたしのカタワレは、もう、何処にもいないの」
 微笑みは、苦しげに歪んだ。僕は彼女をもう一度抱きしめる。彼女の柔らかな髪を、何度も撫でた。
「残された君は、寂しいんだね」
 少し掠れた僕の声に、そうね、と海月は頷く。
「死んでしまえたらいいのにと、思うこともあるわ」
 ほどけて消えてしまいそうな笑みだった。僕はここにいるのに。そう言えば彼女はどんな顔をするだろうか。寄る辺ない浮遊は終わるだろか。僕は、君をカタワレだと思っているよ――そう言いかけた僕の口を、海月の唇が塞いだ。何度も僕に口づけをする。僕は彼女の肌に指を滑らせる海月が小さく声を漏らした。僕は身体を起こし、深く沈み込むように、再び海月の身体に被さった。

3.
 父の家には、父の遺品だけではなく、祖父の遺品も多く残されている。
 僕が持つ祖父の記憶はとても少ない。彼が亡くなってもう二十年以上経つのだ。覚えていることと言えば、海辺で絵を描く彼の背中と、眩しそうな笑みと、青い絵の具の色だけだった。
 押し入れの中に、そのスケッチブックが大切に保管されているのを見つけた。数十冊にわたる、彼が生きていた記録だった。
 僕は懐かしい気持ちになってそれを手に取り、一ページずつめくっていった。紙は古くなって変色していたが、祖父の描いた青い海はあの頃のまま残っていた。どのページにも必ず海がある。
――彼女はここからきたんだ。だからきっと、ここに帰ってきている。
 祖父の言葉を思い返す。祖父は海を描くことで、祖母の不在と向き合ってきたのかもしれない。一人残されてからずっと。果てしなく遠い場所へ語りかけるように、何十年も。
 ここに残った青色は、祖父の寂しさそのものだ。
 見知らぬ祖母のことを考えてみようとする。祖父の愛した人。父の母。優しい人だっただろうか。美しい人だっただろうか。いくら思いを巡らせてみても、僕の頭を埋め尽くすのは揺らぐ波と、水平線と、潮の匂いだけだ。
 渺茫と広がる遙かな海。そればかりが、祖母のイメージと結びつく。
 海鳴り。一面の青。
目をこらせば、遠くにたゆたうような後ろ姿が浮かんで見えるような気がした。あれはきっと祖母の後ろ姿だ。そう思って、彼女に手を伸ばす。
 彼女がこちらを振り返ろうとしたところで、僕は我に返った。海鳴りは遠のき、蝉の鳴き声が近くなる。僕はゆっくり瞬きをして、スケッチブックを見やる。気付けば残り一冊になっていた。最後のスケッチブックは今まで見てきたものより古く、くたびれて見える。その、乾いたページを開いた、瞬間。僕は、大きく目を見開いた。

――何故。

 小さく、声が漏れた。
 そこにあったのは海ではなく、青い鉛筆だけで描かれた女性の素描だった。
 彼女はこちらを振り返り、はにかむような笑みを浮かべている。

 緩やかに流れるウェーブがかった髪。
 あどけなさの残る黒目がちな瞳。
 折れそうなほど細い手足。
 形の良い薄い唇。
 祖父が愛した、
 祖母の、
「海月」
 僕の口からは、彼女の名前が零れた。
 そこに描かれた祖母の絵は、紅野海月に酷似していた。

 昼過ぎに、海月の家に向かった。彼女はにこやかに僕を迎え入れ、用意してくれていた昼食を客室に並べた。手巻き寿司と吸い物だった。彼女と共に食事をしながら、他愛もない話をする。彼女ははにかむように笑い、僕の名を何度も呼んだ。
 僕はきちんと笑えていたのか、あまり自信がなかった。彼女が作った上等な手巻き寿司の味も、吸い物の温度も、曖昧なまま食事は続く。
 祖父のスケッチブック。あの祖母の絵が頭に巣くって離れない。海月を見る度に祖母の絵が重なって見える。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
 ふと海月が不安げに僕の顔を覗き込んだ。僕は微笑み、
「そんなことはないよ。朝が早かったから」
 そう応えた。少し視線が泳ぎ、視界の端に海が映った。何処までも続く青。遙かな水平線。祖父の寂寥を表す景色であり、僕が海月を思うときに必ず付随する景色でもある、海。
「千歳」
 海月が僕の名前を呼ぶ。潤んだ黒い瞳に、僕の顔が映る。彼女の瞳の中で、僕は頷いた。

