見出し画像

大波の中で見つけた強さ

わたしは今、一つの判断を人に委ねている。ある場所の一員として「選ばれる」か、「選ばれない」か。その判断を、他者に委ねているところである。

必要な情報を他者に渡し、その選抜のシーソーに乗った時から、わたしの心は大波のように揺れている。ざぶん、ざぶんと、選ばれたい思い・希望・期待と、選ばれなかった時の怖さと、それらがわたしの心を波打ちながら飲み込もうとする。

そんな扱えない大波を抱えながら、今日一冊の本を読んだ。

伊藤 亜紗 さんの『手の倫理』。

「さわる」と「ふれる」の違いに目を向け、触覚という視点から人との関わり・関係構築の可能性について説いた本著。伊藤 亜紗 さんといえば、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』や『どもる体』など、身体の不思議な感覚を優しく紐解く研究者で、彼女の著書を読むと、不思議な(時にはよくわからなくて嫌になる)身体の感覚を、受け入れられるようになる。

誰かと会う、誰かに触る/触れるということができなくなった今、人と人が会う臨場性についてふと考えることが多かったので、ヒントになるかもと購入した。

そんな本著で、「さわる」「ふれる」の違いから、「安心」と「信頼」の違いについて説いている箇所があった。

安心とは「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえでひどい目にあわない方に賭ける、ということです。(93)

なんだかこの一文を読んだとき、わたしはいまの「選ばれる」「選ばれない」で揺れるこの心情にリンクするものがあるような気がした。わたしはいま決定権を持つ他者を「信頼」したうえで、この状況にあるのだと、そう思える気がした。

この「信頼」をふれる側(=決定者)とふれられる側(=受ける側)で分けたとき、以下の通り本著は説く。

ふれる側が抱える不確実性は、ふれたことによる相手のリアクションが読めないという不確実性です。つまりリアクションの不確実性を超えることが、ふれる側にとっての信頼になる。
これに対して、ふれられる側の不確実性とは、ふれようとしている相手のアクションが読めないという不確実性です。つまり、アクションの不確実性を超えることが、ふれられる側にとっての信頼になります。
接触とは、この異なる二種類の不確実性が出会う出来事です。(100-101)
ふれる側はふれるという出来事の主導権を行使し、ふれられる側は逆に主導権を相手に手渡す。そこにどんな信頼が生まれているのか。(102)

つまりは、「選ぶ」か「選ばない」かを決める他者(=ふれる側)も、「選ばれる」か「選ばれない」かを突き付けられる私(=ふれられる側)も同様に不確実性を抱えており、不確実性を抱えたうえでわたしたちは出会おうとしている。そして、私はその「信頼」のうえに情報を送り、私は決定者からの「信頼」を真摯に受け止めなければいけない、そんなことを説かれているように思う。

それは「選ばれなかった」時はむごく厳しいことであるけれど、今私は「安心」ではなく「信頼」のうえで行動しようとしていること、「ひどい目にあう」可能性があるけれど、それでも見たい景色があるのだということ。こんな大波の心模様で、なんて自分は弱いのだ、そんなことを思っていたけれど、私は強さを持って行動できているのではないか、そんな希望を見出すことができた。

・・・

本著は、タイトルからも窺える通り、「手に倫理を学ぶ」ことが目的とされている。

そもそも倫理とは何か。

倫理に「迷い」や「悩み」がつきものである、ということは、倫理が、ある種の創造性を秘めているということを意味しています。なぜなら、人は悩み、迷うなかで、二者択一のように見えていた状況にも実は別のさまざまな選択肢がありうることに気づき、杓子定規に「~すべし」と命ずる道徳の示す価値を相対化することができるからです。(40)
道徳は、定まった答えや価値をなぞること、つまり「価値を言い切ること」が中心になるのに対し、倫理は「価値について考え抜くこと」をも含むのです。(40)

周りにはたくさんの倣うべきようにみえる「こうすべし」があるように思えてくるけれど、迷い、悩みながら価値について考え抜くこと、選択肢を見出すこと、そんなことを倫理と言う。

今後も、触覚を始めとした、身体の不思議な感覚を通し、それを単に嫌になるのではなくて、そこからリアリティをもって、迷い悩みながら考え新たな可能性を見出し、「倫理」への考察に進めていきたいものである。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?