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♯28 「分裂をもたらすために来た」とはいったい何のことか/ルカによる福音書第12章49-53節【京都大学聖書研究会の記録28】

【2024年5月28日開催】

5月28日はルカによる福音書 12:49-53 を読みました。今回はたとえ話ではありませんが、前回から引き続いてイエスの話です。今回は、前回とはちがい、「再臨」が主題にはなっていませんが、イエスの受難への言及があったりして、何か節目の時を前にした緊張が伝わってくる内容となっています。それゆえ(だと思いますが)イエスの言葉は厳しい。その厳しさをどう受けとめるか。それが今回の課題です。

「火を投ずること」と「分裂をもたらすこと」


ごく短い箇所ですが、簡単に内容を確認しておきます。

49-50節:「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためだ」というイエスの宣言と、「わたしには受けねばならぬ洗礼がある」という一種の受難予告が記されています。ルカ固有の記事です。

51-53節:「わたしが来たのは、平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすため」という趣旨のイエスの発言があり、それに続いて、「分裂」の具体例が家族内の対立(父-子、母-娘、嫁-しゅうとめ)というかたちで示されます。この箇所はほぼマタイによる福音書10:34-35と重なる内容です。
今回の箇所は、「地上に火を投ずるために来た」と「地上に平和ではなく、分裂をもたらすために:来た」という二つの言葉が印象的です。どちらも、イエスはもともと地上が本来の居場所ではない存在であること、そのことが前提となっている発言です。神のもとから地上にやって来た。それは何のためか。そうした問いへの答えとしてこの二つが語られている。地上に火を、そして地上に分裂を。これがイエスが地上に来た目的。そのように語られています。

受けねばならない洗礼(バプテスマ)


この二つの発言をつないでいるのが、「わたしには受けねばならぬ洗礼(バプテスマ)がある」というイエスの言葉です(50節)。ここでいう「洗礼」は、マルコ福音書10:38におけるイエスの発言等を理由に、受難のことと考えるのがふつうのようです。マルコ10:38でイエスは何を語ったか。弟子のヤコブとヨハネが「〔天上で〕先生=イエスの右と左に座らせてください」とイエスに頼んだ。イエスは彼らの願いを聞いて、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と言った(マルコ10:38、新共同訳)。ここでの「洗礼」とは明らかに、この後にやってくる十字架刑、殺されるという経験、受難の経験です。

洗礼については、新約聖書では、洗礼者ヨハネの活動として描かれ、イエスもその洗礼を受けたと記されています(マルコ1:9-11など)。この意味での洗礼は、今でも儀礼として存在する洗礼と同じように理解することができます。つまり一種の入信の儀礼です。ところが今ここでイエスの言う洗礼は、もう少し広い意味です。洗礼は、ごく一般的に言うと、その人のいるステージが変化するときになされる儀礼の一つとみなしうる。イエスにとっては、これから予定される十字架刑こそが、自らの「ステージが変化するときになされる儀礼」にほかならない。そういう思いだったのでしょう。だから緊張する。その洗礼が終わるまで「わたしはどんなに苦しむことだろう」とさえ言います。この訳文で「苦しむ」とされているところは、さまざまに訳されています。苦悶する、心配する、苦労するなど。心中穏やかでないこと、ストレスがかかっていることを示す表現のようです。ともかくイエスは自ら被るはずの死を思い、相当ストレスフルな心境に置かれていることが窺い知れます。

「わたしには受けねばならぬ洗礼(バプテスマ)がある」という緊張をはらんだイエスの言葉をはさんで、「地上に火を投ずるために来た」と「地上に平和ではなく、分裂をもたらすために来た」という二つの言葉が語られています。天的なもの(神的なもの)がこの地上に介入してくるときに、そこに胚胎する緊張が共通のテーマと言えそうです。天的なものが地上に介入するといま述べましたが、それは、愛による介入であってもよい。イエスがこの地上で行ったわざはまさしく愛による介入だった。それは私たちを強め、勇気づけ、そして無用な緊張から私たちを解放する力だった。ところが、いまの場合はそうではない。ここでイメージされているのは、愛の介入ではなく、審きというかたちの介入です。火とか分裂とかの言葉は、ここでの介入がそうした内容をもつことを示しているように思います。受難もまた、「受けねばならぬもの」とイエスによって観念されています。人の思いとは決定的にちがった神の意思の貫徹として、それは思い描かれています。

「地上に火を投ずるために来た」


いま述べたような意味での「天的なもの(神的なもの)の地上への介入」のここでの焦点は、二つでした。火と分裂です。地上に火および分裂を生じさせる。そのためにイエスはこの地上に来た、という。