 溺れるように、彼女に口づけをした。潮の匂いを感じ、その深みに触れる。そして自分の一部を、僕は彼女の中に沈めていく。深く深く彼女の中へ潜った。行き止まっては突き、行き止まっては強く突いた。その終わりを責めるように。浮遊する感覚に襲われる。寄る辺のない不安。寂しい、と、僕は思う。
 弓なりにしなる彼女の身体を抱きながら、僕はまた、あの白昼夢を見ていた。頭の中で同じ顔のふたりが別れていく。やがて毅然として去っていく彼女の、その色彩がどんどん失われていった。形を持っていた彼女はいつしか青い鉛筆で描かれた線画となり、ゆっくりこちらを振り返った。
 祖父の、絵だ。
 はっと目を開け、僕は荒い呼吸を繰り返す海月を見た。はにかむような笑顔を僕に向ける。呼吸がままならない。波にのまれるように、僕のを全身を背徳感が包んだ。まるで、祖母を抱いているようだと。
 色つきの窓ガラスに光が射す。視界は一面の青だった。祖父の寂寥の、その色。
「海月――」
 僕は彼女の名前を呼ぶ。彼女は「なに」と滲んだ声で応えた。
「何でも、ない」
 首を振り、彼女の冷たい頬に触れた。祖父の絵のことを、話そうとは思えなかった。不安に形を与えてはいけない。そう思い、僕はもう一度目を閉じる。腰の動きを速めた。
 いつかの海で、祖父が右手を浸していたあの情景が蘇る。僕の手を揺らした波の感触を追想する。そして、祖父が眩しそうに笑って絵筆を取ったことを。
 その手が、描いた形を。波間に漂うクラゲの姿を――。
――おまえは、ずっとここにいるんだよな。
 鮮明に思い出した。酷い戸惑いと躊躇いが荒れ狂う波のように僕を浚う。
 それでもこらえきれず、僕は海月の中に、放った。

    *

 僕は両親の離婚の理由を知らない。
 母はそれを語らずに家から出て行ってしまったし、その後再会した時も、彼女は父の話題を一切出さなかった。幼い僕は父に何度も母がいなくなった理由を尋ねたが、父は目を伏せて「すまない」と言うばかりで、何も語ってはくれなかった。
 母と別れてから、父は新たな女性関係を持とうとしなかった。再婚を考えてもいいのではないかと何度か勧めたが、父は静かに笑って首を振るだけだった。
「いずれ、千歳にもわかる日が来るよ」
 それ以上、彼も僕も何も言わなかった。
 もしかしたら、父はまだ母に未練を持っているのではないか。僕はそんな風に思った。ふたりの道は分かれてしまったが、一時は確かに愛しあったふたりだ。
 しかし、父の身辺整理をしていくにつれ、僕の予想は外れていたことを知った。父の持ち物には、母に関係するものは一切残っていなかったのだ。結婚指輪も、ふたりの写真も一枚もない。僕が生まれてからのアルバムも、母が写っている写真だけ抜き取られていた。
もしかしたら、父がまとめて母に送ったのかもしれない。しかし、親子三人で撮った写真さえ一枚も残っていないのは、何だか異様なことのように思えた。母が父に送った、綺麗な緑色のネクタイも箪笥から消えていた。きっとそれだけではないのだろう。父はいつの間にか、母に関するものを全て排除していた。
 父は、母に一滴ほどの未練も残していない。
その事実は僕にとって安心すべきことであった。それは間違いない。しかし、それ以上に虚しい思いをしていた。ふたりがお互いの関係を無に還そうとするほど、ふたりの間に生まれた僕の存在が浮いてしまうような気がしたのだ。
 僕は息を吐く。考えたってどうしようもないことだ。男女の関係の呆気なさは、僕だってよく知っていた。

