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青木健『ペルシア帝国』(講談社現代新書 2020年)の諸問題

「ひどいよドクロちゃん。何がひどいって全部ひどい」
 (OVA「撲殺天使ドクロちゃん」第2期4話より)

 この記事ですが、タイトルに掲げました通り、青木健『ペルシア帝国』(講談社現代新書 2020年)を読んでの感想や批評、および古代ギリシア史を学んだ人間からのツッコミです。
 『ペルシア帝国』がお手元にあって、なおかつどんな問題点があるかを把握したいという人向きの記事ですので、「面白ければヨシ!」という方にはオススメしません。
 また、私の専門分野の都合上、本書全体の4分の1程度、アカイメネス朝に関わる部分のみを批判の対象としています。これ以外の時代・地域の問題点を把握したい方は以下の記事やレヴューが参考になります。

・春田晴郎先生の連続ツイート https://twitter.com/HarutaSeiro/status/1307841405193080832
・「青木健著『ペルシア帝国』で確認した内容」 http://shahr.seesaa.net/article/477472591.html
・「意欲的ですが、勇み足も目立ちます」 https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3H1VRYW6PP4PL/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4065206618

では、よろしいでしょうか。はじめましょう。

※10/26追記。ご指摘のあった誤字や、「まったく」「全く」の混在、重言などを修正しました。

前置き

 ここ最近、外国史においては特定の人物に焦点をあててその時代の特徴や、政治や社会を明らかにしようとする一般向けの歴史の本が「アツい」ように思います。そのような本としては例えば「世界史リブレット人」シリーズをはじめ、アレクサンドロス大王、カエサル、アントニウス、クレオパトラ、セネカなどを取り上げた新書版の本や、伝記的著作をあげることができましょう ⁽¹。これらの本の中には近年の考古学や碑文の読み解き、後の時代への受容研究も取り入れたものもあり、一般読者の獲得だけでなく、研究の裾野を広げるものとして評価できます。本書『ペルシア帝国』もまた、かつて君臨した皇帝やその皇妃、将軍たちの人物群像のような手法をとり、ペルシア語史料や考古資料を用いてペルシア帝国の興亡に迫るものです。
 さて、本書『ペルシア帝国』の著者は、ゾロアスター教やイラン・イスラーム思想を専門とする、静岡文化芸術大学教授の青木健(あおき たけし)氏。主な著書としては『ゾロアスター教』『マニ教』『アーリア人』があります。
 本書は2部構成でして、9つの章と、プロローグ・エピローグ・研究入門の3つの付章からなります。前半がハカーマニシュ(アカイメネス)朝とアルシャク(アルサケス)朝、後半がサーサーン朝に分けられます。つまり、ペルシア帝国の通史です。内容としては、まずそもそも「ペルシア」とは何かから書き起こし、アカイメネス朝とササン朝がどうやってオリエントの地を統治したかについて、各皇帝の政治、宮廷内部の闘争劇、彼らの行った戦争、適宜思想・文化・経済活動にも触れつつ再構成するものです。
 ペルシア帝国を真正面から扱った一般向けの日本語書籍は割と珍しく、過去には足利惇氏さんの『ペルシア帝国』、ピエール・ブリアンの『ペルシア帝国』と、平山郁夫シルクロード美術館の収蔵品を紹介する『栄光のペルシア』などが出版されていますが、古代地中海や古代中国に関わる書籍の出版状況と比べるとお世辞にも「多い」とは言えません。青木氏の『ペルシア帝国』はここに新たに加わる形で出版されたといえます。
 ……と、こう書くと、「アカイメネス朝だけでなくササン朝まで扱ったペルシア帝国史となると、日本語で書かれた本はあんまり無いし、とても貴重な本なのでは?」と思えるかもしれません。私もこの本が実際に発売されるまで、2020年の8月下旬まではそう思っていました。
 ところがです。いざ注文して届いたものをパラパラと読んでみたところ、とりわけギリシア史に関する部分が、はっきり申し上げてひどい。何がひどいかというと、次のようなものが挙げられます。

何がひどいって……

①ギリシア語アルファベット由来の固有名詞が読めていない。
 最も気になるところです。本書『ペルシア帝国』は「ダーラヤワウシュ」「アルタクシャサ」のように人名のギリシア語読みは採用せず、初出の際にカッコ付きで“ギリシア語読みでは◯◯”と言うにとどめています。それはそれでまったく構わないのですが、その一方でギリシア語をカタカナ読みした地名・人名の読み方が書籍内で統一できていなかったり、ギリシア語読みとラテン語読みが混在しているといったミスが目立ちます。そもそも日本語圏で標準的に用いられている古典ギリシア語入門書 ⁽² をもとに勉強したら、このようには読めないはずという珍妙な人名も見受けられます。正直申し上げますと、青木氏がギリシア語アルファベットをきちんと読めているのか怪しいと感じざるをえませんでした。

②ギリシア語・ラテン語文献を排除したかと思いきや、ある場面では無批判に用いるなど、スタンスがブレている。
 この本『ペルシア帝国』はギリシア語・ラテン語で書かれた文献を「二次資料」として扱い、あまり重視していません。巻末の研究ガイドにおいても「西洋古典学に属するので、ここでは列挙しない」とし、たった三行で片付けています。
 例えば、ペルシア語史料とギリシア語史料とである出来事に対して異なる記述が存在する場合は、「どちらが正しいのかは不明」とお茶を濁してみたり(77頁)、ギリシア語史料の方を定型的であると批判し、退けています(99頁)。
 私は当初、それこそかつてのポストコロニアリズムに裏打ちされたような、ギリシア中心的な叙述を批判する挑戦的な試みなのではないかと思いました ⁽³。ところがよくよく読み進めてみると、ローマ期の伝記作家プルタルコスの記述——ギリシア語で書かれた文献です——を疑うことなく、ある人物の一面を示すエピソードとして紹介したり、他方で、小キュロスの反乱とその後の顛末についてはクセノフォンやクテシアスといったギリシア語文献の記述に頼りきっています(89〜91頁)。
 そもそも、本書の叙述がどこからどこまでをギリシア語文献に頼っているのかは殆ど明示されません。新書版ですので、文字数ページ数に制約はあるのでしょうけれども、これでは後追いでの検証を困難にさせてしまいますし、ギリシア語史料を不当に貶める物語を読者に提供することになります。
 このように、著者青木氏のギリシア語史料に対する姿勢には振れ幅があります。そして、なぜここまでギリシア語史料を冷遇するのかは分からないままです。

