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「きっと何者にもなれないぼくたちに告げる」

▼また一つ,悲しい事件がありました。23歳の大学生が家族・親族をボーガンで撃ち,3人が亡くなり,1人が重傷を負った,という事件です。

▼こうした若者による事件の報道では,どういうわけか被疑者の卒業アルバムや卒業文集,作文などがメディアで晒されるのが常になっています。もちろん,過去に書いたものの中に「動機」につながるものがある可能性もありますが,過去に書いたものから未来の行動を予測するなどとうていできませんし,たとえ裁判や取り調べで被疑者が自ら動機について語ることがあったとしても,それは結局のところ「後付けの理屈」に過ぎませんから,「本当のところ」は誰にもわからないものです。

「太陽が眩しかったから」

▼フランスの作家・カミュが書いた『異邦人』という小説の中で,主人公のムルソーは行きがかり上,海岸で見知らぬアラブ人を殺してしまい,裁判でその動機を「太陽が眩しかったから」と答えます。当然ながらその答えに周囲は誰も納得しません。殺人を犯した翌日の行動ともあわせ,ムルソーは全く反省していないとみなされ,死刑を宣告されます。

▼しかし,ムルソーの「本当の動機」など誰にもわかりません。ひょっとしたらムルソー自身にも。だから「太陽が眩しかったから人を殺した」という因果連関は,ムルソー自身の中では最適解だったのかもしれません。しかし,それは裁判においては(そして「日常生活」においても),きわめて不条理な因果連関だとみなされます。もし,ムルソーが「アラブ人からナイフで刺されそうになって,自分の身を守るために仕方なく発砲した」と答えていたならば,周囲の人々は納得したかもしれませんが,それはムルソーからすれば「本当の動機」ではなく,むしろ「嘘」をつくことになった可能性もあるはずです。

「動機の解明」が再犯防止につながる?

▼このように,犯罪に限らずすべての行為の「動機」は,結局のところ,本人にもよくわかっていない「後付けの理由」に対して,周囲がそれを納得して受け入れるか否か,という問題に他なりません。「客観的に唯一絶対に正確な動機」などありはしないのです。そこにあるのは「常識的にもっともらしい動機」だけです。容疑者の過去の言説をメディアが晒したところで,それは「本当の動機」の解明にはつながりません。むしろ「常識的にもっともらしい物語」の構築を助長するだけであって,「こういう発言をしたヤツが犯罪を犯す」という偏見を助長する結果につながる可能性の方が高いはずです。

▼さらに言えば,「動機の解明」が再び同じような事件を起こすことを止めることもできません。仮に,何らかの「動機」が解明されたとしても,人間の行為の原因は心の動きだけではありませんから「動機を解明すれば再犯防止につながる」と断定するのはあまりにもナイーブな考え方だと言わざるを得ません。Aという行為の背景にBという動機があることが仮にわかったとしても,Bという動機があれば必ずAが生じるという保証はどこにもないのです。

▼しかし,残念ながら私たちは複雑なものごとを単純化して考える傾向があります。「犯罪」には「明確な動機がある」と考え,「動機」には「過去の経歴が関係する」と考えて「動機探し」に躍起になります。マスメディア自身もその考え方を内包しているため,被疑者の過去の卒業アルバムや卒業文集,作文などを晒して,あたかもそこに動機につながる何かがあるように見せ,大衆の留飲を下げるのです。

「いつかなりたい者になります」

▼実際,今回の事件でもそうした報道がなされています。

〇〇容疑者の人柄とその動機とは?