父は、母がいなくなってから一層僕に優しかった。母を失った幼い子どもへの憐れみと罪悪感もあっただろうが、純粋な愛情も確かにあった。僕は時折父が向けてくれたあの慈しむような目を忘れることができない。
 父の身辺整理は、彼の死から数ヶ月経っても思ったように進まなかった。僕が懐かしさに浸ってしまうことと、海月の家を訪ねる時間が長くなっていることが原因だった。僕はアルバムを閉じて、掛け時計に目をやった。そろそろ昼時だった。彼女が昼食の支度をしてくれているだろうと思った。僕は手に持っていたアルバムを押入れの段ボールの中に戻す。
 その時だった。
 ふと、段ボールの脇に、小さな箱を見とめた。隠されるように置かれていて、今まで全く気づかなかった。古いお菓子の箱だった。僕はそれを取り出す。静寂に満ちた部屋に、時計の秒針の音と、遠い海鳴りだけが聞こえる。箱の埃を払い、ふたの縁に手をかけ、ゆっくりと開けた。かぱ、と微かに鳴った。
 そこにあったのは、一通の手紙だった。それを大切に隔離するためにこの箱は存在していた。青い洋封筒には、この家の住所と「常盤一海様」と宛名が書かれていた。常盤一海は父の名前だ。切手の消印は十六年前。ちょうど、父と母が離婚した頃だった。
 自分の心音が、やけに大きく聞こえた。何か予感めいたものがあった。嫌な予感だった。封筒を取る右手が、微かに震えている。僕は封筒を裏返した。
 その瞬間、時間が止まったような気がした。息を飲み、目を見開く。
――紅野海月
 差出人の名は、そう書かれていた。
 封筒の糊は乾き切っていて、いとも簡単にその口を開く。僕は震える手で便せんを取り出した。深海を思わせる濃い青のインクで書かれた、流れるような文字が並んでいる。

――常盤一海様

 ご無沙汰しています。お変わりはないでしょうか。先日はお手紙をありがとう。返事が遅くなってしまってごめんなさい。
 どんな風にこの手紙を書き始めたら良いのか、悩んでいました。今も、悩みながら書いています。一海に、謝らなければならないことが、たくさんあります。

 まず奥さんとの離婚のこと、本当に、申し訳なく思っています。わたしに罪はないとあなたはおっしゃるけれど、そんなことは断じてありません。わたしが現れなければ、あなたは平穏な日常を過ごしていたことでしょう。あなたの小さな息子さん(千歳くん、だったでしょうか)も、お母さんを失うことはなかったでしょう。
 全て、わたしのせいなのです。
 それでもわたしは、あなたの申し出を受けることはできません。わたしのことを思って、一緒に暮らそうと言ってもらえたことは、とても感謝しています。
 それなのに、本当に、ごめんなさい。
 きっと一海は何故と尋ねるでしょう。

 一海は、ベニクラゲというクラゲを、知っているでしょうか。
 何度も若返り、死を迎えることがない生き物です。死なないベニクラゲが失うものはひとつだけ。最初の若返りで、彼らは生殖器官を切り離すと言います。
 わたしは、ベニクラゲでした。
 これは比喩でも何でもない、単なる事実です。わたしは、五十四年前、一人の女として生まれました。誰もがそうであるように、そのまま生きていくのだと思っていました。
 けれど二十二になった時、わたしは前触れもなく、ふたりの女に分かれました。わたしは何度も若返る不死の身体となり、生殖器官を失いました。もうひとりのわたしは、短い命と生殖器官を持ったまま、わたしから離れていきました。
 もうひとりのわたしは、愛する人を見つけ、その人の子どもを産み、そして間もなく亡くなりました。わたしは半身を失い、たったひとりで、まっさらな若い身体に戻りました。二十二歳だったわたしは、十二歳ほどの少女に戻っていました。この世界に、たったひとりで残された気持ちになりました。いいえ、わたしはひとりですらありませんでした。このまま、欠けた身体で何度も時を繰り返さなければならないと思うと涙が出ました。切り離されたのは、彼女ではなくわたしの方だったのです。
 クラゲは、自分では泳ぐことができません。
 その寄る辺のなさが寂しいのです。どうしようもなく不安なのです。
 だから、わたしは自分の半身を探し求めました。一瞬だっていいから、もう一度ひとつの身体に戻りたいと思いました。そしてわたしは、あなたを探し出したのです。あなたが初めて展望台でわたしを見つけた日、わたしは、あなたを待っていました。わたしの血が流れる、わたしの半身の血を受け継ぐ、あなたにどうしても会いたかった。
 本当に、ごめんなさい。
 あなたはわたしの顔を見て、幼い頃に亡くなった母に似ていると言いました。それは、偶然でも何でもなく、ただの事実だったのです。
 最初の若返りの後、わたしはもともとの名前を捨て紅野海月と名乗り始めました。わたしの本当の名前は、常盤みつと言います。