③西洋史学の理解が雑で、ギリシア史の先行研究をことごとく無視している。
 本書には巻末に参考文献が挙げられています。ブリアン(Briant)やカート(Kuhrt)といった重要なものも青木氏は参照したようですが、正直物足りなさを感じざるをえません。
 まず、ギリシア語文献に集中しがちな既存のアカイメネス朝研究を批判したサンシシ=ヴェールデンブルフ(Sancisi-Weerdenburg)が編集した論集をちっとも意識していません ⁽⁴。また、近年のペルシア史研究に対する目配りも不十分で、アレン(Allen)もブロシウス(Brosius)もクック(Cook)もハリソン(Harrison)もタプリン(Tuplin)もウォーターズ(Waters)も挙げていませんし ⁽⁵、ギリシア以外のコーカサスや黒海沿岸といった地域とペルシアの関係について扱った研究も一顧だにしていません ⁽⁶。さらに、ペルセポリス城砦文書についての史料集を公刊したハロックの名前を挙げておきながら(358頁)、その著作については文献表の中で列挙していません ⁽⁷。
 致命的なのは、日本語で書かれた研究の蓄積を明らかに考慮に入れていないことです。例えば、本書ではアレクサンドロスの事績について「自由なギリシア人が帝国の圧政からアジアを解放した、というのは近代ヨーロッパ人の思い入れが過ぎるのでは(大意、104頁)」とギリシア史だけでなく、より遡って近代歴史学の歴史叙述を批判しています。この他にもいくつかの箇所で西洋史学の批判を行っているのですが、はっきり申し上げますと、アナクロニズムに満ちたものです。
 西洋古代史にも一切の問題が無いわけではありません。過去にはサイード的な見方やジェンダー学をもとにした批判が行われたこともありましたが、その都度各研究者の問題関心の中で各自検証を重ね、磨き上げを行ってきました。ですが、青木氏はそうした試みに応えてはいません。中井義明先生のペルシア戦争研究も ⁽⁸、森谷公俊先生のアレクサンドロス研究も参照した形跡がありません ⁽⁹。ようは、古代史研究者からの既存の歴史叙述・歴史認識の再考を無視しているのです。西洋史学への理解が雑と申し上げてもいいでしょう。氏が西洋古代史の蓄積を利用し、こうした書物へ一定程度の配慮をしたならば、上述したような時代錯誤も甚だしい記述は生まれなかったはずです。

 と、いったところで大まかな問題点の指摘は以上です。これ以外にも単純な事実誤認や、何を情報源にしたのかさっぱり分からない記述もあちらこちらにあります。
 それでは、頁順にどこかおかしいかを具体的に挙げてみるとしましょう。

本書のおかしなところ

33頁「ギリシア語名アルティユストネ」
 ギリシア語文献に依拠するなら彼女の名前はアルティユストネではありませんアルテュストネ(Ἀρτυστώνη)です(Hdt. 3.88.)。

34頁「パサルガダエ(ギリシア語名。」
 これはラテン語名です。ギリシア語名にするならパサルガダイ(Πασαργάδαι)です。

34頁「リディア」
 細かいようですが正しくはリュディア(Λυδία)です。ですが、私としては正直別にリディアでも構わないかなと思います。なぜならこれで杓子定規に直してしまうと、バビロニアもバビュロニア(Βαβυλωνία)に、エジプトもアイギュプトス(Αἴγυπτος)に直さなければいけません。一般向け書籍でここまでやってしまうとさすがに読みにくいですし、不問にしてもいいのかもしれません。
 ただですね、本書の99ページではフリュギア(Φρυγία)といった具合に、ちゃんとυを読む、ギリシア語的に正しいカタカナ表記にしています。
 このように、本書は地名のギリシア語読みの不統一が目立ちます

35頁 図6「ギリシア人の植民地」
 スパルタやアテナイといった植民者を地中海沿岸各地に送り出していたポリスまでギリシア人の「植民地」(そもそも古代史の用語では「植民市」というわけですが、それはまぁ置いておきます)としてひとくくりにされてしまうのは雑すぎます。そもそも植民市なら、紀元前6世紀中頃には黒海南岸のシノペ ⁽¹⁰ や、黒海東岸のファシスやギュエノス ⁽¹¹ にも、エジプト ⁽¹² やリビュア ⁽¹³ の沿岸にも進出していました。
 それにしても本当に色分けが分かりにくい地図なので、ひょっとしたら私の見間違えや誤解かもしれませんが、この地図だとキュプロス島がリュディア王国と同じ色に塗られていますよね。こうして指摘するということは、お察しいただければと思うのですが、キュプロスがリュディアの勢力圏に加わったことはありません。まず、キュプロスにはかなり古い時期(紀元前11世紀)からギリシア人が入植していたようで ⁽¹⁴、それこそホメロスの叙事詩にもこの地の名を見出すことができますし ⁽¹⁵、この島の各ポリスは様々な建国伝承を持っていました ⁽¹⁶ 。紀元前9世紀頃にはフェニキア人もこの地に移住し ⁽¹⁷、紀元前8世紀末になると島全体がアッシリアの勢力圏に加わりました。ただし、楔形文字は受容せず、独自の音節文字を用いることとなります ⁽¹⁸。アッシリアの滅亡後、百年ほど外国勢力不在の状況が続いたようですが、紀元前6世紀半ばにエジプトがキュプロスを占領し ⁽¹⁹、さらにその少し後にペルシア帝国に降った ⁽²⁰ というのが古拙期のキュプロスの歴史です。
 いずれにせよ、古代の東地中海〜黒海沿岸世界が本書35ページの地図のような状況になったことは一度もありません

38頁「アーリア系遊牧民マッサゲタイ」
 マッサゲタイがアーリア系というのは聞いたことがありません。古典文献ではスキュタイ人と同じ民族であるとか(Hdt. 1.201; Isid. Etym. 9.2.62.)、アラン人だとか(Amm. 23.5.16.)、ゴート人だとか(Jord. Get. 10.61.)、フン人だとか(Procop. De Bellis 3.11.)言われています。古典文献を離れて、彼らが「アーリア系」だとするなら根拠はなんなのでしょうか?

