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ヘルシーに生きる。

なんだか最近は本当に疲れていた。

仕事では、魔の3月末、掬うと両手からぼろぼろこぼれ落ちるほどのタスクが、気がついたら目の前に積み上がり、残業の日々。それも間違えられない数字の仕事が多く、大雑把なわたしにとっては苦手な仕事で、あっぷあっぷと高波をなんとか泳ぐような時間が続いていた。
そして、徐々に改善しているものの、花粉症で常にどこか眠たく、鼻も耳も違和感が残る。おまけに生理痛。

ヘルシーに、もっと楽しく毎日生きたいのに、そんな想いとは裏腹に日々心が荒み、内に篭ってしまう様が、自分自身も歯痒かった。きっとここで、わたしは何か書かないと抜け出せないのだろうーーそう思っても、筆が進まない日が続き(進んでもものすごく読みづらい文章しか書けない日々が続き)、この下書きも熟成させてから1週間以上経過している。

どうやったら抜け出せるだろうかと考えていると、そもそもヘルシーに生きるとはどういう状態を指すのだろうか、そこに考えが進んでいった。

・・・

“ヘルシー”と”生き方“が結びついたのは、ここ最近のことなのではないだろうか。ヘルシーと言えば、油分カットだとか、カロリーオフだとか、そういったスリム体型を目指す、健康的な食品の印象が強かったのが、いつのまにか生き方のような壮大なフィールドにも陣を敷いてきた、そんな印象がある。

それを生き方に転用させるとなると、毎朝水を一杯飲むだとか、日の光を浴びるだとか、運動するだとか、寝る前にブルーライトを浴びないだとか、そういう話になるのだろうか。もちろん、それらは健康的に生きるうえで間違いなく大切なことであると思うが、今のわたしがそれらを取り入れたとしても、それだけで「ヘルシーに生きられる」ようになるとは思えなかった。

では、ヘルシーに生きるとは何だろうか、と悶々と考えていると、ある尊敬しているライターの方のSNSで以下のような意味合いの投稿があった。(期間限定の投稿だったため、ちゃんとは覚えていないのだけれど)

「自らが関わったサービスを、自分のお金で買いたくなるってとってもヘルシーなことだと思う」

ああ、となんだか腑に落ちた気がした。

ヘルシーに生きるというのは、影響を受けるものと、自らの存在が影響を与えるもの、そのバランスが心地よい状態を言うのではないだろうか、と思う。

よく考えればヘルシーと謳われる食品も、カロリーや油分をカットして、それは体内に取り入れるエネルギーと放出するエネルギーのバランスを保とうとしていた。

かく言う今のわたしは、仕事でもオフタイムもどこか受けるものが多い日々が続いていた。仕事では日々流れる多量の情報、それらを捌き切れない手持ちのタスクの多さ、本当に全て正確であるか不安が残る成果物。オフタイムもSNSなどから流れる多量の情報、疲れからそれらを消化する時間を取れず、それでも新たな情報をとりあえず流す日々。

受けるものと発するもの、それが完全にイコールになることは難しいと思うが、心地よいバランスを常に探り、その理想を忘れないこと、そのことこそがヘルシーに生きるということに繋がるように思う。

そしてそれは、受けるものを減らす努力も、発する影響力を自分の無理なく納得感の高いものにする努力も双方のアプローチがある。

いつかの好奇心から契約したけれど使っていないサブスクや、フォローし切れていない情報網を、”今は距離を置こう”と一度自分の身体から引いてみたり、自分の苦手な作業を減らして得意な作業を増やしてみたり。

そうした自分の身体を軸とした受動能動のバランスこそに、ヘルシーに生きるポイントがあるような気がした。

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今日、『あのこは貴族』という映画を見た。

“箱入り娘の華子”と“地方から上京してきた美紀”、ふたりの女性が、それぞれの状況において生きづらさを抱えるなかで、違和感を繊細に見つめ、自立し生きようとする様が繊細に優しく描かれていた。

その中で、ある女性が“まとも”な人生を歩もうと、何かを「得る」ことを中心に考えていたが、それに違和感を感じ、レールを外れるものであれど自らの存在が心地よく影響力を発することができる方向へ変化をさせている様があった。様々な柵に直面し、レールから外れたことに様々な意見を受けているであろうけれど、それでも影響力を発することができている彼女の表情には変化があり、それは以前よりも増して、「ヘルシーに生きている」姿がそこにあった。

世の言う“まとも“な人生でなくても、受けるものと放つものの均衡が取れ、それに納得をしていること、そのことが人生を”生きている感“を味わうことに強く影響していることを思わずにはいられなかった。

あるWebマガジン上で本作の監督の以下の言葉を見つけた。

「自分の生き方」って、あたかも最良の道を選び取ったみたいな耳障りのいい響きで表現されるけれども、結果論として今の人生を生きているだけで、本当に選択できているのか疑問だったりもして。生きているというより、死んでいないだけみたいな感覚があるんですよね。

わたしたちは「死んでいないだけの日」を生きるのではなく、「生きている日」を生きることが、きっとヘルシーに生きることで。そしてその「生きている日」を積み重ねることも、ヘルシーに生き続けるほかないのではないだろうか。

受けるものも、発するものも、バランス良く、生きて、生き延びたいものです。

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