 あなたの、お母さんの名前です。

 これが、今まで黙っていた全てのことです。
 そして、あなたの申し出が受けられない理由です。
 今までたくさんの愛情と慈しみと気遣いをありがとう。全てを裏切り、あなたの人生を壊してしまったこと、何度謝っても許してもらえないことはわかっています。
 けれどどうか、忘れてください。この手紙も、裂いて捨ててください。
 さようなら。どうかお元気で。

    *

 僕は常盤家の墓前に立っている。手紙を握りしめたまま、気づけばここまで来ていた。初秋の空気はやけに澄んでいて、カモメが遠くで酷く寂しそうに鳴いている。
 微かに震える手で、僕は墓石に掘られた名前をなぞった。一番新しい父の名前、その隣に祖父の名前、そしてその隣に、五十年以上前に亡くなった、祖母の名前が、「常盤みつ」の名前が、掘られていた。ああ、と僕は声を上げた。膝をつく。
――この手紙に書いてあることが、全て真実ならば。
 僕は祖父のスケッチブックを思い出した。そこに描かれていた、海月と同じ顔をした女性の姿が脳裏に映し出される。
 僕の祖母。
 あの日の不安と戸惑いと躊躇いは今、僕の手の中で確かな形となっていた。僕はやはり、祖母を抱いていたのだ。
 それは、厳密には違うということも理解はしていた。祖父が愛した祖母と、紅野海月は元が同じであったというだけだ。しかし僕にとっては同じだった。僕の身体には、彼女の血が流れている。それは抗いようのない事実だ。
 立ち上がれなかった。背徳感と罪悪感が、重みとなってのしかかっているようだった。取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。僕は祖父のことを思う。彼の描いた海を、彼が死ぬまで祖母を愛し続けていたことを思う。寂しさと向き合い、いつまでも届かぬ思いを語りかけ、僕と祖母を会わせたかったと笑った。
「会っていたよ。僕は、」
 あなたが抱いた身体を、抱いたんだよ、おじいちゃん。震える言葉は、声にならなかった。祖父のことを、酷い形で裏切ってしまった。そう思った。
 そして僕は、父のことを思う。
 父さん、あなたは何を考えていたんだ――。
 僕は墓にすがりつくようにして、問う。振り返らない母。「すまない」と目を伏せる父。その間に海月がいたなんて。父は自らの母と同じ身体を抱き、そして家庭を失った。どうしてそんなことになってしまったんだ、と僕は問う。
 父に聞きたいことは山ほどあった。何故海月を抱いたのか。何故、母より海月を選んだのか。海月の手紙を読んで何を思ったのか。何故、裂いて捨ててくれと言われた手紙を大切に、あんなに大切に持っていたのか。
 展望台の頂上を見据えて、父さんは、
「――いったい何を、見ていたんだ」
 悲鳴のような声が漏れた。何も答えぬまま父はいなくなった。僕を一人残して。
 静かに佇む墓石の影と、頽れるように膝をついた僕の影がわずかに伸びていた。供えられた白百合が傾き始めた光を浴びている。僕は、そっと手を開いた。くしゃくしゃになった便せんを広げる。濃やかな青いインク。流れるような文字。僕はゆっくりと瞬きをする。海月の姿は、思い出そうとしなくてもすぐに像を結ぶ。はにかむような笑みも、寂しげな瞳も、僕にすがる冷たい指先も。
 海月の浮かべる表情が、仕草が、その体温が、匂いが、僕の中に満ちている。
 あの日、彼女は僕を待っていたのだろうか。あの展望台で、自分のカタワレと同じ血が流れる僕のことを、待っていたのだろうか。
 そうだったらいいと、僕は、思ってしまう。
 祖父に慚愧し、父を咎めながら、それでも僕は、海月のことを責めようとは思わない。思えない。彼女の寂しさを、僕は知っている。そう思っているからだ。置いて行かれる悲しみを、寄る辺のない不安を。届かない寂しさを、僕はよく知っている。
 そして僕は、海月のことを――。
――いずれ、千歳にもわかる日が来るよ。
 いつかの父の言葉が反芻するように響く。僕は顔を上げた。
 父が僕に向けた、あの慈しむような視線を思い出す。そうだったのかと、全てを諒解する。彼は僕の中に、僕に流れる血の中に、彼女の影を探していたのだ。父が海月の手紙を、捨てられるわけがなかった。母のものを全て処分しても海月からの最後の手紙だけは捨てられなかった。なぜなら父は、全てを知らされても、海月を、愛していたのだ。
 墓石に目を向ける。白百合の花が、海風に揺れた。