41頁「これがメディア人のマゴス神官団の影響なのか……(略)……はわからない」
 ヘロドトスの3巻31章、カンビュセスが自身に都合のいい法律を見つけさせて姉妹と結婚したという話をなぜ無視するのでしょうか?

53頁「ヒルカニア総督」
 細かいようですがギリシア語ではὙρκανίαなので、ヒュルカニアが正しいです。

53〜54頁「「七人の同志」とは……(略)……ギリシア語名インタファレネス、ゴブリアス、ヒダルネス、メガビュズス」
 なぜこのように読めるのか理解に苦しむ箇所です。
 まずインタファレネスではなく、ギリシア語はἸνταφρένεςなので、きちんと読むならインタフレネス。ゴブリアスではなくゴブリュアス(Γοβρύας)。ヒダルネスではなくヒュダルネス(Ὑδάρνης)。メガビュズスではなくメガビュゾス(Μεγάβυζος)。41頁でヘロドトスを無視したのと対照的に、ここではヘロドトスの3巻70章に完全に依拠しています。

67頁「この「王の道」が到達していないペルシア州は……(略)……経済活動から取り残される格好になった」
 ヘロドトス(Hdt. 5.52-53.)のみを情報源にしてしまったのでしょうか? ペルセポリスとスサの間にも「王の道」は存在していました。この時代の通信網の発達に関しては川瀬豊子さんの論文が参考になります(川瀬(1998))。

71〜72頁「ウタウサ[アトッサ]がいかに権力を振るっていたかは、アイスキュロスの『ペルシア人』のなかで……(略)……克明に描かれている」
 所々でギリシア語史料を批判したり(これはまぁ、当然のことではあるのですが)退ける一方、アイスキュロスの『ペルシア人』におけるアトッサが「克明に描かれている」とするのは、なんだか、史料の扱いに温度差を感じてしまうものです。
 『ペルシア人』はあくまでも、アイスキュロスという悲劇詩人の手によって書かれ、上演された「悲劇」です。ペルシアの宮廷について正確に写し取ったものとは言い難いところがあります。何よりも重要なことですが、史料のなかのこの「ペルシア王族の女性」は紀元前5世紀のアテナイの男性であるアイスキュロスによって描かれたもので、そうした点でのフィルターも通っているものです。悲劇史料のみからアトッサの振る舞いの実態を引き出すことは困難です。ところで、青木氏は別の箇所でも(72〜73、78〜79、88頁)ペルシア王族の女性についてその「性格」をあれこれと書いてはいますが、元としたギリシア語史料に宿るジェンダー的な偏向に、そしてそれを把握・批判した上での読解や研究の蓄積(cf. James & Dillon (2012) p. 1; MacLachlan (2012) pp. Vi-Vii)に、青木氏がどの程度意識を向けているかは疑問です。いずれにせよ、アイスキュロスの作品については、アテナイ社会の女性への眼差しや、アテナイ人のペルシア認識の中で位置付ける方が良いかと(cf. 桜井 (2010) 19〜22頁)。

76〜77頁「ヤウナ遠征[ペルシア戦争]の際についでに破壊したアテネのパルテノン神殿」
 いわゆる「古パルテノン」(Hdt. 8.53)と混同している……? パルテノン神殿の建設開始は紀元前447年からで、装飾を含めた完成は紀元前431年です。この記述だと読者に混乱を与えてしまうような気がします。

77頁「近衛隊長のアルタバヌス」
 ギリシア語文献に依拠するなら彼の名前はアルタバヌスではありません。アルタパノス(Ἀρτάπανος)です(Ctesias F 13(33)=Photius 72.40.)。 

79頁「リビア王イナルス」
 正しくはイナロス(Ίνάρως)です。

79〜80頁「カリアスの和議」
 ペルシア戦争の講和条約であるカリアスの和約について、まるで事実であったかのように書いてあります。正直申し上げますと、青木氏のギリシア語史料に対する態度を鑑みると、すごく奇妙に感じます。というのも、この条約が本当にあったかどうかについては議論があるのです。
 この条約があったとする根拠は、この時代から少なくとも70年経過したギリシア語の文献、特に弁論史料という、ある種の意図を持って操られ、事実の歪曲を躊躇わないものに現れます(Dem. 15.29, 19.273; Diod. 12.4; Isoc. 4.119-120など)。話者の記憶違い ⁽²¹ もあるでしょうし、事実の取捨選択も行われます。そして重要なことですが、紀元前4世紀の歴史家カリステネスは、その条約があったことを否定しました(FGrH 124 F 16=Plut. Cim. 13.4-5.)。つまり古代世界においても、条約があったかどうかはよく分からない、曖昧なものになっていたのです。
 おそらく実際は、紀元前5世紀におけるその時々に交わされたいくつかの休戦条約をひっくるめる形で、後の時代になって「カリアスの和約」として語られたのではないかという方が可能性が高いように思います ⁽²²。
 それにしても本当に不思議です。ギリシア語史料を相手にしなかったり、時にバッサリと切り捨てる青木氏が、なぜまたこのような真偽に議論がある出来事を何の躊躇もなく、ちゃっかりと取り上げるのでしょう。

87頁「サイスのアメニルディス」
 アメンイルディス(アミュルタイオス Ἀμύρταῖος)のこと?

88頁「正妻スタテイラ」
 72頁とも関連するのですが、アルタクセルクセスの妃スタテイラについて、プルタルコスの記述(Plut. Art. 5.3.)を批判することなく、それでいてまるで見てきたかのように「甚だ強気」「プライドが高い」と書くのは、いかがなものかと。
 
89頁「アルディフィヤ将軍の息子アリマス」
 えっ……誰? ひょっとしてアリアイオス(Ἀριαῖος)でしょうか?
※10/31追記。「彼の一族の……(略)……納骨器がリミュラで発見され」から察するに、おそらくアルティマス(Ἀρτίμας)を誤って読んだものと思います。碑文はこちら( https://epigraphy.packhum.org/text/283887 )から閲覧可能。碑文番号はTAM 152 (Kalinka, E. hrsg., Tituli Asiae Minoris I: Tituli Lyciae Lingua Lycia conscripti, Vienna, 1901, nr. 152.)。

90頁「ギリシア人傭兵部隊を率いたクールシュは」
 クナクサの戦いにおいて、キュロスの陣営にも地元の兵が大勢(Xen. Anab. 1.7.10.)がいたこと、少数ではありますがトラキア人(Xen. Anab. 1.2.9.)やパフラゴニア人(Xen. Anab. 1.8.5.)など様々な出自の人たちがいたことを見落としています