小学校の卒業文集:
何かを変えたいと思えば全て自分で変える「〇〇〇〇」

これは〇〇容疑者が小学校の卒業文集につづった言葉だ。

〇〇容疑者の卒業文集:
将来の夢をいつか必ず見つけて、なりたい者になります

締めくくりに大きな「心」という文字を書いていた。

大学4年になった〇〇容疑者。一体何を思い、家族に矢を放ったのだろうか?

https://www.fnn.jp/articles/-/49559 より。一部,引用者により伏字)

▼被疑者が卒業文集に「何かを変えたいと思えば全て自分で変える」「将来の夢をいつか必ず見つけて,なりたい者になります」と書いていたことと,犯行の「動機」との間には何の因果連関もありません。もし,この間に因果連関があるとしたら,同じようなことを書いていた小学生はすべて,将来の「犯罪者予備軍」とみなされてしまうことになります。

▼しかし,この報道では「人柄と動機とは?」という見出しの下で,唐突に過去の文集の文面が引用されています。つまり「過去に書いた文章の中に,犯行(の動機)につながる要素があるのではないか」という報道側の偏見が,あたかも自然な流れのように反映されていると言えるのです。

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」

▼ただ,私はそうした「動機の解明」云々とは別に「将来の夢をいつか必ず見つけて,なりたい者になります」という被疑者の言葉そのものに関心を持ちました。

▼この言葉を読んで思い出したのが,アニメ『輪るピングドラム』の中の有名なセリフです。

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」

▼主人公は,高倉陽毬(ひまり)とその双子の兄,冠葉(かんば)と晶馬(しょうま)の3人家族です。彼らは3人で仲睦まじく暮らしていましたが,ある日,3人で訪れた水族館で陽毬が倒れ,病院に搬送されたものの亡くなります。悲しみに暮れる冠葉と晶馬の目の前で,突然,水族館で買ったペンギンの帽子をかぶった姿の陽毬が「生存戦略!」という叫び声とともに別人格の「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」として蘇生します。そして彼女は兄弟に対し,陽毬の命を救いたければ「ピングドラム」を探してこい,と命令します。その時に語られるのがこの「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」というセリフです。

▼私たちはたいてい,子どもの頃,「何かになりたい」という夢を持ちます。しかし,その夢はそう簡単に実現するものではありません。むしろ,子どもの頃の夢をそのまま実現できる人の方が少ないのではないでしょうか。あるいはその「何か」を見つけることすらできず,焦りや怒りや苦しみを感じることもあるはずです。そして,成長するにつれて「何者にもなれない」現実に直面するのです。

この背景にあるのは「何者かにならねばならない」という圧力です。家族や教師など他者からの,そして自分自身からの有形無形の圧力です。ただし,この「何者かになる」とは,有名人になる,ということではありません。「『普通に』学校を出て,『普通に』就職して,『普通に』日々の暮らしを営む」ことも「何者か」になることと言えるでしょう。

▼しかし,その「普通に」ということすら難しいのが今の社会です。「普通」のハードルが高くなりすぎていることがその原因の一つです。正規雇用が減らされ,不安定な非正規雇用にならざるを得ない可能性が高い現状では「普通に」会社勤めすることも難しくなっています。また,自分が選んだ道に適した能力があるかどうかは,実際にその道を選んでみなければわかりませんが,学校でも仕事でも,一度ドロップアウトしたら容易にやり直しがきかない競争社会では「これがダメならあれをやろう」という気軽な選択すらできません。そしてさらに今,コロナウィルス禍で私たちは「未来」を失う可能性の増大を目撃しています。「きっと何者にもなれない」まま死ぬ可能性,その恐怖に脅える毎日を過ごさざるを得ないという現実に直面しています。

何者かにならねばならない,だけど,きっと何者にもなれない。私たちはその狭間で「何者かになりたい,ならねばならない」と悶々と過ごし続けるしかないのかもしれません。

▼被疑者の「将来の夢をいつか必ず見つけて,なりたい者になります」という言葉は,決して他人事ではありません。私たちは皆「なりたい者になる」と思って日々を過ごしているはずですから。ただ,その「なりたい者になる」という願望だけが肥大し,結局何者にもなれないまま,「きっと何者にもなれない」という現実を突き付けられた時,どうその現実に立ち向うべきなのか。一般化した答えを出すことは私にはできません。全ての人が救えるような答えを見つけることはできません。しかし,少なくとも,自分にとって大切な人がその悩みに直面した時には支えてあげられる自分でありたいと思いますし,自分自身も常にその現実と理想とのせめぎあいの中で足掻いていこうと思うのです。

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