 柔らかな秋の風は、変わらず潮の匂いがする。僕は振り返り、先に広がる海を眺めた。さざめく水平線。限りなく空に近い場所で、決してその高みの青と一つになれない海はいつまでも泣くように震えている。海底から響く届かない悲鳴のように、海鳴りは狂おしく響く。
 海月と身体を重ねた時、いつも自分が一つに還っていくような感覚があった。そして近づけば近づくだけ、二度と、ひとつには戻れないのだと痛感した。浮遊する最果てで、分かれていくふたりの海月を幻視した。
 そして僕は今、初めて、去って行く彼女のことを思っている。鉛筆で描かれた青い彼女を。
 僕の中で結ばれたイメージの中で、去りゆく彼女はもう、毅然と歩いてなどいない。唇を噛みしめ、涙を堪えている。去って行く彼女の、声にならなかった叫びが僕の中に響く。
 何処へも行きたくなかった。
 置いていきたくなかった。
 ひとりにしたくなかった。
 海月と離れたくなどなかったはずだ。父も、きっと祖母も。切り離された半身もまた、残った半身を求めていたのだ。受け継がれた血は僕まで流れている。
 僕は立ち上がり、踵を返した。一度だけ墓石を振り返る。祖母と父は最期の瞬間、海月のことを思い出したのではないだろうかと思った。