96頁「かなり信憑性に疑問のあるギリシア語文献の記録」
 この「ギリシア語文献」とは紀元前1世紀のシチリアの歴史家、ディオドロスが書いた『歴史叢書』のことです。青木氏は唐突にディオドロスにケチをつけています。
 確かに、アルタクセルクセス3世のエジプト遠征に関わるディオドロスの記述には、時系列の乱れ(Diod. 16.44, 16.47; Stronk (2017) pp. 261-267.)や、他史料との齟齬(Diod. 15.93; Stronk (2017) p. 255.)といった問題があります。この点のみを抽出するなら、ディオドロスの史料的な価値は低いとみなされてしまうかもしれません。しかしながら話はそう単純ではありません。
 基本的なところから確認すると、アルタクセルクセス3世のエジプト遠征の失敗については、同時代史料であるイソクラテスやデモステネスも語っています ⁽²³。つまり遠征の失敗そのものまでもがディオドロスの作り話ではありません。
 しかしながら(こう書くと少し退歩したように見えるかもしれませんが)、そもそもディオドロスが『歴史叢書』の15巻と16巻、紀元前386年から紀元前336年の出来事について執筆した目的は、スパルタの覇権の喪失からフィリッポスが暗殺されるまでの歴史を自らの道徳観に基づいて語ることにあります ⁽²⁴。ディオドロスは、正確な事実の陳述を重視したわけではなく、賞賛に値する個人を探求することに関心を抱きました ⁽²⁵。
 ところで、前述したデモステネスにせよイソクラテスにせよ、青木氏が信頼を寄せる粘土板やペルシア語碑文もそうですが、そこに記された「事実」から、明確な事実関係を我々はどれほど知ることができるでしょうか。粘土板や碑文でさえも、注文主や書き手による事実の選択は行われていることでしょう。私たちはディオドロスに限らず2000年以上前の事実の陳述 ⁽²⁶ から、「信憑性」のある事実のみを抽出することが果たしてできるのでしょうか。
 こうした史料の持つ特徴や、作家の戦略を青木氏がどの程度把握していたかは存じ上げません。ですが、研究者がすべきことは残存する個々の史料の性格を認めた上で、史料批判や先行研究の吟味をもとに、最も可能性の高い選択肢を提示することであって、ディオドロスを貶めることではないはずです。

97頁「アルタクシャサ3世は……(略)……フェニキアの首邑シドンを徹底的に破壊して、統治の繁栄に止めを刺している」
 シドンがペルシアに反旗を翻し報復を受けたのはその通りです(Diod.16.5-45.)。けれども、シドンのその後を述べる別の史料があります。アレクサンドロス大王がこの地にやってきた時、シドンは復興を遂げているようにも思えますし(Curt. 4.1.16-26.)、テュロス攻略の際はこの町の港に220隻近くの艦隊を停泊させています(Arr. 2.20.1-5.)。破壊はされたものの、比較的早期に復興したと見ても良いのかもしれません(cf. マーコウ (2007) 76〜79頁)。

99頁「ギリシア語文献の方は、彼らの歴史叙述の定型パターンに忠実に即している」
 青木氏のディオドロス(Diod. 17.5.3.)への無理解を示す一文です。前述した通り、ディオドロスは多数の文献を用いて自らの歴史叙述の信頼性を高めようと努力していますし、時に引用文献から逸脱し、自らの見解を交えることもあります。
 こうした古典史料の特徴を考慮せず、ディオドロスを「定型パターン」と断じたり、挙句「淡々としている……(略)……方が、信頼が置けそう」と、青木氏は史料批判どころか、個人的な好みでの史料選択を行っています。

103頁「西洋史の観点から見れば、続くアレクサンダー三世の軍事的成功は彼の天才を示すものとされる」
 確かに、アレクサンドロス大王(アレクサンダー表記についてはもう不問といたします)は不世出の軍事的な天才であると評価できましょう。ですが、それだけなく父王フィリッポスによる軍隊の準備ですとか ⁽²⁷、遠征に付き従った将軍たちの個々の活動ですとか ⁽²⁸、遠征がオリエント世界に与えた影響 ⁽²⁹ といったところへも分析は進んでいます。
 青木氏の言うような「観点」は一面的であり、しかも西洋古代史研究の進展に注意を払わない、滑稽至極な物言いです。

104頁「この状況を、「自由を尊ぶギリシア人たちが、小アジアの各都市を帝国の圧制から解放した」と描くのは、若干近代ヨーロッパ人の思い入れが過ぎるのではないか」
 そのような「思い入れ」が通じたのは一世紀以上前のお話です。青木氏の小言が何に向けて放たれたのかは分かりませんが、まさか氏は西洋史研究者が皆一様にヘーゲルの『歴史哲学講義』の内容を金科玉条にしているとでも思っているのでしょうか。

104頁「一〇万人前後をかき集めるのに成功したらしい」
 何をもとにした数字でしょうか? アッリアノスとプルタルコス ⁽³⁰ は総兵力60万、ディオドロスとユスティヌスは歩兵40万に騎兵10万、クルティウスは歩兵が25万で騎兵が6万という数字をイッソスの戦いに参戦したペルシア軍の兵数として挙げています(Arr. 2.8.8; Diod. 17.31.2; Plut. Alex. 18.6; Curt. 3.2.4-9; Just. 11.9.1.)。
 近代歴史学では、軍勢の現実的な数への修正というのは見受けられます。例えば、クセルクセスによるギリシアへの遠征軍の兵数に対する異議申し立てです ⁽³¹。古典史料を離れて独自の数字を挙げるなら、その根拠や断りくらいは一言欲しかったように思います。

105頁「自らのハーレムを戦場に置き去りにしてしまい」
 あえて皮肉めいたことを申し上げますが、王にとって親しい女性のいる空間を「ハーレム」と捉えるのは、ギリシア語文献を鵜呑みにした上での妄想です
 そもそも、ペルシア王が戦場に家族を同行させるのは珍しいことではありませんでした ⁽³²。また、ペルシアには親しい女性を隔離する習慣があったと伝わりますし ⁽³³、子どもはその女性たちの中で育てられました ⁽³⁴。中には武芸を身につける女性もいましたし ⁽³⁵、馬に乗って王族を護衛する女性もいました ⁽³⁶。
 ペルシアの女性たちがいる空間を「ハーレム」とするのは——本書80ページもそうですが——、あまりにも単純な語句選択であり、読者に誤解を与えるものです。

