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Break The Silence

もともとそんなに、生きるのが上手だったわけじゃない。いつものろまで、ぼんやりしているうちに誰にでも置いていかれました。離れた場所でごまかすようにひとりで好きな歌を口遊ぶような毎日でした。
今回だって、だから、当然の結末だったのです。

 人魚姫になろうと思いました。
 
 生まれた町を離れて、ずっと夢だった歌をうたう仕事も捨てて、わたしは好きな人の隣にいることを選びました。でも、わたしが好きだった人は、わたしのことを何とも思っていなくて、わたしが声を上げる前に誰かのものになってしまった。彼から離れた場所で、わたしはもう歌うこともできませんでした。

 人魚姫になろうと、思いました。

 夜の海は終わりがなく、ただひたすらに真っ黒で恐ろしいと思いました。新月の夜です。空と海の境目は消え去り、あたりはあまりに静かでした。波の打つ音も海鳴りの音もほとんど耳に入ってこなくて、渺茫とした静寂がどこまでも広がっていました。
 ぼんやりと浮かび上がる白い砂浜に、靴を揃えます。
 息を吐きました。
 呼吸を。あと何度できるのか。
 目を瞑ると、自分の心音を聞こえます。恐怖に速くなっていく音。それを振り切るように顔を上げ、波打ち際に足を踏み出した、そのときでした。
視界で何かが閃くのが見えました。
思わず立ち止まります。視線を動かすと、別に何かが光ったわけではなく、すぐそばに人の姿があっただけでした。閃いたように見えたのは彼女の白いワンピースです。彼女はじっと海を眺めています。
 どうして気付かなかったのか。わたしは足を止めて、何でもない風に海に目をやりました。
こんな深夜に女性がひとりで海にいることを少し不思議に思いましたが、自分自身も同じなので何も言えません。彼女の方を見ると、巻き貝を拾い上げて海に投げ込んでいました。綺麗な放物線を描き、遠くの浅瀬で水が跳ねる気配がしました。貝殻ではなかったのかもしれません。
 よく見れば、彼女はまだほんの少女のようでした。ますます不思議に思いながらそちらを見ていると、わたしの方を振り向きました。
「セレンテラジン」
「え?」
 少女が急に耳慣れない言葉を口にして、わたしは間の抜けた声を上げました。彼女はわたしの方を見て少し笑うと、
「深海に生きる生物が発光するために使う物質の名前がセレンテラジン。光は彼らの声で、深海魚は自分で光らないと誰にも見えない」
 そう続けます。唐突に始まった話にわたしは戸惑い、何も応えられませんでした。少女はなんだか不思議な雰囲気で、見た目よりもその微笑は遥かに大人びて見えました。
 彼女は別に、わたしの反応を待っているわけではないようでした。浜辺に転がった丸い石を拾い上げて、それをまた海に向かって放ります。水の跳ねる音がやけに大きく耳の奥に届きます。波紋はすぐに消え、何事もなかったように海は沈黙しました。
 わたしは慣れてきた目で波の揺らぎを眺めていました。さざめきは常に絶え間なく、なのに何故こんなに静かなのだろうと、そればかりが疑問でした。
「人魚の知り合いがいるんだけれどね」
 不意に、彼女が再び口を開きます。
 人魚。
 海を見ていたわたしは、少し目を見張って彼女を見ます。彼女は自分の足もとに視線を落としました。つま先で砂を蹴りながら、彼女は続けます。
「人魚は本当に男を見る目がないから案の定恋に破れたんだけど、最近の彼女たちは泡になるなんて繊細さは持ち合わせてないの。みんな海の深い、深いところに潜って深海魚になる。届かなかった声を光に変える」
 彼女は顔を上げて笑いました。わたしはその、大人びた笑顔を見ていました。突然現れて、現実味のない話をする少女を、なぜだか不気味だとは思えませんでした。
「強いのね」
 わたしは呟くように応えます。彼女はこちらを見てゆっくりと首を振りました。その瞳が、一瞬だけひらりと青く光ったように見えました。気のせいだろうと思います。
「歌ってみて」
 彼女は全てを知っているように、わたしの目を見て言います。わたしは少し視線を泳がせてから、顔を上げて海を見ました。光のない静寂。わたしはそっと息を吸い込みます。いつもいろんなものに置き去りにされて、間違って捨てて、それでも唯一残ったのが、歌でした。
 わたしは光ることができないけれど、まだ、歌えるのなら。
 境界の見えない、海と空の終わりに向かって声を放りました。静寂の海に旋律を。声は思ったよりもずっと伸びて、高く響きました。久しぶりにきちんと自分の声を聞いたような気がしました。少し泣きそうになりました。声が震えるのを堪えて、なるべく笑って、一度だけ、好きだった人の顔を思い出して「さよなら」と言いました。
 最後の一息を使い切って、ふと隣を見れば、少女の姿はもう何処にもありませんでした。わたしは一度瞬きをして、靴を履きます。
 海に背を向けて、右足を踏み出しました。


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