 海月の家についた頃には、もう日が翳ろうとしていた。東の空は夕闇に染まって青ざめている。夕日が照らす茜色と宵闇の狭間で、慰めるように明星が光っていた。
 彼女は僕の姿を見て笑った。玄関に灯った生色の光に、海月の白い肌が照らされる。僕は靴を脱ぎ、海月の艶やかな髪に触れた。
「今日はもう、来ないのかと思った」
 彼女は視線を落としそっと僕の手に頬を寄せる。じわりと、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「海月」
 名前を呼ぶと、彼女は潤んだ目をこちらに向けた。ざざ、と耳の奥で海鳴りが騒いだ。僕は手を彼女の背に回し、強く抱きしめる。海月が腕の中で驚いたように身をこわばらせた。
「好きだよ、海月」
「……どうしたの、千歳」
 海月は少し怯えたような目をした。僕は何も言わず、彼女の手を引いて書斎まで行った。通り過ぎた台所には、醤油とみりんの甘辛い香りが漂っている。彼女は僕のために夕食を準備してくれていたのだろうし、きっと昼食も準備してくれていたのだろう。ごく普通に遅くなったことを詫びて、落ち着いて夕食を摂りながら話をするべきなのかもしれないと一瞬だけ思った。彼女の作ったあたたかい料理で身体を満たしながら。
けれど辛抱ならなかった。空っぽの身体は、ただ彼女のことを求めている。海月は戸惑った表情を浮かべていた。寝室のベッドに、突き飛ばすようにして彼女を寝かせた。千歳、と小さく彼女が僕の名前を呼ぶ。その声はゆらゆらと滲んで、僕は海底に沈む死にかけたクラゲのように身体が重くなるのを感じた。
「全部、知っているんだ」
 僕は自分を落ち着かせるように、ゆっくりと言って彼女の服に手をかけた。水中のような息苦しさの中、自分の鼓動が大きく聞こえた。彼女は少し震えながら、何を、と尋ねる。僕は彼女の白い肌に唇を這わせ、
「父さんに宛てた君の手紙を読んだ」
 そう言った。瞬間、海月の身体がびくりとこわばった。その反応が、全て事実であることを告げていた。海月が起き上がろうとする。それを押さえつけて、僕は彼女に馬乗りになった。
「一海は手紙を捨てなかったの」
「捨てなかった。父さんは最後まで君を愛していた」
 僕の言葉に、海月は顔を歪めた。もうやめて、と彼女は喘ぐように言った。
「やめて、千歳。知られてしまってはもう駄目なの。こんな慰みごとに、これ以上あなたを付き合わせることはできない」
「それでも僕は君を愛している」
 海月は首を振り抵抗しようとする。僕は波のように彼女の身体に被さる。クラゲは自分で泳ぐことのできない生き物だ。流れに身を委ねることしかできない。海月はやめて、と泣きながら、けれど抵抗の力を弱めていった。僕の愛撫を受け入れて声を上げる。僕は彼女の白い肌にいくつも痕をつける。紅色に染まっていく肌が、海底のような宵闇に浮かび上がる。
「お願い、千歳、やめて、くるしい」
 海月は喘ぎ声を上げながら、ずっと泣いていた。僕は彼女の涙を人差し指で掬って舐める。海の味がした。彼女を求めて固まった僕の中心を、海月の中へ沈めていく。このまま二度と浮かび上がることなく、僕が溶けて消えてしまえば良いと思った。
「苦しい」
 海月は言う。僕は奥へ奥へと入り込んでいった。最奥を突くと彼女が悲鳴を上げた。悲痛な声が僕の中に響いた。そのたびにどうしようもなく寂しくなった。満たされなかった。突き破るように、彼女の中で僕は暴れた。僕らはもともと一つで、彼女は間違いなく僕のカタワレだった。それを求める気持ちが愛なのだと言う。愛している。愛しているのに何故、こんなに虚しいのだ。海月はそのうちぐったりとなって、深く深く沈むように目を閉じた。
 その紅色の唇が、微かに震えた。
「……愛せないの」
 掠れた声で海月は言う。言葉は冷たく固まって、僕らの間に転がった。
「わたしは、あなたを愛せない」
 すっと、胸の奥が冷えるようだった。僕は動くのを止める。海月が目を開けた。彼女の海の一部が、両目から零れる。
「応えられないのよ、千歳」
 冷たい、乾いた声だった。僕は急に陸地に打ち上げられたように、彼女の中から自分を引き抜いた。彼女の海に包まれていた僕は、拒絶されたようにうなだれていた。