106頁「紀元前三二二年」
 紀元前332年の誤りです。

106頁「推定一〇万人規模の軍の再建に成功した」
 104頁の繰り返しになりますが、何をもとにした数字でしょうか? ガウガメラの戦いにおけるペルシア軍の兵数について古典史料があげる数字ですが、アッリアノスは歩兵100万と騎兵6万、ディオドロスは歩兵80万と騎兵20万、プルタルコスは総数100万、クルティウスは歩兵20万に騎兵4万5000、ユスティヌスは歩兵40万と騎兵10万とします(Arr. 3.8.6; Diod. 17.53.3; Plut. Alex. 31.1; Curt. 4.12.13; Just. 11.12.5.)。
 なるほど、これらの古典史料が挙げる数字は膨大すぎて信用なりません。ですが青木氏の言う10万は、どこからの情報なのでしょうか?

107頁「何故、「帝国」の中枢であるバビロン方面へ南下して落ち延びなかったのかは分からない」
 ダレイオス3世の意図はディオドロスに書いてあります(Diod. 17.64.1-2.)。それによると、アレクサンドロスの軍勢と距離を置き、一旦兵士に休息をとらせ、東方諸州の将軍たちに号令し、アレクサンドロスとの再戦を行おうとしたようです。また、帝国東方は峻険な山々からなり、防衛向きです ⁽³⁷。実際にこの地の役人メダテスがウクシオイ人とともにアレクサンドロスの前に立ちはだかり ⁽³⁸、ペルシス総督のアリオバルザネスも侵入経路を塞ぐ形で防衛の任にあたりました ⁽³⁹。

108頁「ペルセポリスに計画的に放火して」
 古典文献には計画的放火(Arr. 3.18.11-12.)と、衝動的放火(Ath. 576e; Diod. 17.72; Plut. Alex. 38; Curt. 5.7.2-12.)の2つの伝承があります。青木氏は計画的だったとする伝承を採用しています。これ自体はまったく構いません。ですが、放火の理由を古典文献・考古資料・近年の研究者の説を踏まえた上で検討する『王宮炎上』(森谷 (2000a))を参照した形跡がないのは残念です。

109頁「アルタクシャサ三世の娘……(略)……が生き残っていたのである」
 大王の朋友、へファイスティオンの妻になったスタテイラ(2世)の妹、ドリュペティスは? cf. Heckel (2006) p. 116.
 この女性は割とあちこちの史料に登場します。イッソスの戦いの際に親類と共にマケドニア軍に捕らえられたものの(Arr. 2.11.9; Diod. 17.36.2; Plut. Alex. 21.1; Curt. 3.11.25; Just. 11.9.12.)、他の一族同様丁重に扱われたようです。
 彼女はアレクサンドロスの遠征に同行しまして、その途上、母スタテイラ(1世)は彼女の腕の中で亡くなり ⁽⁴⁰、娘を喪った祖母シシュガンビスを慰めたといいます。その後はスサに留まり、ギリシア語の教育を受け(Diod. 17.67.1; Curt. 5.2.17-18.)、紀元前324年にへファイスティオンの妻となったのですが(Arr. 7.4.5; Diod. 17.107.6.)、その後間もなくへファイスティオンは病没しました(Arr. 7.14; Plut. Alex. 72; Curt. 10.5.20.)。
 アレクサンドロスの死後、彼女と姉スタテイラ(2世)は、ロクサネとペルディッカスによって暗殺されたと伝わります(Plut. Alex. 77.4. cf. Brosius (1996) p. 78. n. 69; Brosius (2003) p. 177.)。ところが青木氏はここで古典史料の記述から離れ、殺されたのは彼女ではなく、アルタクセルクセス3世の娘でアレクサンドロスの妻になっていたパリュサティスだとしています。これに関しては、おそらく青木氏の推測の方が正しいはずです。へファイスティオンを喪い、政治的な影響力が大幅に減ったドリュペティスを殺害するよりも、ロクサネと同様に大王の妻だったパリュサティスを葬った方が自身にとって有利に働くからです。さらにもし、パリュサティスが大王の子を宿していた場合、それはロクサネにとって後々脅威となる可能性があるからです(Carney (2000) p. 110; Carney (2003) p. 246.)。
 ともあれ、こうしてドリュペティスはその後の歴史書から完全に姿を消すこととなります。(……正直、青木氏のギリシア語史料に対する一連の態度を鑑みるに、きちんと史料批判をした上でこのように書いたのかは些か疑問が残ります)

116頁「いくつもの軍事的エピソードがあったと推測されるが、残念ながら一切伝わっていない」
 青木氏はアッピアノスもストラボンもポリュビオスもオロシウスもユスティヌスもご覧になっていないのでしょうか?
 パルティア王ミトリダテス1世の征服活動について触れるなら、オロシウス(Oros. 5.4.16-18.)とユスティヌス(Just. 41.5-6.)は確認しておいてほしかったものです。ユスティヌスもオロシウスも同時代史料ではない ⁽⁴¹ ので無視したのかもしれませんが。
 また、アッピアノス(App. 11.11.66-67.)なり、ポリュビオスなり(Polyb. 30.9.)、ヨセフス(Josephus AJ. 12.9.1.)なりに目配りをしたならば、シリア王が東方へ遠征を企てたことを、他方でストラボン(Strabo 16.1.18.)を読めばミトリダテスがアテナ神殿とアルテミス神殿を略奪し、10000タラントンの宝物を奪ったことを——事実であったかは置いておいて——確認できたはず。

 ひとまずは以上です。ササン朝に関しては私の力量を超えますので、他の方にお譲りします。

この本を読みたいという人へ

 むしろぜひお読みください。ペルシア帝国に関する日本語入門書は少ないのは冒頭で述べたとおりです。本というのは自らの興味関心のもとに利用したり、あるいは心の支えにすればいいのであって、読む/読まないを強制されたり、読書という行為を阻害されるべきではありません。

 ところで、もしあなたが大学生で、青木健氏の『ペルシア帝国』をもとにレポートや論文を書こうと考えているなら、扱いには要注意です。ずらずらっと挙げました通り、ツッコミどころがすごく多いです。この記述の根拠はなんなのか、どの史料をどう解釈したのか、疑いの目を持ち批判的に読むことを推奨します。(もちろん、このnoteもそうです。適宜ツッコミは入れましたが、かなり抜けがあるはずでしょうし、それ以前に本記事は私アザラシが見た『ペルシア帝国』の批判にすぎないのですから)