「火」については、「地獄の消えない火」(マルコ9:43)とか「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(ヘブライ人への手紙12:29)といった言葉の印象が強烈で、精錬とか浄火といった働きをそこに見てしまう。ただ聖書にはほかにも、ペンテコステ(五旬祭)における聖霊降臨の記述においても「炎」という言葉は使われています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)。ルカ福音書には、復活のイエスに出会った二人の人がイエスとのやりとりをふり返り、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と語る場面が描かれます(ルカ24:13-35)。「燃える」はこの場合、不可思議な霊的な経験を指すために使われているようです。聖研の話し合いでもこのことが話題になりました。つまり「火」はときに人を力づけ、励ます霊の力をも指す言葉のようです。イエスの福音が生きて働いていれば、そこには火が燃えるように燃え続けるものがある、はずだ。

しかしイエスの目には、いま現在火が燃えているようには見えない。「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言うくらいですから。穢れを焼き尽くし、聖なるもののみを残すという精錬の火の意味でも、人を勇気づける福音の火の意味でも、火は燃えていない。受難を前にした緊張の中にいるイエスには、そのことはいかにものんびりしたことと映る。

「地上に分裂をもたらすために来た」


「分裂」の方に移ります。イエスは平和ではなく、分裂のために来た、と言っているのでした。「平和ではなく、分裂」と言っているわけですから、ここでの「分裂」には敵対の要素が組み込まれています。単に分かれるだけでなく、分かれて対立・敵対する。それがここでの「分裂」の意味です。マタイの並行箇所(マタイ10:34-35)では、はっきりと「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と書かれ、「わたしは敵対させるために来た」とも書いてある。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と語ったイエスとは別人が語っているかのようです。「平和を実現する者は幸い」というイエスのこの言葉に促され、実際に平和を作り出すために日々努力している人がいる。考え方の対立や利害の対立のはざまで、何とかそこに平和を作り出そうとする努力。それ自体は限りなく尊い。にもかかわらずその努力を無にするかのように、イエスはここでは「分裂」こそが目的であると言う。

いったいどうなっているのか。イエスは「分裂」を与えるために来た、と言う。しかも「わたしは言う」と強調のための言い方までしている。これは重要なことだ、よく聞け。そういう時にこの表現はよく出てくる。分裂を与えるために来た、と言い、そのあとに家族内部の対立(父-子、母-娘、嫁-しゅうとめ)が具体的に記される。「父は子と、子は父と対立する云々」というわけです。

イエスに従うことと家族内対立


こういう言葉を聞くと、私たちはすぐに、次のような図を思い浮かべます。イエスに従おうとする人(たとえば子)がいて、同一家族内にそれに反対する人(たとえば父)がいる。両者の間には、イエスに従うことをめぐって激しい意見対立がある。子の中でイエスを主と崇める気持ちが強ければ強いほど、この対立は激化する。ともかくここでは、イエスに従う→家族内の対立、という順番で事が進みます。この対立は、まさにイエスがこの地上に到来したがゆえに起きたものですから、イエスの願うもの、と言えそうです。

イエスに従うことが巻き起こす家族内部の対立、これがイエスの言う分裂の典型だ。こういう理解が一般的かと思います。ただ、だとすると、家族もまた主に従う人だったりした場合、どうなるのかが気になります。この場合、家族内部にこの問題に関して、当初想定していたような対立は起きない。家族みんなが主に従う。これがかえってまずいということになってしまう。イエスは分裂のためにこの地上に来たのだから。そこで生真面目な人の中には、イエスに従う→家族内の対立という因果関係を逆転して、目的手段の関係に置き換えようとする人が出て来たりします。イエスに従うためには(目的)、家族の中で対立がなくてはならない(手段)。家族と対立しなければイエスに従うことにならない、とか。何だか結構、倒錯してます。

分裂はそもそも何のためのものか


ともかくこの方向で考えを進めると、混乱をきたします。そこでいったんリセットして、「分裂」そのものに思いを致してみたらどうか。イエスは分裂を与えるために来たというが、そもそもその分裂は何のためなのか。分裂がなぜそんなに大事なのか。分裂に関しては、このような問いを立てることができるように思います。先ほどの「火」については、こうした問いはあまり意味をもちません。精錬の火であれ、福音の力としての火であれ、火の意義は自明だからです。「火を投ずるため」と言われればそれで終わりです。「そもそもその火は何のため」とは問わない。ですが、分裂に関してはそうではない。