 海が見たいと彼女は言った。僕は彼女を車に乗せて、あの展望台まで向かった。階段を照らす街灯に走光性で虫が集まっていた。熱を放つ強い光に、羽虫たちは何度も向かっていってはよろめき、また向かっていく。
「わたしが二つに分かれた時、もうひとりのわたしは泣きながら、またひとつに戻りたいって言ったの」
 彼女は独り言のように、そう言った。俯いたまま、階段だけを見ていた。
「きっとこんなのは何かの間違いで、ある朝目覚めたらわたしたちはまたひとつに戻っているって。こんな足りない気持ちも寂しさも消えて、わたしたちはひとつに戻るんだって、そう言っていた。交わることのない身体を、何度も重ねてみたりもした。でも、そんな日々も長くは続かなかった」
 海月はゆっくりと顔を上げた。僕の方を見ることはなく、ただまっすぐに頂上を見据えていた。その横顔は確かに父に似ていた。
「彼女は、あなたのおじいさんと恋に落ちたの。彼女はもう、寂しそうじゃなかった。満ち足りていた。ああ、わたしたちはもう別物なんだって、その時に思った。彼女は変わってしまって、わたしは変われなくて、もう二度ともとには戻らない。そう思った。わたしを置いていきたくないって彼女は泣いたわ。ひとりにしたくないって、わたしを愛しているって言ったわ。でもそんなの、何の意味もなかった。だから、そんな軽率なこと言わないでって、わたしは彼女を突き放した。彼女は振り返らずに、彼のところへ帰って行って、二度とわたしのもとを訪れなかった」
 最後の階段を登り切る。彼女の黒い髪が風にそよいだ。目の前には真っ暗な空と、真っ暗な海が広がっている。その境目は曖昧だ。上も下も吸い込まれるような、終わりのない深い黒だった。
「そのうち彼女は愛する人の子どもを産んで死んでしまった。完全に欠けたわたしは寂しさを埋めるように、誰かの腕に抱かれようとした。けれど全然駄目だった。他人に対して何の興味も沸かなかった。満ち足りたことなんて一度もなくて、いつも冷めた気持ちだった」
 彼女は手すりに向かって歩いて行く。たゆたうような足取りは、深く潜っていくようにも見えた。手すりにもたれかかり、彼女は僕を振り返った。
「わたしは、やっぱりわたしのカタワレに会いたかったの。都合のいい話でしょう。最後に突き放したのはわたしだったのに。それでも、わたしの心をどうしようもなく揺らすのは、あの日別れた彼女だけだった。もう彼女は何処にもいなかったけれど、彼女が残したわたしたちの血は、この世界に残っていた。それが一海だった」
 街灯に照らされた彼女の青白い顔は、何の感情も浮かべていないように見えた。
「会えば満たされた気がした。身体を重ねれば、戻れるような気がしていた。でも、そんなのは幻想で、何の意味もなかった。どうせ彼もわたしを置いて行ってしまう。そう思ったら、とても彼を愛すことなんてできなかった。わたしだけ変われないまま、ひとり残されるんだって、そのことばかりが思い浮かんだ。愛していると言われるたびに苦しかった。だからもう、突き放そうと思った。手紙を読んだ一海は、やっぱり二度とわたしのもとを訪ねなかった。それで良かった。それなのに――」
 彼女の顔が泣きそうに歪んだ。
「どうしても寂しかった。誰もいない場所で、流されることしかできないことが、途方もなく怖かった。つらかった。だから、あなたに会いに来たのよ、千歳。でも、同じ過ちばかり繰り返して、わたしはやっぱりあなたを愛すことはできなかった」
 彼女は言葉を切った。僕は彼女の目を見た。「愛してよ」と笑って言った。
「僕は君のことを愛しているよ」
「できないわ。わたしは欠けたまま、変われないまま、見送り続けなければいけないの」
「僕は君を置いていったりしない」
「死んでいくくせに」
「それでも僕は――いや、みんな、君をひとりになんてしたくなかったよ。愛していたよ。それは何も変わらない」
「そんなのもう、何の意味もない!」
 悲鳴を上げるように彼女は言う。僕は口を開き、すぐに閉じた。僕に言えることなんてもう何もなかった。
 どうしてこんな風になってしまったのだろう。どうして彼女だけ。その問いに答えるものは、何処にもいない。全て、流されるように受け止めるしかない。仕方がなかったと、思う以外にできることがないのだ。
「寂しい」
 揺らぐ声で彼女は言う。寂しい、と何度も呟く。僕は、一歩足を踏み出した。何が正解なのかなんてわからない。意味なんてないのかもしれない。それでも僕は、彼女を置いていきたくない。ひとり残される寂しさは、僕が誰よりも解っている。だから――。
 僕は彼女の柔らかな腕を掴もうと手を伸ばした。その時だった。
「わかっているの」
 彼女がひらりと舞うように手すりを飛び越えた。世界の果てのような遥かな暗闇に、諦めた彼女の笑みが浮かび上がった。軽やかに、浮遊するように。
「変わってしまったのは、わたしの方」
 海月、と僕は彼女の名前を叫んだ。届かない、と思った。
 彼女はそのまま、海底に吸い込まれるように落ちていった。