(1) 例えば、ゴールズワーシー (2012, 2016)、シュエンツェル (2007)、ロム (2016)。
 アレクサンドロスについてはオリエント世界の諸記録を含む碑文(ボーデン (2019))や受容研究(澤田 (2013))を意識した著作が見られます。
(2) ここで念頭においたのは、池田 (2006)、田中・松平 (1962)といったギリシア語入門書です。但し、私自身もこれらの本通りにギリシア語をカタカナに直してはいません。母音の長短は区別せず(ソークラテースではなくソクラテス)、πとφの発音は区別して(ピリッポスではなくフィリッポス)表記しています。私がそうするのは第一に高校世界史の教科書がこうした表記を採用していること、第二に自分の大学〜大学院時代の先生がこの表記方法で研究成果を発信していたからです。今のところ、これ以上に良いと思われる表記方法を、自分の中で納得のいく形で見出だしきれてはいませんので、どうかこの表記方法にお付き合いいただければ幸いです。
(3) Sancisi-Weerdenburg (1987).
 例には挙げましたが、サンシシ=ヴェールデンブルフらの試みと青木氏のそれを比べるべきではないでしょう。
(4) サンシシ=ヴェールデンブルフが主宰したAchaemenid History Workshopの成果は、Achaemenid Historyと銘打った論文集として刊行されています。2000年に亡くなるまで精力的に活動した彼女の業績については、Henkelman & Kuhrt (2003) pp. 1-7.をご覧ください。
 彼女の仕事の特徴は、ギリシア語史料の偏見からアカイメネス朝を解き放つことでした。特に、クセルクセスの時代の碑文をギリシア史の文脈で解釈するのではなく、アカイメネス朝の歴史の絶頂を示すものとして捉えた論文(Sancisi-Weerdenburg (1989))からはその姿勢がよく伝わります(この論文は、2002年に出版されたBrill’s Companion to Herodotusという論集にも再録されました)。
(5) 近年書かれたもので思いついたものを挙げると、Allen (2005)、Brosius (2000, 2006)、Cook (1983)、Tuplin (1996)、Waters (2014)。
 特にハリソンによるこの分野の論点整理は大いに参考になるはずですし(Harrison (2011))、またいささかの勇み足はあるにせよ、ブロシウスによるエラム語史料を活用したペルシアの女性史研究は、先駆的かつ挑戦的な試みとして取り上げても良かったのではないかと思いますが(Brosius (1996))。
(6) 例えば、Ivantchik & Licheli (2007)、Nieling & Rehm (2010)。
 青木氏がこうした地域研究を無視しているせいでしょうか、本書のアカイメネス朝の歴史を扱った部分はギリシアを貶しがちになり、結局東地中海世界以外のペルシアの周辺世界をも軽視することに繋がっています。
(7) Hallock (1969).
(8) 中井 (2005)。とりわけ本書所収の「ペルシア戦争は自由のための戦いか」(74〜97頁)をご参照いただければと思います。
(9) 森谷 (2000a, 2000b, 2007, 2013, 2017)
(10) シノペはもともとミレトスの植民市だったと考えられています(Ps.-Skymnos 940-952)。考古学的には、紀元前7世紀末〜紀元前6世紀初めに年代決定できる土器が見つかっており、このポリスが紀元前631年に創建されたとするヒエロニュムスの『年代記』の記述とおおむね合致します(Boysal (1959) S. 8-9; Ivantchik (1998) S. 326-330.)。cf. Avram et al (2004) pp. 960-963; Osborne (2009) pp. 83, 185-186.
(11) Pompon. 1.108, 110. cf. Avram et al (2004) p. 953; Tsetskhladze (1992) pp. 239-245.
(12) エジプト第26王朝のファラオ、プサメティコス1世のもとで、ナウクラティスという植民市が作られました(Hdt. 2.178.1.)。cf. Austin (2004) pp. 1238-1240; Möller (2000).
(13) ヒエロニュムスの『年代記』によると、紀元前762年にリビュアにおいてキュレネという植民市が創建されたといいます。キュレネの歴史については、さしあたりAustin (2004) pp. 1243-1247. およびOsborne (2009) pp. 8-16. が参考になりましょう。
(14) Osborne (2009) pp. 35ff; Reyes (1994) pp. 11-13.
(15) Hom. Il. 11.20(意外に思われるかもしれませんが、『イリアス』においてキュプロスの名前が挙がるのはこの一箇所だけです(cf. Hainsworth (1993) p. 218.)); Hom. Od. 4.83, 19.172-177.
(16) cf. Maier (2004) pp.1225-1230; Finkelberg (2005) pp. 149ff.
 各ポリスに様々な伝承があります。例えば、①アマトゥスはビュブロスからやってきて、この地の王となったキニュラスの母の名から取られたと言います(Steph. Byz. s.v. Ἀμαθοῦς)。テオポンポスが伝える別伝として、アガメムノンに随行したギリシア人によって追われた人々がアマトゥスを作ったとも(FGrH 115 F 103=Photius 176.120a)。また、②パフォスはテゲア王アガペノルによって(Strabo 14.6.3.)、③サラミスはエーゲ海に浮かぶサラミス島の王族テウクロスによって(Isoc. 9.18.)、④ソロイはファレロスとアカマスというアテナイ人によって(Strabo 14.6.3.)それぞれ建国されたと伝わります。
(17) Reyes (1994) pp. 18-21; 栗田・佐藤 (2009) 120頁
(18) Elayi (2017) pp. 72-78, 235-238; Maier (2004) p. 1223; Reyes (1994) pp. 49-68. キュプロス音節文字についてはさしあたりチャドウィック (1996) 85〜95頁をご参照ください。
 ところで、紀元前673/2年に刻まれたエサルハドン王の六角柱型の碑文からは、キュプロス島内に10の王国があったことが窺えます。推測される都市王朝はイダリオン、キュトロイ、サラミス、パフォス、ソロイ、タマッソス、レドロイ。カルト・ハダシュトという都市はキティオンに、ヌリアという都市はアマトゥスにそれぞれ対応していると考えられます(Campbell Thompson (1931))。
(19) Diod. 1.68.6; Hdt. 2.182. Maier (2004) p. 1223; Reyes (1994) pp. 69-84; Tuplin (1996) pp. 32-37.
(20) Maier (2004) p. 1223; Reyes (1994) pp. 85-97.
(21) cf. Thomas (1989) pp. 119-123. 例えば弁論家アンドキデスは、その第三番弁論において「“エウボイア”での戦争の和平の際に“ミルティアデス”を使節にし、スパルタとの間に“50年”の和平を締結した(And. 3.3-4.)」と述べる箇所がありますが、彼の記憶違いのせいか、整合性が取れない話になっています。
(22) 「カリアスの和約」をめぐる論点の整理としては、Bosworth (1990)、師尾 (1990)をご参照ください。
(23) Dem. 15.11; Isoc. 5.101.
(24) Diod. 15.1, 16.1.
(25) Green (2006) pp. 3-4; Llewellyn-Jones & Robson (2010) pp. 38-40.
 ディオドロスを信憑性云々と理由をつけて批判をしても、もはや得るものはないでしょう。なおかつ、自著を引用で固めた硬直的な歴史家でもありません。彼の史筆の特徴を把握した上で再構成を試みた方が、少なくともディオドロスの著作を貫く戦略性に足を掬われたり、逆に遠ざけたりするより実りは多いはずです。