分裂は何のためなのか。イエスは分裂を与えると言う。その分裂の先には何があるのか。何がめざされているのか。人間世界のこととして考えれば、分裂すなわち敵対にはそれなりの効用があります。敵対する党派がそれぞれの立場に立脚して知恵を絞って論争すれば、思わぬ成果が生まれるかもしれない。よき政策が出てくるかもしれない。一党独裁では起こりえない成果をもたらす効用が、敵対にはある。ですが、いま考えようとしているのは、世の中のことではなく、信仰のことです。互いに愛し合え。これがキリスト教の根本にある教えです。分裂せよ、敵対せよ、という宗教ではない。しかもイエス・キリストの説く愛は並大抵のものではない。愛されて当然の人を愛せ、ということではなく、愛しえない人〔敵〕を愛せ、というのですから。こういう宗教、こういう信仰に生きている人に対して、イエスは、「地上に分裂をもたらすために来た」と言っている。

先ほど「天的なもの(神的なもの)の地上への介入」についてふれました。そこでふれた区別に従えば、前段で述べたことは、愛による介入と括られる内容です。不可思議な愛というかたちで神は地上に介入している。これに対し、いまここで問題にしているのは、審きというかたちの介入なのでした。では審きというかたちの介入を前提にしたときに、分裂にどのような意義があるのか。

審きと分裂


当然のことですが、いまここで問題にしている審きは、人間一人一人の問題です。娘のことが心配だからと言って、母親がそこに口を出すことはできない。逆もしかりです。どんなに親密な関係だからと言って、審きの場にはその関係はもち込めない。審きは一人一人が単位です。親密な関係から切り離され、一人一人が神の前に立つ。親密な関係が崩され、一人一人が分かれ分かれになる。このことが分裂の意味と言えそうです。審きの前提条件としての分裂。イエスはこのために来た、と一応は言えそうです。だがしかし、先ほど述べましたように、イエスがここでいう分裂には敵対の含みがあります。その敵対はいまどこにあるのか。敵対は審きの前提になるのか。
たしかに父が子と、母が娘と、嫁がしゅうとめと切り離されるだけではそこに敵対の影は見えない。しかしイエスの目はそこに敵対の影を読み取っている。いかに親密な人同士でもそこに敵対の影がある、とイエスは語っているようだ。そしてそれをあらわにするためにわたしは来た、と言っているかのようだ。しかしこのことはなかなか理解しがたい。「いかに親密な人同士でもそこに敵対の影がある」とは、いささか大げさな物言いではないか。たしかに審きの場では、親密な者同士も分かれ分かれになるだろう。しかしそれだけだろう。

審きと敵対


イエスはどのような意味で、分かれ分かれになることの中に敵対を見出すのか。次のように考えたらどうだろうか。審きの場にいるつまり神の前にいるということは、一人一人その場にいるということだけでなく、神の前の存在としてそこにいるということでもあります。そして神の前の存在としてそこにいるとは、神から本質的に離れた存在つまり罪人(つみびと)としてそこにいるということです。一人一人、分かれ分かれになるだけではなく、一人一人、その本質をあらわにするかたちで、つまり罪人としてその場にいる。そして罪人としてそこにいるということは、他者との敵対を存在条件として含みつつそこにいるということです。これが分裂に含まれる敵対の正体だと思います。
繰り返します。どんなに親密な関係であっても、審きの場では一人一人バラバラになる。それだけではなく、その人の罪人としての本質があらわになるかたちでそこにいる。それはその親密な者相互の敵対を含意せざるを得ない。嫁-しゅうとめ関係ということでいうと、旧約聖書には、ナオミとルツのうるわしい嫁-しゅうとめ関係が思い出されます。私たちの聖研でもルツ記を一昨年読みました。とても印象的な物語です。いまお話している文脈にナオミとルツを載せれば、彼らの関係がどんなにうるわしい関係に見えようとも、神の前では、敵対と映らざるを得ない。神は人を罪人の次元(神から離れた存在の次元)において問題にするということです。そしてその次元においては、どのような人のどのような関係も敵対と見えてしまう。人間は一人一人どうしようもない存在だから。

「分裂をもたらすために来た」ことの意味


イエスは、分裂つまり敵対をもたらすために来たと言ったのでした。ひと一人一人が罪人の次元として神の前に出る。そのことを実現するためにイエスは地上に到来した、と言っているように思えます。この世のさまざまなつながりや親密な関係から人を切り離し、神から離れた存在として神の前に立つ。自らの受難の予感に緊張を覚えながら、そのことの実現を自らの使命と感じとっていたのではないか。そのように感じます。
最後にひと言だけ。上に述べたイエスの使命の自覚と「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉とは、どう関係するか。人を罪人として神の前に立たせること、これがイエスの自覚した使命でした。人は神から離れた存在にすぎない。つまりその存在の条件からすれば敵対しかない。その一方で、平和をこの地上に作り出そうと努力する者がいる。その人も神の前では一人の罪人にほかならない。敵対という存在条件下に置かれている。そう考えると、この人のこの努力は、限りなく尊い。敵対という存在条件下でこの人は平和を作り出そうとしているのだから。だからこそ「幸いである」とイエスは語ったのだと思います。


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