    *

 それからどうなったのか何も覚えていない。気が付けば、僕は父の家にいた。空っぽの部屋でひとり眠っていたのだ。まるで、長い夢を見ていたようだった。
 翌週、僕は再び海月の家に向かっていた。高台へ車を走らせながら、彼女が消えていった海を眺める。彼女との日々が夢などではないことも、そして全て終わったことだということも、十分わかっていた。あのとき何も言えなかったことが僕の答えで、手が届かなかったことが僕たちの結末だ。きっともう、僕は彼女に関わらない方がいい。
 それでも、どうしても胸に引っかかって、いても立ってもいられなかった。せめて最後に彼女がどうしているのか確かめたかった。死ねない彼女は、あの家に戻っているのだろうか。それとも――もう、何処にもいないのだろうか。

 海辺の町は、すっかり秋の様相だ。空がやけに高く、遠い。他人のような顔で僕を見下ろしている。柔らかく零れる日差しは町の色合いを変え、海月と出会った季節が終わったことを物語っていた。
 彼女の家に着いて、しばらく扉の前で立ち尽くしていた。チャイムを押す勇気は湧かなかった。道行く人が怪訝そうに僕を振り返る。もし海月がここにいたとして、僕は何を言うつもりだろう。彼女がもういなかったとして、僕は何を思うつもりだろう。
その時、逡巡する僕の前で、ゆっくりと扉が開いた。
 僕は顔を上げ、目を見開く。
「だあれ?」
 扉を開けたのは五歳ほどの幼い女の子だった。僕を見上げる黒目がちな瞳。透けるような白い肌にウェーブがかった黒い髪。紅色の唇。彼女は、海月の面影を色濃く残していた。若返ったのかと考えて、すぐに怪訝に思った。若返ってもかつての記憶は継承されているはずなのに、彼女は僕を初めて見たような、怯えた表情を浮かべている。
 しゃがみ込み、視線を合わせた。びくりと、彼女は肩を震わせる。海月、と僕はその名を口にした。彼女は、怖じけるように唇を噛みしめた。
「……僕のことを、覚えてるかい?」
 その問いに、海月は泣きそうな顔で首を振る。
「知らない。お母さんから、知らない人は家にいれないように言われているの」
 震える声で彼女は言った。僕は息を飲む。やはり記憶が消えている。おそらく僕のことだけではない。少女は自分が常盤みつだったことも覚えていないのだろうと思った。そうだとすれば、彼女はもう紅野海月ですらない。全く別の新しい誰かだ。
 僕は無垢な少女を見ていた。扉の端をしっかり掴んだ小さな手。
 もう、彼女は繰り返さずに済むのだろうか。何処にも手が届かない、寄る辺ない浮遊の日々を過ごさずに済むのだろうか。誰も愛せぬまま、海に消えていった彼女の、諦めた笑顔が脳裏を過ぎる。
 もう二度と、あんな表情を浮かべずに済むなら、もう、いい。まだ君を忘れられない僕を、置いて行って構わない。どうか幸せにと思った。そればかりを、願ってやまない。
「ごめんね、おじさんは帰るよ。最後に一つだけ、いいかい?」
 僕はしゃがみ込み、少女と視線を合わせた。彼女は扉にしがみつきながら、小さく頷く。
「もう、寂しくは、ないかい?」
 少女は、僕の言葉の意味を分かりかねているようだった。不思議そうに首を傾げる姿に、僕は少し笑って「ごめんね」と言った。
「さようなら、海月」
 僕は立ち上がり、踵を返す。
 頬を撫でていた風が凪いだ。顔を上げると、目前に海が広がっていた。僕はその最果てを見据える。今日で、父の遺品整理は片付きそうだった。全て終わったら、あの家はもう売ってしまおう。もうこの町に帰ってくる必要はない。そして今住んでいる部屋からも引っ越してしまおう。そう思った。
 仕方のないことばかりだ。取り返しはひとつだってつかない。それでも、海月が幸せになれるなら、僕は全部抱えたまま自分で泳ぐことにしよう。
 カモメの鳴く声が聞こえた。耳の奥で海鳴りが響く。その、一瞬の隙に、

――寂しいよ。

 まるでさざ波のような、小さな声が聞こえた、ような気がした。
 僕は振り返る。しかし視線の先にはもう、誰の姿も見えなかった。


                       
 


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小説家です。一次創作サークル「アリオト」主宰。第25回電撃大賞メディアワークス文庫賞受賞作「ふしぎ荘で夕食を〜幽霊、ときどき、カレーライス〜」は2019年4月25日発売予定です。

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