 なお、ディオドロスの著作に見られる教訓的な側面——善い人は敬虔で、勇敢で、公正で、そして謙虚でいる方法を知っている。悪い人は残酷で、不信心で、貪欲である。悪い人だけでなく、たとえ英雄であっても、最終的には報いを受けるものなのだ——の検討についてはHau (2016) pp. 73-123を。
 ディオドロスの著作のペルシアに関わる部分の註釈および、彼の「ペルシア史」の特徴はセミラミスから続く継続性にあると解釈するものにStronk (2017)があります。
(26) 「いかなる客観的な陳述も、価値判断であることから免れることはできない。事実の陳述は、結局のところ、事実でなく陳述である。事実の陳述もひと皮剥けば、そこには数多くの価値判断が潜んでいる。事実を述べるということは、とりもなおさず、そうすることが価値のあること、そうすることが他の行為よりも価値のあることを認めていることになる」イーグルトン (2014) 上巻52頁
(27) 代表的なものにHammond (1994)。短く簡潔なものではありますが、考古資料に目配りしながらマケドニアの起源からフィリッポス2世までの歴史を辿るBorza (1999)や、宮廷の女性の活動や、フィリッポスが用意した軍隊や、フィリッポスとアレクサンドロスを古代文学がどう描いたかといった角度から、父と息子の関係に焦点を当てるCarney & Ogden (2010) の論文集もあります。
(28) 例えば、Heckel (1992)。アンティゴノスや、エウメネスや、リュシマコスといった、アレクサンドロスの将軍たちの伝記的な研究書もここ30年ほどであれこれと出版されています(Anson (2004), Billows (1990), Lund (1992))。
(29) オリエント世界に残ったアレクサンドリアについてアラビア語史料を駆使し分析するFraser (1996)、バクトリアやソグディアナやインドでの征服活動について検討するBosworth (1996)が挙げられましょう。
(30) あるパピルス断片には、アッリアノスやプルタルコスと同じくペルシア軍の兵数が「60万」と挙げられています(P. Oxy. 15.1798. F 44 col. ii)。アレクサンドロスの個々の戦いにおける兵数の検討はさしあたりヘッケルをご覧ください(Heckel (2008) pp. 159-160)。
(31) 中井 (1989)。ヘロドトスは、クセルクセスの兵力が陸海あわせて231万7610名だったという、やたらと具体的な兵数を挙げていますが(Hdt. 7.60-97, 184.)、これは独ソ戦末期のヴィスワ=オーデル攻勢におけるソ連軍の兵数とおおむね同じくらいのものです。舗装された道路も鉄道もない時代、これだけの兵力を補給を維持しつつ展開するのはどう考えても無理です。なお、クセルクセスの遠征軍の兵数に対して修正案が提出されだしたのは19世紀の末くらいからで、以降文献学・兵站学・人間工学をもとに、10万人前後であろうとする推定数が複数提出されました。
(32) 様々な例があります。ディオドロスによると、ペルシアでは昔から女性たちが戦場に付き従ったといいます(Diod. 17.35.3.)。確かに、キュロスの軍の近くには女性たちがいたようですし(Plut. Mor. 246a-b; Polyaenus 7.45.2; Xen. Cyr. 6.3.30, 6.4.2ff)、カンビュセスの妻はエジプト遠征に同行しましたし(Hdt. 3.31.)、クセルクセスの遠征軍の中には料理を作る女性や、妾も大勢いたといいます(Hdt. 7.83, 187.)。
 さて、ダレイオスの陣中にあって、戦闘後アレクサンドロスに捕まった女性たちはたくさんいました。青木氏も「母親のシシュガンビス、……(略)……パリュサティス王女など」と述べています。詳しく見ていくと、①アルタクセルクセス3世の妻と、②パリュサティス以外の二人の姉妹、③ダレイオスの姪、④臣下であるアルタバゾスの妻と息子、⑤ファルナバゾスの妻と子、⑥ロドス人メントルの三人の娘、⑦ロドスのメムノンの妻(バルシネ)と子どもが挙げられます(Curt. 3.13.12-14. cf. Heckel (2006) pp. 274-275.)。ほかにも楽器を演奏する役割を担っていた329人の妾も捕まりました(Ath. 608a。ちなみにアテナイオスはこのほかにも花冠の作り手46人、277人の料理人、29人の湯沸かし係、13人の牛乳調理係、17人の飲み物係、70人のワイン係、14人の香料の作り手を挙げます)。
 このほか、ペルシアだけでなくアッシリアでも(Xen. Cyr. 3.3.67.)、リュディアでも(Xen. Cyr. 4.2.29.)、ヒュルカニアでも(Xen. Cyr. 4.2.2.)、黒海北岸のサウロマタイ人も(Hdt. 4.117.)、そしてギリシア世界においても——それこそホメロスの叙事詩の中にも——女性が軍と行動を共にする例はいくつも見いだすことができます(cf. 櫻井 (1998) 138〜171頁)。むしろ、女性が軍中にいなかった方が珍しいのではないでしょうか(Plut. Cleom. 33.)。
(33) Hdt. 3.130; Plut. Them. 26.5.
 宦官は王族の女性たちへの取次を行ったり(Ctesias F 8c)、女性たちから命令を受け、行動することもありました(Ctesias F 27(72))。
(34) Hdt. 1.136. Pl. Laws 694d-695b
 これがペルシアの王子の場合、女性のもとで育つのではなく、宦官が育てるのだとする史料もあります(Pl. Alc. I. 121d-e)。
(35) Ctesias F 15(55)=Photius 72.43.a16-a18.
(36) Curt. 3.3.22.
(37) 実地踏査の成果としては、森谷(2013, 2017)。
(38) Diod. 17.67; Curt. 5.3. cf. Heckel (2006) p. 156; Heckel (2008) p. 81.
(39) Arr. 3.17.1ff; Diod. 17.67-68; Curt. 5.3-4. cf. Brosius (2003) pp. 181-183; Heckel (2006) p. 45; Heckel (2008) pp. 81-82; ボーデン (2019) 63〜65頁
(40) Curt. 4.10.19-21. クルティウスによると、ドリュペティスの母スタテイラの死因は疲労によるものでした。ところが、プルタルコスとユスティヌスは彼女の死の原因が流産によるものとしています(Plut. Alex. 30.1; Just. 11.12.6.)。流産の場合、スタテイラがアレクサンドロスの虜囚となってから1年半が経過しているので、その子が夫ダレイオス3世の子だったとは考えられません。では誰の子か? おそらく、アレクサンドロスの子でしょう。
 アレクサンドロスがペルシア王族の女性たちに対して親切に振る舞ったことは、古典史料のあちこちに見出されますし、さらにポピュラーカルチャーにおいても、絵画や映画や漫画などを通してすっかり有名になりました。ですが、そうした女性たちに対し、アレクサンドロスが何一つ手出しをしなかったと考えるべきではないように思います(cf. Carney (2000) pp. 93-100; Carney (2003) pp. 247-248; Heckel (2006) p. 256; Heckel (2008) pp. 84-85.)。
(41) ユスティヌスは紀元後3世紀頃の、オロシウスは紀元後4〜5世紀頃の人間と推測されます。両者ともミトリダテス1世の時代から400〜600年ほど後の人物で、彼らの著作は決して同時代史料ではありません。そうした点で、彼らの記述はいささかその価値を減じるやもしれません。さらに他方で、オロシウスの記述——ミトリダテス1世がバビロンを征服した後、ヒュダスペス川とインダス川を越えてインドに侵入した?——はレトリックを用いたものにも見えます。ようは、オロシウスは事実そのものに関心を持たなかったようなのです。こうした、オロシウスの著作の修辞的な面の読解についてはファン・ヌフェレンの研究が参考になりましょう(Van Nuffelen (2012))。
 いずれにせよ、青木氏の「一切伝わっていない」というのは、こういった史料そのものを蔑ろにするものです。

文献略号

・Amm. アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』
・And. アンドキデス「弁論」
・App. アッピアノス『ローマ史』
・Arr. アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』
・Ath. アテナイオス『食卓の賢人たち』
・Ctesias クテシアス「断片」
・Curt. クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』
・Dem. デモステネス「弁論」
・Diod. ディオドロス『歴史叢書』
・FGrH ヤコービ編『ギリシア史家断片集』(Jacoby, F. hrsg., Die Fragmente der griechischen Historiker)
・Hdt. ヘロドトス『歴史』
・Hom. Il. ホメロス『イリアス』
・Hom. Od. ホメロス『オデュッセイア』
・Isid. Etym. セビリアのイシドルス『語源』
・Isoc. イソクラテス「弁論」
・Jord. Get. ヨルダネス『ゴート史』
・Josephus AJ. フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』
・Just. ユスティヌス『地中海世界史(ポンペイウス・トログス摘要)』
・Oros. オロシウス『異教徒に反駁する歴史』
・P. Oxy. 『オクシュリュンコス・パピルス』
・Photius フォティオス『図書総覧』
・Pl. Alc. I. プラトン『アルキビアデスI』
・Pl. Laws プラトン『法律』
・Plut. Alex. プルタルコス『アレクサンドロス伝』
・Plut. Art. プルタルコス『アルタクセルクセス伝』
・Plut. Cim. プルタルコス『キモン伝』
・Plut. Cleom. プルタルコス『クレオメネス伝』
・Plut. Mor. プルタルコス『モラリア』
・Plut. Them. プルタルコス『テミストクレス伝』
・Polyaenus ポリュアイノス『戦術書』
・Polyb. ポリュビオス『歴史』
・Pompon. ポンポニウス・メラ『世界地理』
・Procop. De Bellis プロコピオス『戦史』
・Ps.-Skymnos 偽スキュムノス『周航記』(行数はMüller, K. hrsg. (1860) Geographi Graeci Minores I (Paris). に準拠)
・Steph. Byz. ビュザンティオンのステファノス『民族誌』
・Strabo ストラボン『地理誌』
・Xen. Anab. クセノフォン『アナバシス』
・Xen. Cyr. クセノフォン『キュロスの教育』

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・平山郁夫シルクロード美術館 編 (2010)『栄光のペルシア』山川出版社
・ブリアン, P. (1996)『ペルシア帝国』創元社 (柴田都志子訳)
・ボーデン, H. (2019)『アレクサンドロス大王』刀水書房 (佐藤昇訳)
・マーコウ, G.E. (2007) 『フェニキア人』創元社 (片山陽子訳)
・森谷公俊 (2000a)『王宮炎上』吉川弘文館
・森谷公俊 (2000b)『アレクサンドロス大王: 「世界征服者」の虚像と実像』講談社選書メチエ
・森谷公俊 (2007)『アレクサンドロスの征服と神話 (興亡の世界史01)』講談社
・森谷公俊 (2013)『図説 アレクサンドロス大王』河出書房新社
・森谷公俊 (2017)『アレクサンドロス大王東征路の謎を解く』河出書房新社
・師尾晶子 (1990)「カリアスの平和: 前5世紀のギリシア-ペルシア関係をめぐって」『クリオ』4号、23〜42頁
・ロム, J.S. (2016)『セネカ 哲学する政治家: ネロ帝宮廷の日々』白水社 (志内一興訳)

図版出典: Wikimedia Commons "Alexander (Battle of Issus) Mosaic"
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alexander_(Battle_of_Issus)_Mosaic.jpg

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